ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

列伝編23/知名度はイマイチですが

こんなクイズを出されて、あなたはすぐさま答えることができますか?
~徳川将軍は延べ15代を数えましたが、ではその第4代のお名前は?~
日本史にそれなりの知識を持っている人は別として大方のところは、こんな感じに
なるのでは?


確か初代の家康を初めとして、代々の徳川将軍の名前には「家」の字が付いていた
はずだ。 だったら、
~ひょっとして、家〇?・・・いえ✕?・・・(ウーム、やっぱり)言えません!~
要するに、知名度的にはあまり高くない印象です。


そこでクイズの正解を探ってみると、こうなっています。
~徳川家綱(1641~1680年)/江戸幕府第四代将軍(三代・家光の長男)。
 わずか11歳(1651年)で将軍となるが、年少で病弱のため保科正之、松平信綱らが

 補佐した~


   第四代将軍・徳川家綱


素直に読めば、年少とか病弱などのマイナスイメージの説明が並んで、家綱本人よりは、
むしろ保科正之や松平信綱などの幕閣に重点を置いた説明になっている印象です。
しかし、それは一面では仕方のないことなのかもしれません。
なぜなら、この幕閣御二方は以下のような重厚な経歴・実績をお持ちだからです。


保科正之(1611~1673年)/二代・秀忠の庶子で三代・家光の異母弟にあたる。
 将軍・家光の死去後、遺言によって幼少の将軍・家綱の後見として幕政に参与し、
 
「慶安事件」由比正雪の乱/1651年)などで動揺した幕政を安定させ、
 
「明暦大火」振袖火事/1657年)後の両国橋架橋、玉川上水工事などにも
 尽力し、文治政治を推進した~


松平信綱(1596~1662年)/通称・知恵伊豆
 三代・家光の側近として仕え、
「島原の乱」(1638年)を鎮圧する一方、
 幕府機構の整備に尽力。
 家光死後は幼少の将軍・家綱を補佐して、
「慶安事件」「明暦大火」などによる
 政情不安定を処理し幕権の確立に貢献した~


つまり、三代・家光の政治を担ってきた41歳と56歳の「ジイ」たちに囲まれていた
11歳の幼少将軍だったわけです。
ですから、この二人と比べられれば政治的力量には差があるのは当然のことで、
その意味で影が薄い印象になるのかもしれません。
ところがギッチョン、語られるエピソードからは幼少期からかなり聡明な人物だった
ことが窺えるのです。 折角ですから少し追ってみましょう。


家綱が6歳の時のこと、遊び相手である小姓たちがその側に侍る律義な老人に、
「祭の真似をしてご覧に入れよ」と無理強いしたことがあった。
律義な老人ですから、いやいやながらその真似をしようとしたところ、家綱はとっさに
老人を退出させたうえ、小姓たちをこうたしなめました。
~この竹千代(家綱の幼名)を楽しませようとて、ひとを困らせてはならぬ~


それから後のことになりますが、遠島(おんとう)の刑罰があることを知った家綱が
周囲の者たちにこう尋ねたそうです。
~遠島になった者たちは、島でなにを食べて命をつなぐのか?~


ちなみにその「遠島」とは、こんな説明になっています。
~江戸時代の刑罰の一種で、罪人を辺鄙な島に送り、社会から隔離して苦痛を
 与える刑。
 その島として伊豆七島、薩摩、五島の島々、隠岐、壱岐、天草が指定された~


家綱に返ってきた言葉は、
~命を助けるだけであって、食物を与える制度はありませぬ~
これに家綱は反論します。
~命を助けたのだからこそ、食べ物を送ってやるべきではないのか~
このやり取りを聞いた父将軍・家光が大いに喜んだだけでなく、また島役人たちは
これ以後定期的に流人たちに食料を与えることになったとされています。


また、こんなお話も紹介されています。
~家綱が食事していたとき、汁物を飲もうとしたところ髪の毛が入っていた。
 家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、慌てて新しい物と

 交換しようとした小姓の姿を見てこう言った。 
 「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」~


なにを言っているの?
~これは椀を空にすることにより、普段のおかわりと同じ様に扱えということで、
 咎められる者が出ないようにと家綱が配慮したのであった~
なかなかに「理想の上司」であったかもしれませんねぇ。


また、江戸城天守閣と遠眼鏡のエピソードも語られています。
~家光がまだ存命の頃、家綱は本丸の天守閣に登り、遠眼鏡を受け取って四方を
 眺めては感嘆の声を上げるのが常だったが、それをピッタリ止めてしまった~


首を傾げた近習たちがその理由を尋ねると、こんな言葉が返ってきた。
~父上様の御代が続いているのであれば、たとえ余が毎日ここへ登って江戸中を
 見下ろしていたとしても、町方の者たちは見すごしてくれただろう。
 だが、もう将軍宣下を受けた身の余が遠眼鏡で見つめているかも知れぬと思えば、
 町方の者の中には迷惑に感じる者も少なくはあるまい~


さて、この家綱の代に、実は大きな事件が続いて起こっているのです。
保科正之の段にあった「慶安事件」(1651年)もそのひとつで、この事件は
48歳で病死した先代・家光の後を弱冠11歳の息子・家綱が継ぐという体制継承の
間隙を狙ったものでした。
この折は、保科正之ら幕閣が前面に立って指揮を執っています。


また「明暦大火」(振袖火事/1657年)の際には、こんな様相を呈しました。
~本郷丸山本妙寺から出火し、折からの強風にあおられ燃え広がった。
 翌日には小石川新鷹匠町、麹町からも出火し、鎮火するまで2昼夜にわたり

 江戸市中の大部分を焼失した。 数ある江戸の大火中でも最大級の火事である~


 

  明暦大火(1657年) / 諸宗山回向院(戦前)


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未曽有の大火は江戸城にも容赦なく襲い掛かりました。
~江戸城も天守閣が焼け落ちたのをはじめ本丸・二の丸・三の丸殿舎を焼いた~
この時、的確な指示を出すことで場内の混乱を未然に防いだのが、先の保科正之と
「知恵伊豆」こと松平信綱だったのです。


あれっ、だったら将軍・家綱は?
おそらくイッパシの対応はしたことでしょうが、この時まだ高校生?(17歳)
でしたから、さすがにその功は正之・知恵伊豆の方が大。
ただ、死者10万余人の供養のために両国に「回向院」(諸宗山無縁寺/浄土宗)を
建てるなど事後の施策はキッチリ担っています。


それに留まるものではありません。
~「明暦大火」で焼失被害にあった江戸市中の武家屋敷、神社仏閣などに資金援助し、
 復興に助力。 
 また、この大火を教訓に両国橋を架設し、橋のたもとには「火除地」を設けた~

都市再建計画にも積極的に取り組んだということです。


上のように、家綱の業績はいささか地味っぽい印象がありますが、実は随分と
思い切った政策転換もいくつか行っているのです。
その一つに挙げられるのが、末期養子の禁止を緩和(1651年/11歳)したことです。


その末期養子とは、
~大名の当主が「嫡子」(跡継ぎとなる子)のないまま病気や怪我で死に瀕したとき、
 家の断絶を防ぐため早急に縁組した養子のこと~と説明されています。
当主が、運よく危篤状態を脱した場合などには、その縁組を取り消すこともできる
という、あくまでも緊急の特例制度でした。


ところが、幕府はこの特例をばっちり禁じていたのです。
なんで? 実はこんな理由がありました。
たとえば危篤状態に陥った場合、当主の意志の確認が困難であること、また
たとえば家臣などが当主を手に掛け、自分達に都合の良い人物にすげ替えるといった
不正が行なわれる可能性もないではないこと・・・などなど。


幕府は末期養子制度を禁止することで、こうしたリスクを避け、大名に対する
統制を強めていたのです。
しかし、こうした強圧的な統制は、嫡子不在で取り潰しに遭う大名家を続出させ
ました。


その結果、そこに仕官していた武士はリストラされて浪人(失業者)とならざるを得ず、
また、そうした浪人が増えることで社会不安も増大するという負のスパイラルに陥り、
その結果として「慶安事件」(由比正雪の乱)のような騒動を招いてしまったのです。


由比正雪らの決起そのものは不発に終わりましたが、この事件を教訓として、
いくつかの条件付きながら末期養子の禁止は緩和され、浪人救済のための施策にも
力が入れられるようになりました。
それが、この将軍・家綱の時代だったのです。


さらには「殉死の禁止」(1663年/家綱23歳)もあります。
ちなみに「殉死」とは、主君などの死に際し家臣や妻があとを追って死ぬことを
言い、実際この時代までは殉死は武士らしい美徳とされていました。
ところが家綱はこの殉死を「不義無益」(人の道に外れ、益もない)として
禁止したのです。  


家綱の年齢からしても、先の「末期養子禁止の緩和」の方はは「ジイ」保科正之主導に
よるものだったかもしれませんが、しかし、こちらの「殉死の禁止」は
青年将軍・家綱の意思・思想を強く反映したものでしょう。 
実に思い切った思想であり英断でした。


なにせ、これは「命を大切に」ということですから、戦国時代の「敵を殺してナンボ」
という価値観からは180度の大転換です。
堅い言葉なら、力づくで来いという「武断政治」から、法制や秩序を重んじる
「文治政治」への、コペルニクス的ウルトラ大転換をやってのけたことになります。


そうして眺めると、家綱が「知名度はイマイチですが」との印象になるのは、
ひょっとしたら、幼少の時から病弱だったとか、また「享年40」という短い寿命だった
ことが最大の原因になっているのかもしれませんねぇ。


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