ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

付録編23/名称名前のあれこれ御作法

さて、どのように言ったらよいものか、そうした方面の話題にとんと疎い筆者には
判断が付きかねますが、児童虐待、性加害犯罪、人権蹂躙などの表現をもって
昨今盛んに取りざたされているいわゆる「ジャニーズ問題」です。
現在では、お話はどうやら事務所の名称を変える、変えないというところまで
きているようです。


ああしたことが数十年という長期間にわたり執拗に繰り返されていたとするなら、
それだけで「J事務所」は「反社会的勢力」あるいは「犯罪組織」に該当する存在
だったことになるような気が、筆者にはしています。


まあしかし、そうした関連ニュースの一部をTVでちょっと覗いただけで、ああじゃ
こうじゃと物申すのも大変に失礼なことでしょうが、今回の事務所側の説明に接し、
筆者などは、なんとはなしの怪しさ・胡散臭さを感じたところです。


それはさておき、そうした「名称」なるものも、人が対象になるとその呼び方も
「名前」となります。
そして、この「名前」をちょっとばかり注意を払って眺め直してみると、これが結構
「ハテナ」の宝庫になっていることに気が付きます。
もし、アナタがそうしたことにとんと気が付いていなかったとしても、ここでは気が
付いていたことにしてください。 そうでないと、先へ進まないからです。


たとえば、こんな疑問です。
~昔の女性の名前は、なぜ多くが伝わらずに不明のままなのか?~
これについては、筆者の周りにはこんな反論を仕掛ける人も少なくないようです。
~それは愚問だ。 だってだぞ、ずっと大昔の女王・卑弥呼や源氏物語作者・紫式部
 など、女性の名前もそこそこに伝わっているではないか~

   

      卑弥呼 / 紫式部


ところがギッチョン。 
卑弥呼も紫式部の「女性の名前」というわけではないのですねぇ、これが。
たとえば
「卑弥呼」(生年不明-247年)なら、シャーマンもどきの立場だったと
伝わっていますから、そのことからすれば、おそらくは「日(太陽)の巫女=日巫女」
くらいの意味合いだったと推察されます。


要するに、現代で言う「総理」とか「社長」とかのような単なる肩書、あるいは立場の
名称にすぎず、決して人名ではないということです。 残念ながら。


また同様に「紫式部」(973?-1031年?)も本名ということではありません。
本名については、どうやら「藤原〇子」とまでは分かっているようですが、この
「〇子」の〇の部分がどうしても確定できない。
そのために、本人を特定し指し示す場合は「紫式部」という仮名?愛称?を
使っているわけです。


では、その「式部」って?
~「式部」は、父・藤原為時(949頃-1029年頃)の官位、つまり式部省の官僚・
 式部大丞だったことに由来するとする説がある~


ではでは、頭にある「紫」は?
~このような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無い。
 そのため、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物
 「紫の上」に由来すると考えられている~

要は、こちらもよくは分かっていないということです。


蛇足ですが、「紫式部」についてはこんな説明も。
~現在、日本銀行券のD号券の2000円札の裏には、(紫式部の)小さな肖像画と
 『源氏物語絵巻』の一部を使用している~
その「2000円札」を見かける機会も少ない筆者などはとんと知らないことでした。


人の名前については、どうやらこんな事情・慣習があっようです。
~昔は、実名はその人の霊的人格と結びついていると考えられた。
 つまり、実名が明らかにされると呪いを受けるリスクが大きくなると考え、
 そのため特に女性の実名は家族か結婚相手にしか知らされなかった~


さて、お話はそのような女性から子供に移って、「幼名」という種類の名前です。 
これは、
~幼少時の名前のことで、主に平安時代から江戸時代にかけて、武士や貴族の子が
 幼児である期間につけられる名前であり、だいたい元服して
を つけるまで
 その名前でいる~


なるほど、元服を迎えるまでのガキの頃限定の名前ということのようですから、
おそらくは親の愛情を詰め込んだものになっていたのでしょう。
では、その元服後に名乗る「諱」(いみな)って? 
これについての説明も覗いてみましょう。
~ 「忌み名」の意で生前の 本名。 死後に言う名前~


なんだとぉ、死んでから使う名前ってか。
だったら生前に使う名前もあったことになりそうだ。
そこで、少し突っ込んでみると・・・あったぁ、「字(あざな)」と言うようだ。
~(日本の場合は) 実名のほかに人々が呼びならわしている別名。通称。あだな~


説明文だけではいささか分かりにくい印象ですので、そうした実例を探していると、
超有名人にぶつかりました。
坂本龍馬(1836-1867年/幕末の土佐藩士、志士、経営者。
~諱(本名)は「直陰」(なおかげ)のちに「直柔」(なおなり)。字(通称)は龍馬~
意外にも有名な「龍馬」は本名ではなく、あくまでも通称(字)との説明です。


   

      坂本龍馬 / (中央)聖徳太子?


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また名前を何回も変えることは、昔はそれほど珍しいことではありませんでした。
名前を変える動機や理由はさまざまあったようで、それについてもいくつか挙げて

みましょう。


〇運勢を良くするためとか、災いや病気を避けるために改名。
〇新しい社会的地位や身分に似合うように改名。
〇結婚や家族関係の変化にともなって改名。
〇個人的な好みや価値観が変化した場合に改名。
〇不名誉や不運な過去を隠すために改名。
〇啓示や改宗など宗教的信念や儀式に基づいて改名。


それぞれの具体的な例を挙げればそれこそ切りがないのでここでは控えますが、
実はこれだけではありません。 
「偏諱を賜る」ことによって名前が変わることもあったのです。


何ですか、その「偏諱を賜る」って?
~功績ある臣下に主人の名の一字が与えられること~
であり、これは大きな栄誉とされていました。


その具体的な例なら、足利高氏(たかうじ/1305-1358年)が、第96代・後醍醐天皇
(1288-1339年)の名「尊治」の一字を賜って「尊氏」と称したことが挙げられます。
もっとも、その後の「尊氏」は室町幕府を創立することで、自らの親政に拘る
天皇「尊治」から離反したのですが。


蛇足を加えておくなら、元の名前「高氏」も実は、
~初めは得宗・北条高時(鎌倉幕府第14代執権/1304-1333年)の偏諱を受け
 高氏と名乗っていた~


さてさらにお話は飛躍して、その名前のややこしさからついつい思い浮かべてしまう
のが聖徳太子(574-622年)です。
~本名は、厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)とされる~
この早口言葉になりそうな聖徳太子の本名を、もしアナタが噛まずに連続三回
言い切ったなら、筆者はアナタを尊敬してやみません。


それはさておき、この「豊聡耳」にはこんな説明も加えられています。
~ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。
 我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を
 漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。 
 この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも
 呼ばれるようになった~


これだけでも充分に「ややこしい名前」と言えそうですが、さらには、負けず劣らず
ややこしい多数の「別名」もあったようです。
~上宮王/豊聡耳/上宮之厩戸豊聡耳命/厩戸豊聡耳皇子/法主王/豊聡耳聖/
 徳豊聡耳法大王/上宮太子聖徳皇/厩戸豊聰耳聖徳法王/上宮厩戸/厩戸皇太子/
 多利思比孤/~


どの名も似た構成になっていますが、よくよく眺めて見るとその中で最後の
「多利思比孤」だけはちょっと異色な印象ですので、そこにも立ち寄ってみました。 
すると、
~多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で
 記述される倭国王である~


しかし、この説明を素直に受け止めるなら「聖徳太子は天皇だった」ことにもなり
そうで、お話はさらに茶ノ木畑に向かってまっしぐらということになりますので、
まあここらで打ち止めにします。


さて以下は、筆者の歴史新説。
後の時代に、羽柴秀吉(1537-1598年)が賜った新姓「豊臣」には家臣を意味する
「臣」の字が入っているため、天下人を自負する秀吉にはあまり気に入ったもの
ではなかったことが想像されます。


そうした気分を察した朝廷側は、こんなことでヘソを曲げられたら大変とばかりに、
懸命に秀吉の説得に努めました。
~若干の齟齬があるようですので、敢えてお伝えしておきます。
 実は今回の「豊臣」姓は、あの聖徳太子のお名前「豊聡耳皇子」を声に出して読んだ
 「
とよとみみのみこ」から戴いたものなのですから、メッチャの箔が込められて
 いることを素直に喜ぶべきだと思いますよ、マロなんかは~



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