ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

怪人編25/戦闘巧者だが常識オンチでも

戦闘にメッチャ強かった、あるいは巧みな戦運びだったと評価される人物は歴史の
中に少なからず登場しています。
そうした人物を、少し探ってみると、共通して「常人を超えた能力」を備えていた
ことが強調されていることに気が付きます。


しかし、これはある意味当然なことで、「平々凡々」の能力しか持っていない人物を
「戦闘巧者」とは呼ばないからです。
「常人を超えた能力」を備えているからこそ「戦闘巧者」との評価も得られたという
ことです。


しかし、そうした反面で「常識に無頓着」、あるいは言葉はちょっとヘンですが、
「常識に非常識」という面を共通して備えていることにも気がつきます。
確かに、常識に囚われた行動しかできないのであれば、それはとりもなおさず
平々凡々ということに過ぎず、決して戦闘巧者ということにはなりません。


しかし、この点で、筆者が指摘したいのは、言葉を換えれば「常識知らず/常識オンチ」
という点なのです。
えぇ、常識というものを知っているがそれには拘らない、というのではなく、常識と
いうものがハナから備わっていない、欠落している、というケースを意味しています。


能書きばかりを並べていても分かりにくいでしょうから、一つ具体的な例を挙げて
みましょう。
これは歴史というよりは神話時代のお話になりますが、たとえば日本武尊です。
父・景行天皇の命を受け、西(熊襲)へ、東(東国)へ、抵抗勢力の征伐に
出かけています。


   日本武尊

 
もちろん、そうしたことには我が身が危険に遭遇することもあるのですが、その都度
機転を利かせて危機脱出に成功していますから、その意味では「戦闘巧者」と判定

しても差し支えないように思えます。
しかし、その反面ではこんなエピソードも語られていて、日本武尊が「常識」という

ものを持ち得なかった人物だったことも分かるのです。


ある日のこと、毎日朝夕の食卓に顔を出さない大碓命(日本武尊の双子の兄)のこと
を案じた父・景行天皇が日本武尊(小碓命)に、
~ねぎし教えさとせ~こう命じたのです。 
現代語にするなら、
~丁寧に教え分からせてやってくれ~ほどの意味になるのでしょうか。


ところが、その言葉を受けた日本武尊はこんな行動を取りました。
~兄・大碓命が明け方に厠に入った時、捕まえて掴み潰し、手足をもぎとって
 薦に包んで投げ捨てた~


日本武尊本人は、こうすることが「ねぎし教えさとす」ことだと理解していたのです。
父・景行天皇の言葉を、常識的な意味合いで解釈ができなかった。
つまりは、トコトンの「常識オンチ」だったことになりそうです。


そうした「常識オンチ」は何も神話に限ったものではありません。
歴史の中にも、きっちりその「症状」をみることができるのです。
たとえば、源義経(1159-1189年)もその一人。


平家軍を相手にした、「一の谷の戦い」(1184年)「屋島の戦い」(1185年)
「壇ノ浦の戦い」(1185年)と三つの大決戦において、なんと「三連戦三連勝」と
いう絵に描いたような大勝利を収めましたから、「戦闘巧者」であることは
疑いの余地がありません。
というよりは、むしろ戦闘の天才と称するべきかもしれません。


しかし、その中身を覗いてみると、
「一ノ谷」では、馬と共に崖を駆け下り、敵の背後から攻撃する、
 いわゆる「ひよどり越え」を決行。
「屋島」では、自軍の船に逆櫓を設けることなく、「前進か死か」という究極の
 作戦を選択。
○さらに「壇ノ浦」では、当時の戦の作法に反して水手・梶取まで射るに及んだ。


つまり、いずれの作戦も当時の「常識」を無視した戦術で、言い換えるなら、
義経がメッチャ「常識オンチ」だったからこそ実行できた、ということです。
ただ、天才武将と言われるだけのことはあって、義経の「常識オンチ」はこれだけ
ではありませんでした。


ちゃっかり朝廷から御褒美(任官)を受けていたのです。
このことに、兄・源頼朝(1147-1199年)が、湯を沸かせるほどに頭に血を上らせた
のも無理もありません。


~ええぃ、我らはなんのために戦っていると思っているのか?
 朝廷から独立したパワーを備えるためではないかッ!
 あぁ、それなのに、義経の野郎めはその朝廷から褒美を戴いて舞い上がっておる。
 なんちゅう愚かでバカで阿呆な「常識オンチ」なのだ~


頼朝からすれば、折角積み上げてきた自らの陣営の実績が「総崩れ」になってしまう
恐れもあるため、義経の行動を放置しておくわけにはいきません。
そこで「義経追討」です。
ということですから、この「義経追討」というのは
~常識をもった頼朝の常識的な行動~だったことになりそうです。


   

 源義経(壇ノ浦の戦い/八艘飛び) / 楠木正成(千早城の戦い)  


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さて、お話が少し飛躍してしまいますが、「儒教」「新儒教」です。
このうちの「儒教」とは、もちろんメッチ古い時代の中国の思想家・孔子
(前552?551?-前479年)に始まり、漢の時代には国教(前136年)にまで
なった思考・信仰の体系を言います。


では、もう一つの「新儒教」とは?
それよりずっと後、中国・南宋の朱熹(1130-1200年)によって築き上げられた
新しい儒学のことで、別に、朱熹の名を冠した「朱子学」との名称でも知られて
いますが、元の「儒教」に比べたら、何かにつけストイックな雰囲気が強まった
印象の思想です。


ところが、どういう加減か、この「朱子学」は割合に早い時期に日本にも伝わり、
そしてそれなりに普及もしました。
なぜ、そんなことが分かるかと言えば、第96代・後醍醐天皇(1288-1339年)が、
すでにこの「朱子学」の熱心な信奉者になっていたからです。


信奉者は朝廷という「超上流社会」だけにとどまるものではなく、幕府に与しない
在地領主や新興商人、はたまた有力農民らの集団である、いわゆる「悪党」
呼ばれる人々の中にもいました。
代表的な人物を一人だけ挙げるなら、河内を本拠としていた楠木正成
(1294―1336年)がそうでした。


片や「天皇」、片や「悪党」という、妙に凸凹のある結び付きがどのように実現
したのかは承知しませんが、両人に「朱子学信奉者」という共通点があったことは
確かです。


そして、この楠木正成は、後醍醐天皇の夢である「天皇親政」実現のため、
粉骨砕身の働きを見せることになります。
えぇ、「赤坂城の戦い」(1331年)や「千早城の戦い」(1333年)など、
あちらこちらの戦いにおいて、敵である鎌倉幕府軍を散々に翻弄し、その
「戦闘巧者」ぶりを見せつけたのです。


だったら、この楠木正成もまた、上の日本武尊や源義経のような、いわゆる
「常識オンチ」の傾向を備えていたのか?
そう問われれば、そう感じさせるものがないでもありません。
戦場において実行した作戦です。


一般的な野戦よりは、むしろ籠城戦の形態が多かったこともあって、果敢に城攻めを
仕掛けてくる敵方兵士に向けて、弓を射掛ける、投石をする、熱湯を浴びせるなど、
正攻法以外にも多彩な防衛手段を用いたとされています。


しかし、上の作戦はともかくとしても、こちらの場合は如何なものでしょうか?
~城攻めの敵兵士に向けて、煮えたぎった糞尿を撒き散らす~


当時の戦の作法をよくは承知していないので、強く主張するものではありませんが、
その場面を想像しただけでも「オエッ!」となりそうな、この作戦って「常識オンチ」
でなければ、とても実行できないのでは?


ところが、識者に確かめてみると「常識オンチには当てはまらない」との回答です。
なんで?
~この場合は「常識オンチ」ではなく、「常識ウンチ」であるッ!~
最後は腰砕けのダジャレになってしまい、真面目に読んでいてくださった方には
まことに申し訳ありませんでしたねぇ。


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