ヤジ馬の日本史

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謎解き編34/日本民族の秘めたる信仰心

日本民族は無宗教・無信仰である。
こんな意見もあるようですが、筆者的にはこれはちょいと違うのではと感じています。
むしろ、真相はこんな風に言えそうな気もしているのです。
~日本民族はメッチャ強力な、それもいくつかの信仰心を有している~


例えば、大晦日には除夜の鐘の音に触れ、新年には神社へ詣でるなどの行動は、
仏教と神道の両方を受け入れていることの分かりやすい例として、割合よく
挙げられます。
しかし、こうした姿は心理の面だけに留まらず、その外側にまでハミ出して、
具体的な行動になったものです。


そうしたものがあるとするならば、逆に、
~真理の外側まではハミ出さないで、心理の内面に留まったままでいる信仰心も
 あるはずだ~

筆者的がこうした印象を持つのも、決して不自然ではないはずです。


そこでそうしたもの、えぇ、初詣の参拝やハロウィンの扮装のように、明瞭な
姿・カタチとして黙視確認ができるまでに達していない、非常に地味で、言葉を
換えるなら、「日本民族の秘めたる信仰心」とも言うべき心情を探してみることに
しました。


ただし、以下は私論というほどに格式ばったものではなく、まあ、そうした信仰心に
対する筆者の心象風景程度のものですので、異議・異論があった場合でも、そうそう
目くじらを立てないで十分な寛容と忍耐を備えて接して頂きたいと思います。


 

   菅原道真




さて、まずは「怨霊信仰」ともいうべき心根を挙げることができそうです。
これは、昔の昔から受け継がれてきたもので、さしずめ「日本民族の身分証明」
もどきの信仰心かもしれません。
事実、これまでの日本史にも、この心情が大きく影響を及ぼしています。


それぞれの詳細な経緯は省略しますが、例えば、
「奈良の大仏の建立」(開眼752年)や、「天神様(菅原道真)誕生」(947年)、
はたまた「崇徳上皇に対する(天皇家の)配慮」(1164年崩御以降20世紀まで)
なども、そうした「怨霊信仰」があったことの証拠として挙げられそうです。


「怨霊に対する畏れ」を抱き続けてきた先人の末裔こそが、我ら現代日本人ですから、
そのDNA、つまり言葉にするなら「怨霊(に対する畏れの)信仰」というものを
引き継いでいることは間違いないのです。


具体的な例を挙げるなら、たとえば実力行使と話し合いのいずれかを選択しなければ
ならない場合、現代日本人でも多くの場合は話し合いを志向するはずです。
なぜなら、実力行使を選択すれば、必然的に負け組(怨念)を生むことになり、
その「怨念」が禍に働くことを、現代日本人も本能的に承知しているからです。
先人たちのDNAをバッチリ引き継いでいるということです。


また、下の説明にもある「言霊信仰」も挙げられそうです。
~言語そのものに霊力が宿っているという信仰。
 ある言葉を口に出すとその内容が実現するという、一種の宗教的信仰とも
 いえるもので、祝詞、忌み言葉もその現れである~


ええ、現代日本人でも、受験生を前にして「落ちる/すべる」などの言葉を
使わないように気を遣うなどは、まさに~ある言葉を口に出すとその内容が実現する~
ことを信じている、何よりの証拠です。


また「血統信仰」というものも持っていそうです。
そもそもが、「天皇」という存在そのものがその信仰の上にあって、天照大神の子孫
しかなれないとされているのですから、これも「ない」とは言い難い印象になります。


ですから、天照大神の子孫ではなかった、例えば室町第三代将軍・足利義満
(1353-1408年)、あるいは戦国の雄・織田信長(1534-1582年)、はたまた
江戸幕府初代将軍・徳川家康(1543-1616年)らが、「天照大神の子孫である天皇」の
権威を超えようとした努力は半端ではなく、そのことがまた、歴史そのものを作って
きたという事実も確かにあるのです。


もっと下世話な例をあげるなら、現代にも二世議員/三世議員と呼ばれる方々が
少なからず存在している事実は、こうした「血統信仰」が広く行き渡っていることの
非常に分かりやすい例なのかもしれません。


      

     織田信長像 / 江戸時代の銭湯風景


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~至誠天に通ず~(まごころをもって事に当たれば好結果がもたらされる)
こんな言葉があり、またそれを根っから否定する人も少ないところからすれば、
「至誠信仰」とも言うべき心情も持っていそうです。


しかし、口答えをするようで恐縮なのですが、現実を冷徹に眺めれば、身もフタもない
言い方で大変恐縮ですが、これは「虚構」に過ぎません。
だって、そうでしょ。


例えば、「至誠」をもって受験に臨んだら必ず合格するかと言えば、そうでないことは
子供でも分かることです。
「至誠」はあっても「天に通」じないことがあるというのが現実なのです。


しかし、子供でも分かる理屈を無視したこの言葉が現代でもそれなりの人気を得て
いるということは、そうあって欲しいとする無意識の強い願望があって、さらには
そうなることの方が、そうならない場合に比べて、ずっと心が落ち着くということ
なのでしょう。


つまり、合掌するとか扮装するとかいう姿・カタチにまでは現れてはいないものの、
いうなれば「日本民族の秘めたる信仰心」のひとつだと言ってよさそうです。


さて、昔の日本人と現代日本人と比べた場合、現代日本人の方が圧倒的に強く
備えている信仰もありそうです。
その一つに、「ブランド(商標)信仰」を挙げてもさほどの異論は飛んでこないでしょう。


ちなみに、この「ブランド信仰」という言葉は、こんな意味合いで使っています。
~有名ブランド=高品質と信じて購買すること。 また有名ブランド品を身に
 つけたり、所有したりすることがステイタスであるとする思想~


なんとも大袈裟な定義になりますが、そんなら、そもそもその「ブランド」とは何ぞや?
~マーロン・ブランド(Marlon Brando/1924―2004年)
 『波止場』(1954年)、『ゴッドファーザー』(1972年)で二度のアカデミー賞
 主演男優賞に輝いたアメリカの映画俳優~

確かにこちらもブランド(Brando)には違いありません。


しかし、「ブランド信仰」の場合のブランドは(brand)と綴り、最後の「o」が
付くか付かないかで、てんで違うものなのです。
そして、この場合の「ブランド」の意味合いは、このように説明されます。


~自社製品を他社製品と区別させることを意図して設計された名称、言葉、
 シンボル、デザイン、もしくはそれらの組み合わせ~

法的用語の「商標」(トレード・マーク)に対し、ブランドは一般的な用語になる
との説明です。


「日本民族の秘めたる信仰心」としては、まだまだいくつか挙げられそうですが、
「清浄(清潔/無菌)信仰」もどき、簡単に言うなら、病的?清潔好きも、
突き詰めればそれに該当するのかもしれません。


神話にもそうしたエピソードは語られています。
~イザナギが禊(身体を清める)をした際に生まれたのが天照大神である~
その天照大神を皇祖心として崇めているのですから、日本民族は昔の昔から
「清浄/清潔」に大きな価値をおいていたことになります。


いえ、こうした「清浄(清潔/無菌)信仰」は神話の世界だけではありません。
ぐっと時代が下って。幕末の時期に来日した外国人のこんな驚きの声が、エピソード
として残されています。


~なんと、この日本では庶民までもが毎日入浴し、身体の清潔に保つ習慣
 を有しているッ!~

その外国人の母国では、想像もできない光景だったということでしょう。


さらに、20世紀になると「抗菌グッズ」なるものが誕生し、大いに好評を博しました。
抗菌鉛筆や抗菌クリーニングなど、「抗菌」の文字があれば、それは通常品より
さらに「清浄/清潔/無菌」な状態であると受け止められ、歓迎されたということです。


21世紀の「新型コロナ」騒ぎになってからの、マスク着用や消毒実行が割合少ない
抵抗で受け入れられたのも、こうした信仰背景があってのことでしょう。
ですから、これは内なる「清浄(清潔/無菌)信仰」が、マスクや消毒と言う
目に目える形で姿・カタチを現したものだと言えるのかもしれませんねぇ。



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