ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

トホホ編38/アウェイ戦争はてんで苦手です

現在の日本民族は海に囲まれた「島国」に住んでいます。
日本という名称がまだなかった頃のご先祖様たち(大和民族)も、その点は同じで
長らく列島(島国)住まいを続けてきました。


さて、そうした列島民族のライフスタイルを、陸続きの大地に住む他民族と比較して
みると、こういうことが言えるのかもしれません。
~列島民族は、大地に本拠を構える民族に比べたら、他民族に遭遇・接触する機会も
 少ないために、その分お付き合いの術にも磨きがかからなかった~


たとえば、大陸の只中に位置するモンゴルから出た「元朝」(1271-1368年)なぞの
活動を知るに付け、そうした思いは強くなります。
なにしろ「元朝」ときたら、瞬く間に中原(中国)の支配をしたばかりか、はるか
東ヨーロッパ(ポーランドあたり)まで勢力を伸ばした時期さえあったからです。
ヨーロッパですよ、ヨーロッパ。


陸続きの環境であり、さらには異民族に対する外交や武力行使が巧みだったからこその
実績であり、敵地まで踏み込んでの戦争、いうならば「アウェイ戦争」に滅法強い
民族であったとは言えそうです。


一方、そうした目線を列島住まいの大和民族に向けてみると真逆な印象になります。
えぇ、言葉にするなら~アウェイ戦争はてんで苦手です~ということです。
ただ、それだけでは分かりにくいでしょうから、具体的な例にも触れてみましょう。
まずは、昔も昔、大昔の「白村江の戦い」(663年)です。


   白村江の戦い


それは、ざっとこんな経緯を辿りました。
唐・新羅の攻撃を受けて散々にやられた百済は、ついには国王までもが唐に連行される

ことで実質的な滅亡に至りました。 これが660年のこと。


しかし、そうした中でも百済復興を目指す遺臣たちがいて、彼らは日本に対して
救援軍の派遣を求めたのです。
これを受けた中大兄皇子(後の第38代・天智天皇/626-672年)ら、日本の支配層は、
要請に応えるべく、まずは、政権中枢を筑紫(九州)に移すなどして臨戦体制を整えます。


しかし、実戦における日本軍は白村江で唐の水軍と対戦(663年)でボロ負けを喫し、
多くの戦死者を出しました。
えぇ、完膚なきまでにボッコボコにされてて撤退を余儀なくされたたということです。


どのくらいのボッコボコさ加減だったかと言えば、こんな按配でした。
~百済の復興が絶望となったばかりでなく、日本側も唐・新羅の追撃という脅威に
 備えねばならず、大宰府(朝廷支所?)防衛のための堤防(水城)を建設し、
 九州から大和にかけての各所には防衛用の山城を築造した。
 それだけに留まらず、さらには都も飛鳥から近江の大津に遷した~


つまり「遷都」(首都移転)まで決行せざるを得ないほどのボロ負けだったわけです。
おそらく中大兄皇子自身は「チビる思い」だったでしょうし、夜なんぞは
「震えて眠れ」状態だったはずです。
現代だったら、間違いなく「カウンセラー通い」を勧められたことでしょう。


さて、そのずっと後のことになりますが、島国・日本は「元寇」という未曽有の
国家的危機に見舞われました。
先の「元朝」による、今度は日本本土作戦、いわゆる「元寇/蒙古襲来」
(文永の役1274年/弘安の役1281年)
と呼ばれる侵略攻撃です。


しかし、これはなんとか切り抜けることができました。
その原因の一つには、この時期の日本の政治形態が武士によるいわゆる軍事政権で
あったことが挙げられるでしょう。
これが平安時代のように、軍隊も警察も廃止した国防力ゼロのままだったとしたら、
さすがに手の打ちようもなかったはずです。


なぜなら、敵は強力な軍事力をもって侵攻して来たのですから、防衛するためには
それ相応の軍事力が必須なのは言うまでもないからです。
朝廷貴族が信仰する「念ずれば必ず叶う」なんて言葉の霊力は、リアル社会では
通用しないものなのです。


それはそうとしても、敵軍を退散させた一番の要因として挙げられることは、これが
日本本土で敵軍を迎え撃つ形のいわゆる「ホーム戦争」だったことでしょう。
言葉を換えれば、「白村江の戦い」のように海外へ仕掛け出る「アウェイ戦争」では
なく、いわゆる「自宅の庭」で繰り広げた戦いだったということです。


さらに挙げるなら、攻撃側の元・高麗軍が最強の武器?である馬を十分な数だけ
用意できなかったこと。
「日本攻略」が叶えられるだけの多数の馬を積んだ大船団が、揃って日本海を
渡り切ることはさすがに無理な相談だったのです。


強さの源泉である馬が不充分では、いかに屈強を誇る元・高麗軍といえども本来の
実力を発揮することができません。
侵略軍は「馬なし」という不慣れな戦いの上に、防衛する日本軍側には地の利という
要素が重なっていましたから、なんとか乗り切ることができたわけです。


しかし、この時の日本側最高司令官・北条時宗(第8代執権/1251-1284年)が
受けた心理的ダメージの大きさは、おそらくは「白村江の戦い」の折の中大兄皇子の
比ではなかったことでしょう。
中大兄皇子の場合、「白村江の戦い」に負けたとしても(実際負けちゃったけど)、
次の手段として「本土決戦」が残されていました。


しかし時宗の場合には、この「元寇」自体が既に「本土決戦」なのですから、
「負ければそのまま祖国滅亡」の危機です。
そのプレッシャーの重さたるや並大抵のものではなかったはずです。


そうしたことは、中大兄皇子が「白村江の戦い」以後も十年ほど生きながらえたのに
比べ、北条時宗は、なんと「元寇」のわずか三年後に34歳の若さでこの世を去って
いる事実からも推察することができます。
しかも中大兄皇子の場合は、それが寿命を全うした本来の亡くなり方ではなく
暗殺による強制死の可能性も指摘されているのですから、尚更その感は強くなります。


さて、その「元寇」から300年ほど後の日本は、いわゆる「戦国時代」を迎えます。
少し大袈裟な表現が許されるなら、「日本中が戦争だらけ」の時代ということですが、
これらは基本的にいずれもが日本国内での戦争です。


ところが、そんな中でも「唐入り」という軍事行動が起きているのです。 
何ですか、その「唐入り」って?
~1592年(文禄1)から1598年(慶長3)にかけ、豊臣秀吉(1537-1598年)が
 明(中国)征服を目ざして朝鮮に兵を出した侵略戦争~


またこんな説明も。
~日本では、その当時「唐入り」「高麗陣」などと呼んだが、江戸時代に入り
 「征韓」とか「朝鮮征伐」とよぶようになった。
 20世紀に入り、「朝鮮役」「文禄・慶長の役」とよぶようになった。
 今日では「文禄・慶長の役」とともに「秀吉の朝鮮出兵」とよぶのが一般的であるが、
 事の本質からみて、「秀吉の朝鮮侵略」とよんだほうが正しい~


 

 秀吉の朝鮮侵略 / 日中戦争(昭和時代)


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要するに、秀吉本人が「中国征服」を目論んで起こした対外軍事行動ということです。
しかし、その実態といえば「朝鮮戦線」レベルに留まったばかりか、それも秀吉が

死ぬと即座に撤兵の運びになったのですから、これも~アウェイ戦争はてんで苦手です~
の例外ではありませんでした。


この場合の失敗の一因としては「情報能力」という問題を挙げることができるのかも
しれません。
と言うのは、どうやら秀吉自身は朝鮮を対馬・宗氏が支配する地域だと思い込んでいた
フシが感じられるからです。


そうした思い込みに沿って秀吉はこう考えたようです。
~朝鮮が対馬・宗氏の支配下にあるならば、本来の目的である唐国征服のための
 通り道にするのが最良の活用法である~


ところが、対馬・宗氏の実際の姿はそんな単純なものではありませんでした。
日本と朝鮮という、宗氏が関りを持つ両国の板挟みの恰好となって、その結果、日本側
にも朝鮮側にも良い顔を向ける、いわゆる「二枚舌」を駆使していたのです。
旗色を鮮明にしてどちらか一方に与することは得策でないばかりか、自身の滅亡にも
繋がりかねないリスクもあるのですから、止むを得ない選択だったのでしょう。


これは16世紀のお話でしたが、実は20世紀に入ってからも、日本が「アウェイ戦争」
を仕掛けた歴史があります。
その当初の相手と舞台は中国でした。


~中国大陸で日本軍が起こした「盧溝橋事件」(1937年)をきっかけとして、
 戦線は全中国に拡大していった。
 アメリカやイギリスは日本のそうした行動を糾弾しただけでなく、即時撤兵を強く
 要求したため、日本はついに宣戦布告し、その果てに
「太平洋戦争」(1941-1945年)
 に突入していった~


その結果は御存知の通り。
~1945年8月 15日の日本敗戦によって、日中戦争・太平洋戦争も終結する
 ことになった~

ええ、このこともまた懲りずに~アウェイ戦争はてんで苦手です~を繰り返したことに
なりそうです。



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