もしも編15/架空と実在は史料頼み
~犯罪などで被疑者・被告人が犯行に関わっていないことを推認させる間接事実の
一つが「アリバイ」( alibi)で、「現場(げんじょう)不在証明」とも訳される~
これが、犯罪ドラマなどによく登場する「アリバイ」という言葉の意味です。
さらに詳しく迫るなら、
~犯行が行われた際、被疑者がその場に存在していなかったことを主張(現場不在証明)
し、犯罪の直接的な実行が不可能であったことを主張するのがアリバイである。
もっともこの場合、その人物が「その場にいなかった」ことを証明するのではなく、
実際にはその時間に「別の場所にいた」ことを主張立証する活動が行われる~
なにかしたややこしい言い回しだけど、要するに、
~同一人物が、同一の時間に異なった2か所に存在することは不可能であるため、
それが現場に存在しなかったことの証明になる~
なるほど、そういうことを言っているのか。
しかし、では反対に~その場に存在していたことを主張する~ことを言い表す用語は
何になるの?
杓子定規に考えれば、不在を存在に入れ替えることで、「現場存在証明」ほどの
言い方になりそうですが、ところが実際にはそうは言わないで、
「アリバイがある/ない」と言い回しをするとされています。
これは犯罪などの推認するためには、確かに便利で重宝な言葉かもしれません。
しかし、「歴史人物」の実在・不在(架空の存在)を問う場合には、いささか隔靴掻痒の
感も否めません。
なぜなら、その場合に必要なのは「現場不在証明」ではなく「現場存在(実在)証明」
ということになるからです。
事実、そうした「存在(実在)証明」を問われて、一時期は「架空の存在」とされた
歴史人物も少なくないようで、そこで今回はその辺をちょっと覗いてみることに
しました。
浄土真宗宗祖・親鸞上人
その代表的人物ということなら、まず浄土真宗開祖・親鸞上人(1173-1263年)を
挙げることができそうです。
なぜなら、実は社会的には、つい20世紀に入るまでは、本願寺がでっち上げた
架空の人物という見方のほうが強かったし、実際その「現場存在証明」にあたる史料が
見い出せていなかったからです。
本願寺は「親鸞の実在」を強く主張し続けていました。 当然です。
そもそも、その親鸞聖人こそが宗祖ですし、代々の宗主は親鸞の血統で続いてきたと
しているからです。
ところが、
~親鸞在世当時の朝廷や公家の記録に、その親鸞の名が記されていなかった。
また、親鸞が自らについての記録を残さなかった~
つまり、親鸞聖人に関する歴史的史料は浄土真宗内部にあるものに限られていたという
事情から、親鸞の存在は疑問視され、
~本願寺が主張する「親鸞」は架空の人物に過ぎない~
とする見解が半ば定説になっていたのです。
ところが、ギッチョン!
なんと、遠く20世紀に入ってからの1921年(大正10)のこと、学術調査によって、
西本願寺の宝物庫から書状10通が発見されたのです。
それは、越後に住む親鸞の妻・恵信尼(1182-1268年?)が、京都で親鸞の
身の回りの世話をした末娘の覚信尼(1224-1283年?)に宛てたものでした。
そして、
~その書状の内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明された~
となって、ようやくのこと「親鸞の実在」説が日の目をみることになったのです。
ですから「もしも」宝物庫の調査がなかったとしたら、浄土真宗宗祖である親鸞上人は
現在もなお「架空人物」との扱いを受け続けていたのかもしれません。
さて、お話はグーンと素っ飛んで、一気に戦国時代
~戦国時代の武将・山本勘助(1493-1561年)は、武田信玄に仕えた独眼で
片足が不自由な軍事の天才~
こう記しているのが、軍学書『甲陽軍鑑』です。
ただ、その『甲陽軍鑑』がちょっと曲者で、このように説明されているのです。
~武田信玄(1521~1573年)の老臣である高坂昌信(生年不詳-1578年)の
口述による筆録で、1621年以前に、小幡景憲(1572-1663年)の整理を経た
20巻23冊からなる江戸前期の軍書~
つまり、山本勘助が活動した時期より半世紀ほど後に成った書物ということになります。
そして、具体的な内容については、
~武田家二代(信玄・勝頼)の合戦、刑罰、行政、軍法などの事跡や軍学を論じた
もので、甲州流軍学の教典とされ、江戸初期の思想や軍学を知る史料となっている~
また『甲陽軍鑑』には、先の説明に登場している高坂昌信本人と、小幡景憲の父・
小幡昌盛は共に「武田二十四将」の一将に数えられています。
ちなみに、
~「武田二十四将」とは、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで
一般的な評価が特に高い24人を指して呼ばれるようになった家臣団の呼称~
と説明されています。
武田二十四将 / 聖徳太子
お話が込み入ってきましたが、この「武田二十四将」には信玄弟の武田信繁
(1525-1561年)や、また信玄の後継者となった庶子・武田勝頼(1546-1582年)ら
と共に、当の山本勘助の名も挙げられているのです。
ところが、
~『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では、
「山本勘助」という人物は一切存在が確認されていないために、その実在について
長年疑問視されていた~
平たく言うなら、山本勘助なる人物には「現場実在証明」に当たる史料が見出すことが
出来ずに、長い間にわたって「架空の人物」とされていた、ということです。
「されていた」という過去形の表現になるのは、現在では「実在した人物」という
お墨付きがあるからです。
その経緯は割合よく知られたことでもあり、いささか蛇足になりそうですが、
面白くもあるので、念のためにちょっと触れておきます。
~昭和44年(1969年)10月、同年に放送されていたNHK大河ドラマ『天と地と』に
触発された北海道釧路市在住の視聴者が、先祖伝来の古文書から戦国時代のものと
思われる「山本菅助」の名が記された1通の書状を探し出し、北海道大学、
信濃史料編纂室に鑑定に出したところ真物と確認された~
大河ドラマに登場した花押(記号署名)によく似た模様が、その家の古文書にも
記されていたことを思い出したのがきっかけだったようです。
そして、
~この書状の発見によって、実在そのものが否定されかけていた山本勘助の存在に、
新たな一石が投じられた~
つまり、山本勘助の「現場存在(実在)証明」になったということです。
この「市河家文書」は、山本勘助本人にとっても、また我々現代日本人にとっても、
実に幸いなことでした。
「もしも」これが発見されなかったとしたら、山本勘助は現在でも「架空の人物」と
いう扱いのままだったはずだからです。
さて、この親鸞上人や山本勘助のように、「架空人物」が「実在人物」に変身する
こともあるのですから、その逆のケースがあってもおかしくはありません。
えぇ、現在でこそ「実在した人物」の扱いになっているものの、将来的には
ひょっとしたら「実在しなかった架空の人物」という評価になってしまうかもしれない
ことを言っています。
たとえば「聖徳太子」(574-622年)などは、説明によれば、その可能性がゼロとは
言い切れないようです。
なぜなら、こんな主張も登場しているからです。
~厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である~
ゲッ、これは筆者が学校で習った内容とはまったく違うゾ。
この説では、つまりこういうことを言っているようです。
~(第33代)推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、
『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等(659-720年)らの創作であり、
架空の存在である~
ゲゲッ、この「架空の存在」説が正しいとしたら、聖徳太子は忍術使いの猿飛佐助や
円月殺法達人の眠狂四郎と同列にある「創作された人物」ということに?
だとしたら、ちょっとばかり寂しいばかりか、ややこしいことになりかねない
お話でもあるゾ。
ということで、聖徳太子はやっぱり「実在した人物」ということに落ち着いて欲しいと
願っている今日この頃の筆者です。
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