油断編15/城包囲そして誰もいなかった
実質的に天下の雄となった織田信長(1534-1582年)が家臣・明智光秀(1528-1582年)
による謀反「本能寺の変」(1582年)であっけなく倒れたことで、その後の情勢は
信長の家臣であった羽柴秀吉(豊臣/1537-1598年)と、信長とは同盟者の立場に
あった徳川家康(1543-1616年)が対立する構図になりました。
そして、この両者が直接に激突したのが「小牧・長久手の戦い」(1583年)という
ことになります。 このような説明になっています。
~羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が9か月にわたり尾張国内で戦った持久戦~
でも、その織田信雄(1558-1630年)って?
死んだ信長の次男であり、信長の正当な後継者と目された人物です。
そして、なぜこうした展開になったのかといえば、
~織田信長の死後、統一政権の確立を意図する秀吉と、後継者としての正当性を備えた
信長の次男・信雄の対立が次第に表面化した~
つまり信勝は、秀吉にまともに戦を挑んだのでは到底叶わないと踏み、一方の雄である
家康に泣きつき援助を求めたということです。
そこで家康は、主家をないがしろにするがごときの秀吉の態度に対して、
「織田家から支援要請があった」との大義名分をもって信雄を迎えたわけです。
そして、両軍の激突。
~小牧山(愛知県小牧市)に本陣を構え秀吉包囲戦を展開した家康・信雄軍に対し、
秀吉も大坂を出陣し、楽田(がくでん/愛知県犬山市)に本陣を置き対峙した~
これを「小牧の戦い」といい、秀吉方は10万、家康・信雄方は1万6000~7000が
出動したとされています。
ところがその後に、秀吉方は家康をこの小牧の地に釘付けにして、その間に三河を
攻撃するべく後方攪乱作戦を取りました。
ところが、これが事前に漏れ、そのことによって家康方の完勝に終わりました。
これを「長久手の戦い」といいますが、一般的には前者と併せて「小牧・長久手の戦い」
との表現が用いられることが多いようです。
さて、この「小牧・長久手の戦い」は、秀吉軍VS家康軍の唯一の直接対決であり、
その意味では天下を決する重要な戦いでした。
ところが、その戦いにおいて、俄かには信じられない冗談のような一大マジックが
演じられたとされています。 いったいどんなマジックが?
ええ、包囲されたはずの徳川方の人も馬も、秀吉方の知らないうちにすっかり消えて
しまっていたのです。
お話の次第はこうです。
この日、両軍が激突した「長久手の戦い」において圧勝した家康軍は、手薄にした
遠征基地・小牧山城への帰還を急ぐこととし、その途中に小幡城に入りました。
このことは兵士の休息と目的地・小牧までの距離を考慮したものであり、とりわけ
不自然なことではありません。
一方の秀吉軍もその点にはぬかりはありません。
戦いの真っ最中ですから、神経だってすっかりとんがっています。
そこで、この情報をキャッチするや当然のごとく小幡城へと兵を進め、夜明けを待って
家康軍と一戦交える作戦を取ったのです。
ここで、両者「がっぷり四つ」に組む体勢が整いました。
ところがです。
翌朝明るくなってあたりを見廻してみると・・・あれっ、城内の人も馬もスッカリ
消滅して見事にカラッポに!
つまり、家康軍は、小幡城を取り囲む秀吉軍にまったく気づかれないようにして、
無事に小牧山城への帰還を成功させたということです。
しかしこれが事実だとしたら、どうしてそんなことになったのか、それが不思議です。
第一に夜間の静寂の中で兵士や馬が移動のための準備行動を取るなら、いやでもそれなり
の音や声が発せられることになり、それは当然包囲した秀吉軍側も気がつきます。
秀吉軍とて、細やかな神経を配っていたハズだからです。
ところが実際には、見事にあるいはまんまと「無音無声撤収」を成功させているのです。
あまりにもミステリーな出来事です。
ですから、この出来事についてはこんな解釈もあるようです。
~家康軍には馬を自在にコントロールできる技術があった?~
つまり、馬に対する一種の「催眠術」とか「鍼灸術」のような特殊な技術を備えて
いて、「いななき」さえも制御できたとする考え方です。
しかし、これでは未解決の問題が残されたままで一件落着とはなりません。
馬が動けば足音が、また人が動けば武具や荷物が揺れたりこすれたりして、否応なく
音も出るものです。
では、これらの問題をどのように解決したのでしょうか?
で、ここにも別の解釈が登場することに。
~家康軍は高性能な「防音ツール」を豊富に用意していた?~
そのためのツール、すなわち馬の足音については「馬用の足袋」とか、あるいは
武具や荷物が発する音に対しては「武具積荷用の防音クッション材」などを用いたと
する見方です。
しかし、この説明でもまだまだ得心はいきません。
なぜなら、つい先ほどまで激戦の最中にあった部隊が「足袋」や「クッション材」を
ふんだんに用意していたとはちょいと考えにくいことだからです。
そうすると、方向を変えてこんな検討も加わることになってきます。
~小幡城での休憩は、そもそも家康軍の陽動作戦だったのではないか?~
要するに、家康軍は小幡城に入ると見せかけたばかりか、同時にぬかりなく入城した
という「偽情報」も流した上で、実際には城に入ることなく、まったく別の行軍ルートを
選択して小牧山城への帰還を目指したのではないだろうかとする見方です。
この場合、その「偽情報」をキャッチした秀吉軍が小幡城を囲んだ頃には、家康軍本隊は
すでに別ルートで小牧山城へ向け行軍を進めていた、という図になります。
つまり、秀吉軍は何も知らないまま「もぬけの殻」になった小幡城を包囲し張り付いて
いたという解釈です。
これと似ているのですが、秀吉軍に対してはもう少し辛辣なこんな別の解釈もあります。
秀吉軍の情報収集は的確に行われていたものの、その情報伝達にはタイムラグが生じ、
家康軍が小幡城を出発した後なって、ようやくのこと秀吉軍が現地到着できたとする
見方です。
こちらは秀吉軍側がドジを踏んだかのようなニュアンスになっています。
ただ、事の真相は分かっていません。
分かっているなら、それがとっくの昔に定説になっているはずですから当然です。
そこで、この「分かっていない」という事実を「もっけの幸い」として、
「小さな親切・大きなお世話」というご迷惑を承知の上で、筆者独自の解釈を
御披露することにしたのです。
羽柴秀吉 VS 織田信勝+徳川家康
さて、この「小幡城マジック」については、少なくとも公式には、後世になって
「秀吉に一泡ふかせてやったワイ」などと自慢気に話す人間も現れませんでした。
それを勘案するなら、つまりは馬への催眠術とか緻密な謀略作戦とかいうような
外連味たっぷりの講談もどきの出来事だったとは考えにくい一面があります。
その点に着目すると、ただ単に秀吉軍・家康軍の双方のイージーミスが妙な具合に
絡み合ったというだけの結構ショボイお話だったことも考えられないわけでは
ありません。
夢もロマンもない見方ですが、いかに大物歴史人物同士の絡みだったとしても、
人間の営みとして眺めるなら大いにあり得ることです。
そうではあっても、秀吉にとっては、この「小幡城のマジック」の一件はよほどの
ショックな出来事だったのか、このことには生涯触れなかったそうです。
この「小牧・長久手の戦い」では、秀吉は家康にやられ放題だったのですから、
ある意味当然かもしれません。
しかしながらそこはさすがに秀吉で、決して「やられっ放し」に終わったわけでは
ありません。
この直後には同等(それ以上か?)のショックを家康に与えてキッチリ「お返し」を
しています。
ええ、双方の切札的存在であった織田信雄を家康から切り離すことを成功させ、
なおかつ、家康を抜きにした形で信雄との単独講和を結んだのです。
まさに「大ドンデン返し」ですが、こうなると信雄後見人ともいうべき立場にあった
家康とて上げた拳を下ろさざるを得ません。
つまり、戦争ではとことん家康に負けた形になった秀吉でしたが、政争においては
技あり一本を取り返す格好になったということです。
それはともかく、この「小幡城人馬消滅事件」?もその一つの例なのかもしれませんが、
「分かっていない歴史」について想像を膨らませてロマンを求めるのは人間の習性
みたいなもののようです。
たとえば、
~クレオパトラの鼻がもうすこし低かったら、世界の歴史の局面は変わっていただろう~
このようなロマンに満ちた言葉で紹介されることの多い古代エジプト女王の
クレオパトラ(前69-前30年)ですが、実際その時代に生身の姿を映し取る
「写真」というものがあったとしたら、本当に現在でも「絶世の美女」と言われ続けた
ものかどうか?
ヘソ曲がりな筆者なぞは、実物は案外「鼻ペシャ」だったという可能性も排除できない
という主張をしている者です。
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