ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

偶然編04/ツキあって超国難をクリア

~この日本に元の大軍が二度(文永の役1274年/弘安の役1281年)まで侵略を
 仕掛けてきたが、いずれとも失敗に終わった~

「元寇」あるいは「蒙古襲来」ともいうこの出来事に対して、日本人が持つ平均的な
イメージはこのくらいのものかもしれません。
しかし、これを間違いとすることまではできないでしょうが、これだけではこの
出来事が真に「国家的危機」だったという認識には至っていない印象です。


そう、実はこのことは未曽有の超国難と言っていい出来事だったのです。
何しろ、この頃の「元」は世界最強の騎馬軍団を有して、その支配圏を遥か
西ヨーロッパまで拡大していた超大国だったのです。 
ええですか、ヨーロッパですよ、ヨーロッパ! 


その勢いを今度は日本に向けてきたのです。
しかも一回だけでなく、さらに7年後にも繰り返してきたのですから、その
「超国難度」といったらハンパではありません。
事実、朝鮮半島では「高麗国」がその「元」の侵略によって実質的な植民地に
されてしまっています。


ただ、この際には日本側にもいくつかの幸運、つまりツキがありました。
ひとつには、もちろん「海」の存在です。
日本が大陸と地続きの国土であったなら、元軍の最強騎馬軍団は通常通りの攻撃も
出来たのでしょうが、この間には海(日本海)があった。
後世の城構えで言うなら外堀ほどのイメージになる、自然の超巨大外な防衛施設に
囲まれていたということです。


 『蒙古襲来絵詞』


その海を渡るためには兵員・武器はもちろんのこと、得意の戦法を採るために必要な
数多くの馬も船で運ぶ必要があります。
馬がいてこその強さを発揮できる騎馬軍団なのですから当然です。


しかし、地続きの大地ならともかく、今回はその馬も船での運搬が必要ですから、
運べる馬の数が限られます。
このことだけでもかなりの戦力ダウンになるはずで、言葉を換えるなら、元騎馬軍団は
本来の強さを十分に発揮することができなかったということです。


それに見落としがちですが、もうひとつにはこの時の日本政府が「軍事政権」
あったことも挙げるべきでしょう。
なぜなら少し前の平安時代に、こうした中国大陸からの侵略が起こっていたとしたら、
しっかりやられてしまっていたに違いないからです。


というのは、第50代・桓武天皇(727-806年)以降のこの時代、国家は穢れとして
軍隊や警察を廃止していました。
要するに防衛や治安をすっかり放棄して、非武装のいわば「丸腰国家」の状態でいたと
いうことです。


そんな状況下で外国からの侵略があれば、施政者に徹底抗戦の発想や選択肢は
あり得ません。
軍隊もいなければ警察すらないという有様ですから「打つ手なし」になるのは当然です。
そうなると、できることと言えば祖国の無事を一心不乱に「祈祷」することに限られて
しまいます。


事実、この「元寇」の際における施政者(朝廷公家)のお歴々は熱心な「祈祷」を
全国レベルで展開しました。
つまり、~心底からの「祈祷」があれば「現実」問題をも解決できる~
信じていたわけです。


科学的考察に慣れた現代人からすればまるで子供騙しの受け止めです。
しかし、現代でも「イワシの頭も信心から」という言葉も生き続けているのですから、
昔の人の言動を笑い飛ばしてしまうことはできません。
そして、この「元寇」という現実に対処したのは、こうした言霊信仰に根っから染まった
朝廷公家のお歴々ではなく、鎌倉幕府という武士政権つまり軍事政権でした。


軍事政権というものは、相手の方か強そうだからといって簡単に降伏することは
許されません。
あくまで「突っ張る/強気の対応」こそが軍事政権自らのアイデンティティだからです。
ですからこの時の鎌倉幕府もそうしました。
鎌倉幕府第8代執権・北条時宗(1251-1284年)が、この軍事作戦のトップに立つことで、
攻め入る元軍に対して果敢に国土防衛に臨んだのです。


そして鎌倉武士は、その奮戦によって見事に「国土防衛」という大仕事をやって
のけました。 しかし、朝廷公家のお歴々はこう主張したのです。
~元軍を撃退させたのは武士団の戦いなぞではなく、我々の一心不乱な祈祷が
 天に通じたことで起きた神風なのである~
穢れた武士の力によって国土が防衛されたという事実を絶対に認めたくなかったわけです。


そうした強い主張があって、以後長きにわたって「神風が元軍を全滅させた」という
説明が信じ続けられてきたのは御存知の通りです。
この時に指揮を執った北条時宗は二度目の「元寇」(1281年)の3年後に亡くなって
います。 現代風に言うなら満32歳の若さです。
これを思えば、「元寇」とは祈祷でどうにかなったというものではなく、まさに
武士団の命懸けの奮戦があっての国家防衛だったことになりそうです。


 

    ザビエル / インカ帝国征服


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また、このこともあまりは意識されていないようですが、「元寇」の他にも国家滅亡の
危機と言ってよそうな出来事もありました。
宣教師・
ザビエル(1506?-1552年)による、いわゆる「キリスト教伝来」(1549年)
です。


しかしながら、新たな宗教が伝わることが「国家滅亡の危機」とは、お話がちょっと
ヘンではないのか?
だって、かつての「仏教公伝」(6世紀半ば)の折だって、国家滅亡の危機どころか、
文化的学術的な発展をもたらしたのだぞ。


そんな指摘もありましょうが、ところがそうとは言えないのが当時の「キリスト教」
でした。 こんな世界戦略を持っていたからです。
まずは、その地にキリスト教を布教し根づかせ、その地域の体制を弱体化させる。
次には折を見て本国から武力侵攻に及び、最後には属国や植民地としてしまう。


その具体的な事例の一つが「インカ帝国」でした。
12世紀前半頃にインカ部族、南米アンデス山中に建てた国家「インカ帝国」は、
15世紀頃から強大になり大帝国を築きました。
しかし、その後にキリスト教が伝えられると、間もなくスペインの探検家
フランシスコ・ピサロ(1475頃-1541年)によって征服(1532年)され、そして
ついには滅亡にまで追い込まれています。


つまり、キリスト教の布教活動はその国家を乗っ取るための「尖兵の役割」を果たして
いたということです。
そうした経験を積んだ後の「キリスト教」が目を付けたのが、日本を含むアジア諸国
でした。 それにはこんな理由があったとされています。


~この時代のヨーロッパは貧しい農業地帯で当時の世界の後発地域であったが、
 これに対し、絹や香料という奢侈品を産出するアジア諸国は、ヨーロッパの
 支配階級にとって、文字通りの「憧憬の地」であった~


つまり、こういうことです。
~そんな素晴らしい地域を放っておくことはない。 さあマニュアル通りに、
 まずは宣教師を送り込み「キリスト教」を布教することから始めよう~


そこで、ザビエルの来日ということになったのです。
そうしたキリスト教に対して、日本自身も当初は割合に好意的でした。
かつては「仏教」という新宗教を受け入れた経験があり、それ以後は神と仏の双方が
仲良くやってきたからです。


実際、キリスト教宣教師たちの方も、日本人との多少の衝突を起こしながらも
布教を続け、時の権力者・織田信長(1534-1582年)の庇護を受けることにも成功し、
順調に信者を増大させていきました。


ところが、信長の後継者となった豊臣秀吉(1537-1598年)の時代になると、
勢力を拡大したキリスト教の側が神道や仏教を迫害する事例が起こるようになりました。
そればかりか、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に
人身売買されているという話さえもあったようで、こうしたことを耳にした秀吉は、
キリスト教を危険思想(宗教)と見て、「バテレン(キリスト教宣教師など)追放令」
を発布し、宣教自体の禁止に及びました。


さらには、スペイン船サン=フェリペ号漂着(1596年)という出来事があり、その際に
日本側取調べに際し、スペイン人船員がこう答えたことも秀吉の耳にも入りました。


質問~何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか~
返事~我らのスペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業と
   している。
   その方法は、まずその土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、
   兵力をもってこれを併呑するにあり~

これでは「キリスト教弾圧/バテレン追放令」も無理からぬことです。


事実この後においてキリスト教は、布教の情熱を日本から中国に向けています。
その理由は? 
宣教師による本国宛への報告にこんな内容があったからとされています。
~日本は結構な軍事大国であるからして、属国化するにはかなりの難儀を覚悟する
 必要がありそうです。 しかしながらその点、中国の方は断然にやりやすいと
 想像されるところです~


こうした経緯があって「キリスト教」による「日本キリスト教国化」、つまり
「属国化」計画は挫折しました。
そうした目線で歴史を眺めてみると先の「元寇」の場合にせよ、この「キリスト教布教」
の場合にせよ、日本国の「属国化」を未然に防げた理由は、いづれの場合も当時は
軍事政権だったという事実です。


言葉を換えるなら、当時が軍事政権でなかったとしたらいずれは属国化されて、
今頃の私たちはひょっこり中国語かまたはスペイン語を話していたかもしれないという
ことです。
そう考えると、当時の「軍事政権」につくづく感謝の意を示したくなってきます。


なんで? そんなこと決まっているじゃあありませんか。
筆者は中国語やスペイン語よりも、現在使っている「尾張語」の方が断然好きだからです。
これも秘めたる「祖国愛/郷土愛」の一種なのかもしれませんねぇ、きっとなら。


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