ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

誤算編21/不便な礼装にはワケがある

長さを示す一対の言葉として最初に思い浮かべるのは、やはり「長/短」になります。
ところがこれには例外もあるようで、たとえば衣料系などは「長/半」になることが
あります。
たとえば、シャツの「長袖/半袖」がそうですし、最近はあまり使われなくなった
言葉とはいえ、「長ズボン/半ズボン」もそうなっています。


で、その「長ズボン/半ズボン」の見た目についての説明は、このくらいになるので
しょうか。
〇長ズボン→ 長さ(丈)が足首まであるズボン。
〇半ズボン→長さ(丈)が股下から、せいぜいヒザまでぐらいの脛出しズボン。


ところが、江戸時代にはズボンではなく袴を着用しており、実はこれにも「長袴/半袴」
という種類がありました。
そして、こちらの丈の長さは現代の「長ズボン/半ズボン」とは大きく異なり、
こんな説明になっています。
~(長袴とは)足先を覆って裾を長く後ろに引きずるように仕立てた礼装用の袴~
~(半袴とは)丈が足首までで裾にくくり紐がない現在普通に着用する袴のこと~


そりゃあ、ズボンと袴では「長/半」の基準が異なっていて当然かもしれません。
もしも、江戸時代の「半袴」の丈が現代の「半ズボン」の丈と同じだとしたら、多分に
チンケでオマヌケ風な侍姿になってしまいますからねぇ。


それはともかく、上のような文字による説明では分かりにくいので、「長袴」について、
もう少しビジュアルなイメージが掴めそうな言い方に直すと、 
~(長袴とは)赤穂事件の発端となった「刃傷松の廊下」(1701年)の場面で、
 吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭が着用している袴~


ええ、早い話がドラマなどでもよく描かれますが、足全体がすっぽり袴内部に収まって、
一切足の出ない構造になっている、あの袴のことです。
しかし、あの長袴を見て、いささかの奇妙感に襲われない人は、おそらく少数派では
ないでしょうか。  
なぜなら、少なからずの人がこんな疑問を抱くと思われるからです。


~あの異様な丈の長さはいったい何のために?~
こうしたマニアックなことを筆者が知るはずもありませんから、早速あちらこちらを
調査いやカンニングをしてみることにしました。


  左)半袴 / 長袴(右


すると、こんな質問内容を見つかりました。
問) 長袴はなぜあのサイズになったのでしょうか?
おうおう、筆者の知りたいのはまさにこのことですがねぇ。


そして、それに対する回答を要約してみると、
答) 将軍がいる江戸城内での争い事は固く禁じられ、不穏な行為をとりにくくなる
   よう、(敢えて)動きにくい長袴が考案されました。
なるほど、あの異様な長さは敏捷な行動を取らせないためたど言っています。


おそらくは、この理屈を「長袴の当事者」の双方、つまり幕府側や大名側も納得した
上で受け入れたのでしょう。
しかし部外者からすれば、やはり相当に冗談めいた服装に映ったのも事実のようです。
それが証拠にこんな川柳も残されています。 ~長袴 廊下の掃除 して通り~
長袴に縁のない者からすれば、かなりウププ的なファッションだったワケです。


ただし、前段の説明にもあるように、この長袴ファッションはあくまでも礼装の一種と
されていました。
言葉を換えれば、晴れの儀式の折限定のいわば非日常のこの長袴は、機能性を重視した
日常着・普段着に比べたら、メッチャ歩きにくい衣装だったことになりそうです。


しかし、いくら「殿中規則」?を徹底させるためとはいえ、多忙な業務を抱えた人たち
までもが同様に、この「長袴」を穿いて悠長に歩いていては、それこそ「溜まった」?
仕事をこなすことができません。
そこで、老中・側用人・若年寄など多忙な面々には、普通の袴を許していたとされて
います。
この事実は、長袴がメッチャ歩きにくい衣装だったことの傍証とも言えそうです。


ところが、実はこの長袴を巡る不便さはこれだけに留まるものではではありませんでした。
江戸城に登城する大名は下乗橋から玄関までを歩いて行くのですが、ところが
長袴の場合だと、それをたくし上げる必要がありました。
地面に袴を引きずって歩くわけにはいきませんものねぇ。


こうした時のために長袴の裏には必ず短い紐が付いていました。
たくし上げた袴の裾をその紐で結び付けて、それで丈を短く調整できるようにしていた
のです。 これなら袴が地面を引きずるという不便も解消です。


また、この機能は雨天の際にも大きな効果を発揮したようです。
つまり片手に傘を持っている場合でも、裾部分を紐で固定していることで、
「ずり下がり」の心配を解消できたということです。


この「紐で裾を固定する」方法は、確かに「袴を引きずる」ことなく歩けるように
しましたが、しかし、そうなると今度は「脛」をさらし出して歩くという新たな不便が
発生します。 「脛出し袴」ってか。 


これもあまりカッコの良いものには感じられません。
そればかりか、寒い日などはむき出しになった脛部分がモロに冷えることになり、
これも結構辛いことだったようです。


そればかりではありません。 殿中ならではのリスクも潜んでいたのです。
前を歩く人の長袴のその長ぁ―い裾を、うっかり踏んで転倒させてしまうという、
交通事故ならぬ歩行事故のリスクです。


そりゃあそうかも知れません。
足を包み込んだ袴もろともに強引に歩こうとするわけですから、自然の摂理に逆らった
やり方です。
そこで大名側としても、失敗のないよう歩くために若い頃からそれなりの特訓を
積んだりもしました。


だって、あんな姿での歩行が、ぶっつけ本番で上手くできたとは、とても思えません
からねぇ。
しかし、それでも実際には自分自身が「つんのめる」、あるいは他人の長袴を
「踏んづける」などの事故?事件?は少なからず発生したといいます。 
無理もないことです。


さて、おそらくはアナタもその例外ではないでしょうが、ここまでくると筆者の如き
ゲスな人間の頭に浮かぶのは次なる疑問です。
~「長袴」姿での、トイレはいったいどうしていたのさ?~
なにせ「御殿様」の地位にある方々なので、こうした異様な?衣装を自分だけで
器用に着たり脱いだりができたとは思えません。


実は、そこには衣装脱着が不要の便利?なツールがありました。
その名称はずばり「尿筒」(しとづつ)。 要するに、
~この「尿筒」を「長袴」のゆとりある裾から差し込んだ上、立ったまま静かに
 放出し、そして完了~


このように対処していたのです。
まあ現代でいうなら、「携帯尿瓶(しびん)」ないしは「携帯排尿器」といった感覚
ですかねぇ。
素材は多くが竹製・銅製などで、長いものになると1メートルほどにもなったそうです。


そこで、追い討ちをかけるような疑問になりますが、ではそうした「御殿様」の方々は、
その便利なツール「尿筒」の本体を、帰宅するまでの間、殿中でずっと持ち歩いていた
のでしょうか? 当然、そうではないでしょう。


そこはそれ、大名の権利として家来一人だけは殿中の廊下の端や庭先へ伴うことが
許されていたそうですから、おそらくは「尿筒」の管理や処理はおそらくこの家来が
担当し、最終的には、まあ庭先に流すなどしていたのでしょう。


 

          刃傷松の廊下 / 「袋飛び」競技


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ともあれ、こうした事実からも、例の「殿中刃傷事件」(1701年)の実態・真相が
浮かび上がってこようというものです。 
せっかくですから、以下に筆者の個人的な見解を一応ご披露しておきましょう


まず、高齢だった吉良上野介(義央/1641-1703年)が、自分の長袴に
「つんのめった」・・・これが事件の発端になりました。
その挙句に、不覚にも前を歩いていた浅野内匠頭(長矩/1667-1701年)の長袴を
「踏んづけて」しまった。 高齢者にはありがちなことです。


ところが自分の長袴を踏まれたことによって浅野内匠頭自身も同じく「つんのめった」。
その瞬間にこの短気者の目は座り、つまりすっかりブチキレてしまった。
その豹変ぶりを目の当たりにした瞬間、吉良上野介は自分の身に危険を感じます。


そこで、すかさず自分の長袴の裾を掴むや、「袋飛び競争」の要領で慌てて現場からの
脱出を計りました。
ところが、既にプッツンしている浅野内匠頭の動きの素早さも尋常ではありません。


同様に「(長袴)袋飛び」の要領で吉良上野介を追いかけ、追いつくやいなや
問答無用の一太刀を浴びせた。
すでに60歳を超えている吉良上野介と比べたら、30歳代の若い浅野内匠頭の方が
その分だけ「袋飛び」の技術・体力が勝っていたということです。


そして、現場における浅野内匠頭の「この間の遺恨、覚えたか!」との発言は、
つい先ほど自分の「長袴」を踏まれたことを意味していたものだと捉えれば、
「殿中刃傷」の一連の経緯もごくごく素直にまた矛盾なく理解できると考える次第です。
やれ、メデタシ、メデタシ!


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