ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

微妙編15/異議ありの戦国三大梟雄

これまでまったく無頓着だったのですが、ひょんなことから「戦国時代の三大梟雄」
なんて見方があることを知りました。
でもなんですか? その聞き慣れない「梟雄」(きょうゆう)って?


文字通りに「梟」(ふくろう)の「雄」(オス)のことかと思いきや、実はこんな
説明になっていました。
~残忍で強く荒々しいこと。 また、その人。 悪者などの首領にいう~
どうやら「正義の味方」の対極的な存在を示す言葉のようです。


念のために、多分野にわたって日本を代表する三つのもの、いわゆる「日本三大〇〇」
を集めたWikipediaの項目「日本三大一覧」を覗いてみました。
そこから「歴史」分野の、そのまた「安土桃山時代まで」とされた項目へと進んで
みたのですが、目的とした「三大梟雄」は見つかりませんでした。


そこに掲載されてしていたのは、
日本三大奇襲
 1・河越城の戦い 2・厳島の戦い 3・桶狭間の戦い。
日本三大水攻め
 1・備中高松城の戦い 2・紀伊太田城の水攻め 3・忍城のたたかい玉割譲の
三英傑
 1・織田信長 2・豊臣秀吉 3・徳川家康


さらに進んでも、
兵法三大源流
 1・陰流 2・神道流 3・念流
なんて、いささかマニアックな印象の「日本三大」であり、筆者が探す
「戦国時代の三大梟雄」に行き当たることはできませんでした。


   斎藤道三


ところが、その「三大梟雄」として以下の三人を挙げた文章に遭遇したのです。
その縁もあって、筆者も思い切りよく、その三人を「三大梟雄」として任命?する

ことにしたわけです。


そこに登場したお歴々に長幼順(だと推定される)形で並んでいただくとこうなります。
 〇斎藤道三(1494?1504?-1556年) 美濃国の戦国大名
     〇松永久秀(1508-1577年) 大和国の戦国大名
宇喜多直家(1529-1581?1582年?) 備前国の戦国大名


ということで、今回はこの御三方が「三大梟雄」とされるその理由を探ってみることに
した次第です。
歴史の中でも特に「三大」とされるからには、桁違いに~残忍で強く荒々しいこと~
やってのけているはずですから、その残忍ぶりを再確認してみようということです。


ところが首を突っ込んでみると、これがハナから肩透かしの格好に。
なぜなら、最初の「斎藤道三」についてはこのように説明されていたからです。
~最近まで、斎藤道三は僧侶出身、その後、一介の油売りから成り上がり、旧主から
 美濃(岐阜県南部)を乗っ取った「下剋上大名」の代名詞とされてきた。
 しかし、新史料の発見・研究により、道三の「国盗り」は、道三の父と道三の、
 親子二代によってなされたものと考えられるようになっている~


二代によってということなら、当然ですが一人の人間ではないことになります。
つまり、仮に文字通りに~残忍で強く荒々しいこと~を実行していたとしても、
そうした親子二代の事績をもって「三大梟雄」の「一人」にカウントするのは、
やはり筋違いと言うことになりそうです。


どうしても「三大梟雄」に挙げたいということなら、「道三の父」または「道三」の
別を選択する必要があります。
でも、~親子二代によってなされたものと考えられるようになった~こと自体が
「最近のこと」とされているのですから、それらをきっちり特定させる作業は、
まだまだ先のことになりそうです。
ですから、現段階で「斎藤道三」を「三大梟雄」の一人にカウントするのは、
いささか勇み足の感を拭えない印象になるわけです。


   

     松永久秀 / 宇喜多直家


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では、続く「松永久秀」は? 実はこんな説明になっています。
~久秀は当時、足利幕府を傀儡とし、近畿に覇を唱えていた三好長慶(ながのり/
 1522-1564年)に仕え、次第に頭角を現し、大和(奈良県)を領国とした。
 この頃、長慶の弟の十河一存や嫡男の義興が相次いで死亡。
 これらの死は久秀の暗殺によるものとする説もあるが、長慶はこれで政治への
 意欲を失い、久秀は勢力を伸ばす~


しかし、こうしたことが特別に~残忍で強く荒々しいこと~だとは、筆者には
思えません。 なぜなら戦国の世だったからです。
この時代は、少なからずの人間が謀略・裏切り・暗殺などを、しかも繰り返し実行
していました。
むしろ、そうしたことはごくごく「当たり前」のことであり、「時代の空気・常識・
御作法」というべきレベルのものだったように感じられるのです。


もう少し先へ進んでみましょう。 すると、
~長慶の死後は、三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)とともに、
 三好義継(ながつぐ/長慶の女婿/1549-1573年)を傀儡とし、室町幕府13代将軍・
 
足利義輝(1536-1565年)の暗殺にもかかわったといわれる。
 その後、三人衆や
筒井順慶と争うようになり、彼らが陣取った東大寺を攻撃、
 大仏殿を焼失させる~


さらにその後には、
織田信長(1534-1582年)への臣従と謀反を繰り返すが、最後は信長に攻められ、
 信貴山城に籠城。
 その際、信長は久秀が持つ名器・古天明平蜘蛛茶釜の献上を条件に助命すると
 伝えたが、久秀はこれを拒否。 城に火をつけ自害した~


そして、説明はその自害の具体的な方法にも及んでいます。
~一説には、その茶釜「平蜘蛛」に火薬を仕掛けて爆死したとも言われる~
ド派手な死に方ですが、その日は、
~奇しくも、久秀が大仏を焼いてからちょうど十年後の10月10日のことだったという~


ただこういう説明が続くと、「大仏様を害した」ことは「罰当たりな」メッチャの
ド悪事だったように感じてしまい勝ちですが、これも戦国の世という事情を
加味するなら、飛び抜けて~残忍で強く荒々しいこと~とも言い切れない印象です。
少しばかり乾いた言い方をするなら、「大仏殿」という建物と「大仏」像を火に
かけただけ、とも言えなくはないからです。


ということで、最後は三人目の「宇喜多直家」
幼少期にはこんな体験があったとされています。
~直家の祖父が裏切りにあい殺されると、直家は幼くして流浪の身となった~
そのままであったなら、この直家が歴史に名を残すことはなかったかもしれません。


つまり、このお話には続きがあるというわけです。
その後に直家母子は、祖父の主君だった天神山城主・浦上宗景(生没年不明)に
目通りし、家の再興を願う機会を得ましたが、その際に直家は母にこう勧めたと
されています。 ~化粧を濃くし、派手な衣装を着るように~


そのココロは? つまり、こういうことでした。
~好色な城主・宗景が、美貌の母に手を付けることを狙った~
そして、その目論見はまんまと成功します。
~直家の狙いは的中、母は宗景の妾となり、直家自身もまた宗景の近侍となった~


これで、やれメデタシメデタシで収まったかと言えば然に非ず。
~だが直家の“色仕掛け”はこれで終わらなかった~ どうして?
~直家は母に似た美少年で当時14歳。 そして宗景は男色も好んだのである~


当時、城下にはこんな俗謡が流行ったそうです。
「宇喜多母子は備前の畳、表(前)も裏(後)も役に立つ」
このあたりの意味は、読者各位にはよくお分かりのことと思います。


しかし、こうしたことはゴシップではあっても、~残忍で強く荒々しいこと~とは
言えない印象です。
ただ直家は、美少年でありながら合戦では極めて勇猛であり、その荒武者振りを
称えられ「白面の野猪」とも綽名されたのは事実のようです。


そして直家はその荒々しさが存分に発揮することで、一国の主となっていきました。
こんな按配です。
~浦上家中の実力者である舅・中山勝政(生年不明-1559年)を騙し討ちにし、
 その領地を手に入れるが、中山の娘である妻はその後自殺した~


これに留まるのもではありません。
~その上、妹や長女、二女、三女の婿を次々に毒殺、或いは騙し討ちにして勢力を
 拡張。 そして、ついに主君・宗景を追い出し、備前・美作の国主となる~
まさに「国盗り物語」もどきの運びです。


しかし、これとて戦国の世という時代事情を考慮するなら、「三大梟雄」とまで
言える行動なのかという点で、筆者などは実際少しばかりの疑問を感じています。
その規模や事情に違いがあったとしても、これに似たことを実行した人物は、
この時代には少なくなかったはずだからです。


そういう意味からも「戦国時代の三大梟雄」なんて概念や捉え方自体が、いささか
ナンセンスなものだと感じている今日この頃の筆者です。


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