ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

タブー編22/天皇を超えろ諸々大作戦

この国では長い間、天皇が至高の存在とされてきました。
現代日本人の意識はともかくとして、民族の歴史的な信仰心という点ではそのように
表現しても構わないのでしょう。
なぜなら、その信仰心は~天皇とは天から降臨された天照大神の御子孫である~と
しているからです


しかも、この国の始まりに際して、その天照大神ご自身が孫の瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)に明瞭にこのように申されているのです。
~いいこと、豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。
 わが孫ニニギちゃんよ、行って治めなさい。 さあ、出発しなさい。
 皇室の繁栄は天地とともに永遠に続き、窮まることは無いのです~


この宣言「天壌無窮の神勅」は、後世の誰も否定できるものではありません。
なにせこの国のまったくの始まりの始まりに際して行われたものですから、それを
否定しようとすれば、イヤでも「後出しじゃんけん」も形となってしまうからです。
これではさすがに正当性にも説得力にも欠けています。


要するに、これより後の時代において大きな権力を掌握した者にとっては、この
天照大神の子孫である「天皇」は、まことにウットウシイ存在になったということです。
「権力はオレが握っているのに権威は天皇にある」という歪な状況下に身を
置かなければならないからです。


権力は勿論のこと、同時に権威もまた備わってないことには真の権力者とは言えません。
ところが、この国では決してそのような姿にはなりません。
なぜなら、神の御子孫である天皇、これを超える権威を誰一人として備えることが
できないからです。


  天壌無窮の神勅


世間的な見た目においては「権力者」であっても「天皇の権威」を凌駕できないので
あれば、その評価は「天皇の臣下」に過ぎないことになります。
権力者にとっては、これは実に不愉快な現実、不都合な真実です。


そういうことなら、天皇を消す(滅ぼす)ことで問題解決・一件落着ということに
なるのかといえば、これはこれで別の大厄介を生んでしまうのです。
怨霊です。


神の御子孫である天皇をその臣下に過ぎない人間が殺したともなれば「大怨霊の誕生」
を覚悟しなければなりません。
現代の目線からすれば単なる「迷信」に過ぎませんが、当時の目線からすれば真に
「科学的な事実」だったのです。


「怨霊」は避けなければなりません。
なぜならば、あの世の怨霊に立ち向かったとて、この世の人間風情が勝てるはずが
ないからです。
さりとて、権威をバッチリ備えた天皇の存在は「目の上のコブ」です。
そこで後の時代の権力者の何人かは、天皇が備えたその権威を凌駕・超越する方策を
模索しました。 いわば「天皇を超えろ諸々大作戦」です。


ここではそうした例のいくつかを、以下の権力者たちに見てみることにします。
最初は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家である藤原不比等
(659-720年)で、その人となりについてはこんな説明になっています。
草壁皇子と第41代・持統天皇(女帝)から第44代・元正天皇(女帝)に至る
 四代の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、第42代・文武天皇から
 元正天皇に至る三代の天皇の擁立に貢献した~


これからも分かる通り、当時の政界を牛耳っていた人物と言っていいかもしれません。
しかも、この不比等には、実は藤原鎌足の子ではなく第38代・天智天皇の御落胤との
説もあるのです。


この説の真偽は一応のところは不明とはされていますが、いずれにせよ当時の人たちに
とっては、臣下に過ぎない者がこのような権勢を誇ったとするなら、ちょっとばかり
ムセッともしますが、これが神の血を引く天皇の御落胤ということなら納得しない
わけにはいきません。


そういう立場にありながら、不比等は天皇にはなれませんでした。
これは不比等の死後の出来事になりますが、娘・光明子を人臣初の「皇后」(光明皇后)
に就けるまでがせいぜいのところでした。
もっとも、その光明氏を皇后に迎えた第45代・聖武天皇は生涯尻に敷かれっ放しだった
とも言われているようですが。


時代は移って、そうした「天皇を超えろ」にチャレンジした一人に、関東で勢力を
誇った豪族・平将門(903?-940年)がいます。
~西(京)にいるのが天皇なら、オレは東(関東)の新皇だ~
といったところだったのでしょう、朝廷の第61代・朱雀「天皇」対抗する形で
自ら「新皇」を自称しました。


天皇を滅ぼすのではなく、「新皇」と名乗ることで天皇と肩を並べる形を作ったと
いうことです。
しかし、その主張の正当性を~オレは第50代・桓武天皇の五世孫だッ~というところに
求めているのですから、その主張もいささか弱い印象になっています。
事実、新皇の名乗りからほどなくして討ち死にしてしまい、新皇は天皇ほどには長続き
しませんでした。
言葉を換えれば新皇に対する支持は、天皇対する支持を超えるまでには至らなかった
ということになります。


さてその後にも稀にこうした人物は現れ、室町時代にはこんな怪人が登場しています。
室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408年)です。
義満の目論みを一口で言うなら、「皇位簒奪作戦」ということになるのでしょうか。
早い話が、我が子・義嗣を朝廷に出向させることで、その「朝廷」そのものを我が手に
「吸収合併」?してしまおうとする計画です。


もっと露骨な言い方なら、~オレに「太上天皇」の尊号が贈れ~ということです。
天皇経験者でもない者に「太上天皇」だなんて、先例主義の朝廷側が渋るのは当然です。 
しかし義満の圧力も半端ではありません。
ところが、その目論見は実現の直前になって頓挫しました。


それまで元気溌剌だった当の義満本人の突然に死去。
かくして義満の「天皇を超えろ大作戦」も幻に終わってしまいましたが、要するに、
「王(天皇)を超える」野望はこの国においては命懸けの企みであることを、
この事件は示したことになりそうです。


   

  織田信長 / 豊臣秀吉 / 徳川家康


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ところが、~天皇は「神の子孫」であるからこそ至高の存在である~
この理屈に気が付いた人物が戦国の世に登場しました。
尾張国大名・織田信長(1534-1582年)です。
~そういうことなら、神の子孫よりは神自身の方がエラいということになるはずだでぇ~
こう受け止めた信長の「天皇を超えろ大作戦」は自身が神になることでした。


ゲッ、人間が神になれるの?
唯一絶対神を信仰するいわゆる「一神教」の世界なら、とても相手にされないアイデア
ですが、この国ではそうでもありません。
一例を挙げるなら、たとえば「天満天神」とされる神は元・人間であり、その正体は
平安時代に活動した菅原道真(845—903年)です。


もっとも道真の場合は、その死後に怨霊となって大暴れしたことで神に祀り上げられた
のですが、そのあたりのことを信長はこう捉えたのかもしれません。
~死んだあとに神になっても、それは本人に自覚できんことだで、てんでつまらんがや。
 生きとるうちに神になってこそ意味があるんだでぇ~


信長と同時代の宣教師ルイス・フロイスは、信長がこうした気分を備えていたことを
本国への報告書に記しています。 
ですから、このことがまったくのでっち上げとも思われません。
なぜなら、その証言者が「一神教」のガチガチの関係者だからです。
こういう人たちに「人間が神」になるなんて、あまりにもトンデモでバチ当たりな
発想が出てくるはずもありません。


それでも本国への報告書に記したということなら、はやりそういう事実があったという
ことなのでしょう。
信長もその目標に向かって努力を重ねましたが、いかんせん突如の謀反に倒れたために
頓挫してしまいました。 家臣・明智光秀による「本能寺の変」(1582年)です。


その直後の権力を握ったのは豊臣秀吉(1537-1598年)でした。
この新権力者にとっても、天皇はまったくにうっとうしい存在で、そこで秀吉が
考えた「天皇を超えろ大作戦」はこれ。


~御所(天皇所在地)は中国大陸に移っていただいて、日本本国はワシが面倒を見る~
早い話が、天皇には「中国支店長」を務めて頂き、「本社社長」は自分が務めるという
計画です。
しかしこれも、大陸進出のいわゆる「唐入り」文禄・慶長の役/1592-1593年)の
失敗によって頓挫してしまい、夢を叶えることは出来ませんでした。


信長・秀吉がやっているなら、当然徳川家康(1543-1616年)もやっています。
家康の場合は、いうならば「朝廷封じ込め作戦」。
早い話が、朝廷はあの世へ封じ込め、現世は徳川家が担うというものです。
その傍証はいわゆる「東海道五十三次」で、この五十三という半端な数字には
「意思」が込められていると見ていいのでしょう。


一説には、江戸時代に整備された東海道五十三次の五十三の宿場は、善財童子を導く
五十三人の善知識の数に基づくもの、という意見があります。
つまり、それら全部の善知識を得て、最後に普賢菩薩のもとで悟りを開くということ
ですから、その終点に存在するものは「浄土」(あの世)だと言っていることになる
わけです。


朝廷と張り合うごときのこうした気持ちは、家康の死後の名乗りにも表れています。
~皇祖神が「天照大神」なら、幕祖神?であるワシは「東照大権現」だがね~
ということです。


そして、事実250年ほどは朝廷を圧倒することに成功しましたが、ただ長い歴史から
見れば、それは「一時期の現象」ということに過ぎませんでした。
そのことは、現在も変わらず「天皇家」は存在しているが、「徳川幕府」の方は
消滅してしまったという史実を眺めてみるだけでも一目瞭然です。


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