ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

世界標準編30/瓦礫の貨幣も信用次第

最近では少数派になってしまったかもしれませんが、これまでのお買い物は、
「一万円札」(紙幣)とか「五百円玉」(硬貨)とかの、いわゆる「貨幣」を
使用することが普通でした。
えぇ、中には「いいや、ワシはとっくに“電子マネー”オンリーじゃ」と主張される方も

おられるだろうことは、世間知らずの筆者でもさすがに承知していますので、どうか
ご安心ください。


さて、ここからが少々うるさいお話になります。
この貨幣は大きく以下の二つに分類されます。
いえね、筆者が分類したわけではなく、学問的にはそのように定義されているという
ことです。
「実物貨幣」=金銀などのようにその素材自体が商品価値を持つ。
「名目貨幣」=紙幣のように法律によってその価値を認めている。


その昔はどの国どの地域でも「実物貨幣」が主流でした。
「名目貨幣」はしっかりした政府に信用があって、その上に法制度が整っていない
ことにはうまく機能しないからです。


ということは、貨幣でお買い物とは言っても、その実態はまだまだ「物々交換」の
延長線上にあったことになりそうです。
えぇ、手に入れた物品あるいはサービスなどと、自分が持つ「実物貨幣」を
交換するといった感覚ですね。


しかし「実物貨幣」の「実質価値」については、実際に見合ったものになっている
のかどうか、その見解に対立が生まれやすいのも事実です。
そうした意見相違が、やがては政治闘争にまで発展していった例は、我が国でも
経験しています。 その一例を取り上げてみましょう。


それは江戸時代のことでした。
五代将軍・徳川綱吉(1709年)が死去し、次期将軍職に就く運びとなった徳川家宣が、
重臣を集めて代替わりの諸費用について尋ねたときのことでした。
えぇ、幕府に金欠症状が見られたのでしょう、早い話がどのようにしたら
「無い袖を振れるのか」というお尋ねです。


この時、こう申し述べたのが荻原重秀でした。
~窮地に陥っている幕府財政を救う方法は金銀改鋳をおいて他にはない~
ところが、この意見にメッチャ強い拒否反応を示したのが新井白石でした。
そして、この経緯には下の一文が添えられています。
~この時が荻原重秀VS新井白石の直接対決の始まりであった ~

    元文小判(貨幣改鋳)


登場する人物にも触れておく必要がありそうです。
なぜなら、筆者を含めた少なからずの人は、この重秀や白石のことをこんな具合に
受け止めているからです。
~名前は聞いたことがないわけではないけど、えぇと、何をした人だっけなぁ?~


ということで、ここでネット記事を持ち出しての自己紹介?をすることにしましょう。
荻原重秀(1658~1713年)/江戸中期の幕臣。勘定奉行。
 貨幣改鋳を行い、一時的に幕府の財政難を救ったが、私利をむさぼったとされ、
 新井白石の弾劾により失脚した~


新井白石(1657―1725年)/江戸中期の儒者、政治家。
 徳川家宣、家継に仕え、側用人間部詮房とともに幕政を補佐し、武家諸法度の改正、
 貨幣改鋳、朝鮮通信使礼遇の改革などに尽力した~


略歴でありながら、両者それぞれに「貨幣改鋳」との文言が織り込まれています。
ですから、それを巡っての両者対決は相当に激しいものだったことが想像されます。
つまり、それは単に経済政策路線の対立あるいは衝突というだけでなく、さらには
思想闘争・政治闘争でもあり、互いの能力そのものの闘争であったと言えるのかも
しれません。


さて、そこでテーマとなった「貨幣改鋳」とは一般的にはこんな説明になっています。
~貨幣が流通界において自然に磨損し、あるいは人為的に毀損されたとき、これらを
 回収して、新しい貨幣と交換することを目的として改めて貨幣を鋳造すること~
メッチャ学問的で分かりにくいのですが、金貨や金小判の場合なら、要するに、
そこに含まれる金の量を増やしたり減らしたりと調整すること、くらいに理解して
いいのでしょう。


実際、この時に重秀が行った「貨幣改鋳」はその方法を採りました。
~(重秀は)慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀の
 鋳造を金座・銀座に命じた~
(1695年/元禄8年)、
これらが「実物貨幣」ということなら、金銀の含有率が減った分だけ貨幣そのものの
価値も目減りしてしまいます。


ではなぜ、そんなことに踏み切ったのか? 実はこんな社会状況にあったからでした。
~元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が
 低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。
 その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が
 流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった~


要するに、金銀の含有率を減らして改鋳することで、より多くの貨幣を作り、増大する
貨幣需要に対応しようとする政策です。
ところが、この「金銀の含有量を減らす」というやり方に白石が噛みついた。


~これまで金含有量10だったのに、それを例えば金含有量8に落とした貨幣に改鋳して、
 それをこれまでと同じ額面で流通させようなんて、てんで合点がゆかぬ。 
 こんなのはサギではないのかえ。
 幕府自らが進んでサギを働くなんぞは到底許されることではありゃせんゾ~


もっと身近な例えならこんな感じでしょうか。
~ええか、よく考えてもみよ! 金の量を減らした金貨(小判)なんぞはアンコを
 減らしたタイ焼きと同じようなもので、とても「本物」とは言えないだろうが!
 ・・・やっぱり金貨は昔の品質に戻さねばいかんッ!~


しかし、改鋳を断行した重秀の考えはこうでした。
~景気が良くて資金不足をきたしているのだから、その不足分を補ってやる必要がある。
 これは例えるなら、それまで10人で米10俵を食っていたところ、人数が増えて
 20人で食うことになったようなものだ。 ところが米10俵そのものは増やせない。
 だったら、麦なりなんなり代替品を混ぜてでも、不足の量を補ってやらないことには、

 食えない者が出ることになってしまうゾ~


タイ焼きの例ならこうなります。
~分かってないなぁ。 タイ焼きに詰め込むアンコが不足しているのであれば、
 その代わりに味噌やオカラを使ってでも作らないことには、欲しがる人、

 必要とする者全体に行き渡らないではないかッ~


しかし、その「代替品を混ぜる」という行為が、儒者である白石には理解することが
出来ませんし、また許せませんでした。
~混ぜ物をしておいて、それを一丁前に扱うなんてことは、つまり「ウソ/騙し」に
 他ならない。 幕府自らが「嘘こき」になったのでは民にも顔が向けられんッ~
「嘘」に厳しい儒教の信奉者らしい受け止めです。


   

      荻原重秀 / 新井白石


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で、この対立のその後はどうなったのか?
~(荻原重秀は)徳川綱吉時代の後半から徳川家宣時代にかけて幕府財政を
 主導したが、新井白石の弾劾により失脚(1712年)した~


しかも、これは後世の人による評価の一例ということになりますが、
~貨幣改鋳や貿易政策など,彼の商品経済への積極的な対応は評価できるが,
 その反面商人との結びつきにより腐敗が生じたことは否定できない~


一方の白石については
~この六代・家宣、七代・家継にわたる善政がいわゆる「正徳の治」である~
つまり、後世の評者も、
~重秀は腐敗政治、白石こそが善政~だとしていることになります。


しかし筆者からすれば、両者の対するこの評価は「儒学的偏見」に基づくもので、
つまり正確に真実を捉えたものではないように思えます。
ええ、後世の評者も、「貴穀賤金」(米は貴いものだが、銭は賤しい)という
儒教的イデオロギーから脱却できないままの色眼鏡を掛けた評価になっているからです。


事実、白石は政敵・重秀についてこう言っているのです。
~ペテン師?もどきの重秀は金貨の価値を落としたばかりか、そのドサクサに
 まぎれてガッポリ私腹を肥やしていたゾ!~


で、こんな酷い風評被害を受けた荻原重秀を少しばかり弁護すべく、ここで筆者は
立ち上がりました。 実は、重秀はこんなことも言っているのです。
~幕府(政府)にバッチリの信用あれば、貨幣の材質の良し悪しなんぞに拘る必要は
 なくて、実は、瓦礫(瓦や小石)を用いたって一向に構わないのだッ!~

モロに「名目貨幣」の考え方です。


含有率の高い慶長金・慶長銀を含有率の低い元禄金・元禄銀へ「貨幣改鋳」する際に
重秀の心の底にあったのがこの考え方でした。
実は近代経済学がこれと同様な理論を提唱したのはこれより200年以上も後のことでした。
そんな時代に、これほどに大胆な考え方を唱えていたのですから、現代なら
「ノーベル経済学賞」受賞も間違いなしだったでしょう。


実際、重秀主導のこの政策が巡り巡って、元禄の好景気を呼んだとされていますし、
そればかりか一方では、慢性的な財政難に苦しむ幕府のフトコロへ、改鋳による
差益分が入ったのですから、この「世界最先端」の経済政策が軌道に乗れば、
おそらくは幕府も国民もウハウハ気分に浸れたに違いありません。


しかし、ドッコイそうはなりませんでした。 なんで?
江戸幕府には儒教による「貴穀賤金」意識が深く浸透していたことが原因でした。
その証拠も挙げておきましょう。


この後に江戸幕府は何度かの改革政策を打ち出し実行しますが、そのうちでも
「三大改革」とされる「享保/寛政/天保の改革」のいずれもが、米の増産と
質素倹約を柱に据え、商業(銭)に目を向けた政策が皆無なことです。
これこそが、当時の幕府が「ヤク漬け」ならぬ「儒教漬け」になっていたことの
「動かぬ証拠」だと言えそうな気がしている今日この頃の筆者です。



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