誤算編22/天皇をクビにした実力者
数年前のことですが、生前に譲位された天皇が「上皇」となられた際にメディアは
こんな案内をしました。
~天皇が生前退位するのは約200年ぶりのこと~
そうかもしれんなぁ。
現上皇の先代である第124代・昭和天皇(1901-1989年)も、またその先代の
第123代・大正天皇(1879-1926年)も、第122代・明治天皇(1852-1912年)も、
さらには幕末期の第121代・孝明天皇(1831-1867年)も、その在位期間に
長短の違いはあっても、揃って「生涯現役」の天皇だったものなぁ。
要するに、近い時代の天皇方を遡ってみても「生前退位」なんて思い当たらない
わけです。
そこでこの際、メディアが「約200年ぶり」と紹介する、その歴史を探ってみる
ことにしたのです。 すると、
~最後に生前退位がなされたのは第119代・光格天皇で、第120代・仁孝天皇に
譲位(1817年)した~
「約200年ぶり」と聞かされると、メッチャ遠い昔の出来事に感じられるばかりか、
非常に稀なケースだったように思えてきます。
ところがその天皇の歴代数を辿ってみると、「わずか6代前」の出来事に過ぎません。
ということは、「天皇の歴史」からすればそれほど昔々の出来事というわけでも
なさそうです。
上皇さまと上皇后さま
話のついでですから、こんなことにも首を突っ込んでみました。
~だったら、これまで「生前退位」された天皇は、いったいどのくらいおられた
のかしらん?~
すると、こんな説明が返ってきました。
~奈良時代以降、江戸時代までに約60人の天皇が生前に退位されています~
「奈良時代以降」と断っているのは、それ以前の天皇の場合だと、歴史というだけ
ではなく、そこには神話的な要素も色濃く反映している可能性が排除できないことも
あるせいかもしれません。
それにしても、江戸時代最後の天皇が第121代・孝明天皇ですから、単純計算でも
半数以上の天皇が「生前譲位」をしてきたことになります。
要するに、決して珍しいことでもなかったわけです。
とはいうものの、これが「生前譲位」ならぬ「生前馘首」ということになると、
非常に「レアケース」だったことは間違いありません。
えぇ「生前馘首」、つまり~天皇が馘首される(クビになる)~ことも時としてあった
ということです。
ゲッ!
国中で「一番偉い人」をクビにするなんてことが、一体全体どこのどいつにできた
のでしょうか? 少なくとも、アナタや筆者ではありません。
という経緯があって、いったいどこの「どいつ」の仕業だったのかも、また懲りずに
探ってみたのです。
すると、そのように「クビになった天皇」には当時、そのものズバリの
「廃帝」(はいたい)という侮辱的な名称が冠されたことがわかりました。
しかも、素直に読めば「はいてい」となるところを、わざわざ「はいたい」と読ませた
のは、言葉を根っから重要視する「言霊信仰」の熱心な信徒?である朝廷側の露骨な
差別意識の現れだったのでしょう。
つまり、「天皇落第生」であることを強調し印象付ける呼び方で、
~このような御方は、朝廷の正式会員?ではありません~
との意味合いを強く込めた呼び方をしたということです。
そうした「廃帝」のお一方に、通称?「淡路廃帝」と冠された元天皇がいます。
先代・孝謙天皇(第46代/女性/718-770年)から指名されて後継即位したものの、
女帝の政敵の傀儡になってしまったことから、その怒りを買ってクビにされたものです。
で、先代女帝自らが第48代・称徳天皇として復帰しました。
この場合は、要するに
~先代天皇が一旦後継とした天皇を、その働きを見て改めてクビ(馘首)にした~
という形になったわけです。
ところがこの後には、これとは異なるパターンの「天皇馘首劇」も演じられました。
その方の場合は長らくの間「九条廃帝」と呼ばれました。
クビになったのですからこちらも「廃帝」ですが、この場合はこんな経緯を辿りました。
先代の第84代・順徳天皇が「打倒!鎌倉幕府」を目論んで戦の準備に多忙になった
ことから、わずか4歳のこの方に天皇の座が巡ってきたのです。
その戦とは、朝廷VS武士団のガチンコ衝突となった「承久の乱」(1221年)です。
しかしまあ「4歳の天皇」だなんてさすがに若すぎるのでは?
ところがギッチョン、歴史はメッチャ懐が深い。
これより少し以前には、なんと「3歳の天皇」もいたのです。
数え年3歳(満1歳)での即位し、「壇ノ浦の戦い」(1185年)で崩御した第81代・
安徳天皇(1178-1185)がその方です。
この方には及ばないものの、それにしても尋常ではない若さの?幼い?天皇が誕生した
ことになります。
ところが、その「承久の乱」が朝廷側のボロ負けに終わったことからお話が複雑に
なりました。
勝利して勢いづいた幕府側は、懲罰の意味が込めて朝廷側のトップ級の人物を
軒並み処罰・更迭したのです。
うっかりするなら幕府の側が敗れる事態だってあり得たのですから、当然の
「報復措置」といえましょう。
実はその「報復措置」の対象者に、在位二ケ月余りのこの「九条廃帝」も含まれたのです。
いいや、この言い方はヘンか。
~報復措置として「更迭」されたから、その結果として「廃帝」と呼ばれた~
杓子定規には、こう表現すべきが正しいのかもしれません。
しかしまあ、いずれにしてもこの場合は、実質的に身分が下位の武士団(鎌倉幕府)が、
自分達より間違いなく上位の存在である「天皇」をクビにしたことになります。
そのような経緯があって、このお二人の「廃帝」はその後長らくの武家政権
(鎌倉・室町・江戸の各幕府)の間ずっと「廃帝」、つまり「天皇落第生」の
扱いのままでした。
第47代・淳仁天皇(淡路廃帝)/(九条廃帝)第85代・仲恭天皇
ところが、その武家政権も終焉を迎える時代が到来しました。
将軍家から天皇家への「大政奉還」(1867年)です。
明治新政府は天皇を中心とした国づくりを目指しましたから、
~遥か昔のこととはいえ、国家の中心となるべき天皇家に「落第生」(廃帝)が
おられるのは、まことにカッコウのつかないことである~
こうした思いを抱くのは当然です。
ここに気が付いてしまっては、そのまま放置しておくわけにはいきません。
そこで、明治三年(1870年)、明治新政府は、歴代天皇と同様に、この御二方の
「廃帝」に対しても「諡名」をすることにしたのです。
えぇ、「〇〇廃帝」との歪な呼び方ではなく、正式な歴代天皇と同様に「〇〇天皇」と
呼ぶことにしたということです。
そこでこの御二方は、それぞれ、
「元・淡路廃帝」が第47代「淳仁天皇」(じゅんにん/733-765年)、
「元・九条廃帝」が第85代「仲恭天皇」(ちゅうきょう/1218-1234年)
と諡名され、歴代天皇としてもカウントされるようになりました。
つまり、こういうことになります。
「天皇落第生」ではなく、普通の天皇の仲間入りをするのに、
「仲恭天皇」の場合だと約650年、「淳仁天皇」にいたってはなんと約1,100年もの、
なんとも長い長い雌伏の期間を経なければならなかったといことです。
~クビになった天皇の復活劇!~
この歴史的事実は、物事がうまく運ばないとのお悩みを抱えた皆さまにも大いなる
勇気と希望を与えるはずです。
なぜなら、
~長くとも、せいぜいあと1,100年ほどの我慢を続ければ事態はきっと好転する!~
はずだからです。
それにしても、一般庶民にさえ許されている「引退/隠居」が、至高の存在とされた
明治時代以降の天皇には許されていなかったなんて、ある意味お気の毒なこと
たども思えてきます。
そんなお話を周囲の年配者と交わしていたら、その年配者に曰く。
~自慢じゃないが、その点はワシの方がもっとお気の毒なのだ!~
理由をお尋ねしてみると、
~そんなもん、町内会の諸々お仕事に追われるばかりの毎日で、実際、現役時代よりも
遥かに忙しいのだからなぁ~
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