ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

信仰編18/地域神社のミスティック碑文

とあるヒマ人(実は筆者のこと)がネット徘徊していたら、筆者の生息地域にある
小さな神社に触れた記事に遭遇したと思ってください。 
その神社はさほど有名でもない・・・というよりは、むしろまったく無名と
言った方が適切な印象です。


ただ筆者は以前からその神社の名称が珍しいこと、それに境内に立てられた小さな
石碑に彫られた文言、これらについて素朴な謎を感じていました。
そうではあっても、直ちに解決しなければ命にかかわる、というほどの大問題とも
思えなかったのでそのまま放置していた次第です。


そんな中で、今回思いもかけず、その神社のネット記事に遭遇したわけですから、
「ここで会うたも何かの縁」との思いになったのです。
そこで、そのネット記事に目をやると神社の沿革が案内されていました。 


〇1610年(慶長15)/創建。(当初は堀川の中州にあった)
〇1939年(昭和14)/現在地に移転。(名古屋市熱田区一番)
〇1945年(昭和20)/熱田空襲(1945・06・09)により焼失。
〇1950年(昭和25)/仮殿を建てる。
〇1974年(昭和49)/再建造営。
〇1981年(昭和56)/現在の社殿建立。 「波限神社」と改称


実は筆者が抱いていた謎には触れられておらず、少し残念な思いもしたのですが、
ところが世間は広いもので、この神社に関心を示したネット記事もあったのです。
ただ、そこには非常にマニアックな考察が並び、筆者の知識では到底消化し切れない
であろう内容も少なくありません。
そこで、折角の機会ですから、今回はその整理も兼ねて、なたネット記事も
チラ見しながら、筆者なりの「謎解明」に取り組んでみることにしたのです。


さて、筆者自身は手にしたことも目にしたこともありませんが、『愛知縣神社名鑑』
いう書物があって、そこにはこう記されているとのことです。
~(その神社は)社伝に、慶長十五年(1610年)名古屋城築造に際し、加藤清正築城の
 大石を運ぶに先立ち鵜戸神宮より御分霊を受け時の堀川口の千年町船方の小島に鎮座。
 祈願して無事運搬するを得てあつく崇敬したと伝う~


つまり、これが神社沿革の最初に書かれている
〇1610年(慶長15)/創建。(当初は堀川の中州にあった)
に該当するのでしょう。


ところが、ネット史家はこの記述を否定しています。(長文のため補足・要約)
~この話、私は信じない。
 尾張・中村生まれの
加藤清正(1562-1611年)は、豊臣秀吉(1537-1598年)とは
 幼なじみで、築城の名手でもあって、また名古屋でも人気があった。 
 そのために本当は清正の行為ではないのだけれど、清正が行ったとされている

 ことが結構多くある~


へぇ、そうなのかしらん? 
筆者のこの思いを見透かしたように、記事はその具体例も挙げていました。
~名古屋城の石垣にある巨大な石は「清正石」と呼ばれているけれど、実際は
 
黒田長政(1568-1623年/黒田孝高<官兵衛・如水>の嫡男)が運んできたものと
 いうのもそのひとつだ~


そして、加藤清正をこの神社の創建者と考えない理由も。
~1610年に名古屋城築城が始まり、清正が天守台の石垣を担当したのは間違いない。
 ただし、堀川はこのときまだできていない。
 福島正則が担当した堀川が掘られるのは名古屋城完成の後半で、清正が天守台を
 造るときはまだ掘り始めてさえいない~


ただし、この意見についてはWikipediaにこんな案内があったことも付記しておきます。
~なお、尾張藩の公的な記録集である『事績録』には、(中略)
 慶長16年(1611)6月には熱田白鳥から名古屋城下までの運河開削がほぼ完了した
 (中略)との記載がある~


ちなみに、その「堀川」にも触れておくと、
~江戸時代初期の名古屋開府に際して、建築資材運搬用の運河として伊勢湾から
 名古屋城付近まで開削されたことがそのルーツとされる~

もう少し乱暴に言い切るなら、
~「七里の渡し」(伊勢湾)から名古屋城まで、その距離約6Kmの人工河川(運河)~
ということで、その普請奉行を福島正則(1561-1624年)が務めたようです。


 

    熱田区・波限神社 / 石碑・まむし神様


お話が逸れ始めているようですから、ここで筆者の素朴な謎である「神社の名称」
「石碑の文言」に戻ります。
上記の神社の沿革の最後の行には、こんな記述があります。
〇1981年(昭和56)/現在の社殿建立。 「波限神社」と改称。


実はこの「波限」を正しく読める人は、地元人でもそうは多くないのでは?
というのは、これを「なぎさ」と読むからです。
なんで「なぎさ」になるのかは筆者の疑問の一つでしたが、これはネット検索という
手段を用い、大苦労の末に氷解できました。


御祭神は「天津日高日子波限建鵜草葺不合命」で、噛みそうですが音読するなら、
「あまつひたかひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと」となり、その中の
「波限(なぎさ)」となっている部分から採ったようです。
ただし改称する前の神社名についての追及はカックンと挫折してしまったのですが。


どうせのことなら沿革の文言を~旧「〇〇神社」から新「波限神社」へと改称した~
このようにしておいて欲しかった。
その一言があれば、何らの疑問も生じなかったわけですからねぇ。


では、境内の石碑に彫られた「まむし神様」とは?
非常に幸運なことに、このタイミングで「熱田の史跡 ガイドブック」という資料に
触れることができたのです。


こんな経緯で作成されたと、このガイドブック自身が紹介しています。
~熱田区標札(名古屋市教育委員会)、熱田神宮境内標札及び熱田史跡ガイドの会
 の資料を基にとりまとめたもので熱田史跡ガイドの会会員限定版として作成~

うっへー! そういうことなら、正座して拝見しなければなりません。


そこで、まずは目次を探してみると・・・あったァー!
定番案内コース以外の部門として、「観音と新田開拓」の括りの中に
「№102 波限(なぎさ)神社」という項目を見つけたのです。
ちゃんと振り仮名してあるところをみると、やはり正しく読める人は少ないという
ことなのでしょう。


それはともかく、勇んでその待望の№102ページに目をやると、なんと
加藤清正が築城の安全を祈り建立~ たったこれだけです。 
筆者が知りたい「神社改称」についても、また「まむし神様」についても一切触れて
おらず、正直なところ、拍子抜けを味わってしまいました。


こうなったら自分で解決する方法しかありません。
そこであちらこちらとネット徘徊をしてみたのですが、せいぜいのところ、
これくらいの見解で一件落着になっていました。
~当時、そのあたりではまむしが多く出没したのだろう~
要するに、「まむし」については触れているものの、「神様」の方については
とんとシカトです。

 

        大宰府天満宮 / 天神様・菅原道真


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そこで筆者は、その「神様」という言葉が「天神様」という言葉によく似ていることに
着目してみたのです。「天の字があるかないかだけの違いです。
~(天神様とは) 天満宮、またはその祭神である菅原道真を敬い親しんでいう語~


そういうなら、その菅原道真(845-903年)とは?
~平安初期の公卿・学者で、第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇に重用されたが、
 藤原時平の中傷によって大宰権帥に左遷(901年)され、その地で没した~


ところがその死後において、
〇908年/公卿に列した藤原菅根が雷に打たれて卒去。
〇909年/讒言した藤原時平が39歳で病死。
〇913年/右大臣・源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死。
〇923年/醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御。


その直後に、故・道真は生前の右大臣に復され、また正二位を贈られました。
要するに、朝廷周辺でこのような凶事が連続して起きたことを、当時の人々は
こう受け止めたということです。 
~これは、恨みを抱いた道真が怨霊となって為したものだ~


怨霊を鎮めるには、ひたすら慰撫し宥めるほかに方法はありません。
これが「怨霊信仰」の大原則です。
そこで、名誉を挽回させ位階も追贈し、慰撫し宥めに努めたのですが、それだけでは
望む効果は得られませんでした。 


そのため、その後もさらに、
〇930年/朝議中の清涼殿に落雷し、朝廷用心に多くの死傷者が。
〇930年/これを目撃した第60代・醍醐天皇も体調を崩し3ヶ月後に崩御。


これも、道真の怨霊が為したことと認識され、そこで今度は、
〇947年/北野天満宮において神として祀ることとした。
言葉を補足するなら、
~正一位太政大臣となり、学問の神・天満天神として崇められた~
ということで、要するに悪しき怨霊をひたすら慰撫し宥めることで善き御霊
変身?させたことになります。


だったら、「波限神社」「まむし神様」も、同様に怨霊信仰の路線上にある
のではないか? 筆者はそう考えました。 
つまり、創建当時の人々にはこんな意識があったと思うのです。
~数多の死傷者を出してきた「まむし」という大きな禍を、「神様」に祀り上げる
 ことで、大きな福に変えよう~


ただ、その「まむし神様」に祀り上げる行動が、ことわざにあるように本当に
「禍を転じて福となす」となったのかどうかについては、残念ながら、これも
資料不足で筆者はよく知りません。



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