ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

列伝編27/幕末与力、捨身の写真撮り

住兵衛

後に日本最初期の職業写真師のひとりとして名を挙げられることになる上野彦馬

生まれたのが1838年のこと。 

奇しくもその翌年(1939年)に、写真技術(銀板写真/ダゲレオタイプ)が

発明されています。 


そして、早くも1840年代には欧米で一種の「肖像写真」ブームが見られたそうですから、

人間のやることは、古今東西そんなに違いがないのかもしれません。

またそうした人気によっての技術改良がさらに進められていき、写真技術の一段の

向上にも繋がっていったのでしょう。


それはともかくも、「肖像写真」を撮ることは、そのこと自体が大層な難儀が伴う

作業だったようです。 こんな塩梅です。

より鮮明な画像を得るためには、被写体には長時間に渡る不動の姿勢が求められ、

すなわち、肖像写真のモデルはその間原則「タイムッ!」は許されないわけで、

これが結構苦痛を伴うものだったといわれています。


また日本では、そうした写真を撮れば「魂を抜かれてしまう」と信じられていた

時期でもありました。

目の前のレンズと長時間の睨めっこをした挙句に、出来上がってくるのがまさしく

「ミニサイズの自分」なわけですから、「魂を抜かれて」そちらへ移ったという感覚も

まあ分からないでもありません。


ではでは、こうした「肖像写真」の被写体として最初に収まった日本人は誰か?

この質問には「現存する」という条件が付くものの、どうやら1854年にアメリカ人が

撮影した「田中光儀」の姿だとされています。


そのアメリカ人とは、ペリーに随行した写真家で、エリファレット・ブラウン・ジュニア

(1816-1886年)という人物であり、また蛇足ながら、この写真を含め、計6点の

肖像写真が現存しているとのこと。

いずれも1854年撮影で、しかも内5点は重要文化財に指定(2006年)されています。


さて、そういうことだったらこの「田中光儀」なる人物が本邦初のモデル?に

選ばれた理由はなんだったのでしょう? 

~日本人離れしたとんでもないイケメンだった~

この辺は多少微妙でもありそうですが、当時この田中が浦賀奉行与力として

ペリーとの交渉に当たっていたこともおそらくは大きな理由になったのでしょう。


しかし、その指名?には当の田中も大いなる困惑を覚えたに違いありません。 

それが誰であれ、見たが初めて聞いたが初めての、まったく得体の知れぬ

「仕掛け」の前に立つことには、少なからずの気後れが働くものです。

さりとて奉行与力という立場もあって、賓客様の不興を買うような真似もできません。


   与力・田中光儀


奉行~田中クン、君がモデルになりなさいッ!~

田中~ええぇなんでワタシが? 相手様のご好意に報いるのなら、御奉行様が

   ゼッタイに適任だと思われますが?~

奉行~うん、そうしたいのはヤマヤマであるが、「黒船来航」によって私が多忙を

   極めておることは君も重々承知しておろうが~

田中~(だからワシに? これではモロにパワハラではないか!)~


さて、無理やりにモデルになることを承諾させられ、目の前に鎮座する不気味な

機械と対峙します。

ところがそれだけでは済まず、さらには首根っこ固定用の台に押しつけられて、

不動姿勢をとる羽目に。


ああしてこうして身体全体が固められているところへ、さらにこんな言い付けが

飛んでくるのですから、もう生きた心地もありません。

~えぇか、このままの姿勢でしばらくの間は動いてはならんゾ~


田中~(今のオレの姿ってモロに「毒見役」であり「生体実験」の被験者だよなあ、

   御先祖様に申し訳がない、トホホのホ)~

逃げ場がないことは悟ったものの、目の前のレンズだけを眺め続けていると、

田中~(ああ、今オレは魂が抜き取られていくのを感じる・・・

   これが「幽体離脱」って感覚なのだろうか?)~


ところが、こんなてんやわんやの田中の「生体実験」?からわずか数年の後には、

つまり1861~1862年にかけて、すでに日本人の「職業写真家」が登場し、

それに伴い日本人による「写真館」が開業しているのです。


「鉄砲伝来」(1542年?1543年?)の折りもそうでしたが、新しい技術を目の当たりに

するや、たちまち自家薬籠中の物にしてしまうのが日本人の伝統であり、まさしく、

この「写真」の場合も例外ではなかったわけです。


たちまちの内に、鵜飼玉川(1807-1887年)/下岡蓮杖(1823-1914年)/そして

冒頭に挙げた上野彦馬(1838-1904年)などが「写真業」なるものを誕生させて

いるのですから、これには驚かずにはいられません。

ちなみに、有名な「肖像写真」としてすぐ思い浮かぶ坂本龍馬(1836-1867年)や

高杉晋作(1839-1867年)などの写真は、そのいずれもが上野彦馬の手によるもの

とのことです。


彦馬に限らず、さらには外国人・日本人を問わず、こうした人物肖像や風景風俗を

「写真」として現代に残してくれたこの時代の写真家たちの尽力努力には、

頭が下がる思いがします。

煎じ詰めれば、現代日本人はこうした諸々の写真から「幕末の雰囲気」をイメージ

していることになるからです。


さて、お話の方向が少し変わりますが、幕末期に活動した人物の「肖像写真」は、

この他にも桂小五郎土方歳三勝海舟など、それこそ枚挙に暇がないほど

残されています。

ところが不思議なことに、幕末の超有名人の一人・西郷隆盛(1828-1877年)だけは、

いわゆるこうした「肖像写真」を一枚たりとも残していません。


   

      坂本龍馬 / 西郷隆盛


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本人自身がその旨を「明治天皇」(1852-1912年)に告白しているからには、

このことは事実と見て間違いないでしょう。

これには理由があって、西郷どん自らが、暗殺を防ぐためには顔を知られない方が

安全と考え、敢えて「肖像写真」は撮らなかったとする解釈もあるようです。

つまり、有名な上の画像はあくまで「肖像画」であり、しかも死後に描かれたもの

だということです。


しかし、与力・田中光儀の「捨身の写真(しゃしんのしゃしん)撮り」の経緯や騒動を

思うと、「あえて撮らなかった」という言い分はいささかカッコウを付けた

見解であり、歴史の真実としては実はこちらの方が正しいのでは?


西郷~おいどんは暗殺されることよりも、写真で「魂を抜かれて」しまうことの方が

   よっぽど・・・えぇチビるほど怖かったのでごわす!~


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