ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

忘れ物編35/ヤマトの王権継承スタイル

いわゆる「魏志倭人伝」と呼ばれる歴史書には、「倭国」及びその統治者である
「女王」について、このような紹介がされているようです。
~その数三十ほどの国の集合体である倭国。 女王・卑弥呼はその都である
 「邪馬台国」に居住し、「鬼道」を巧みに操って民衆に接していた~


これより少し前、つまり二世紀後半頃の倭国では長期にわたる内乱が起こっていた
とされています。 いわゆる「倭国大乱」です。
しかし、そんな状況が長く続いたのではお互いが疲弊するばかりで、誰にとっても
得にはなりません。
そこで終戦や停戦を模索する動きも出てきたのです。


ただ、こうしたことにはそれぞれの利害得失が絡むこともあって、そうそう簡単に
「手打ち」とはいかないものです。 おそらくは、この場合もそうだったのでしょう。 
そこで、誰が言い出したものか、
~諸国共同で連立女王を立てては如何なものか?~


なぁるほど、連立女王ということなら諸国にとっても、どこが勝ってどこが負けたと
いう話にはなりません。
つまり、相互のプライドを傷つけることもないわけですから、諸国としても話に
乗りやすい。
そこで「倭国(連立)女王・卑弥呼」の誕生を見ることになりました。


こうした場合に、トップに求められるのは堂々たる「カリスマ性」であることは
昔も今も変わりません。
これに欠けていたのでは、まとまる話もまとまるものではないのです。


<日蝕>部分蝕/皆既蝕/金環食/(国立天文台・天文情報センター)


その点、卑弥呼はとてつもないカリスマ性を備えていました。
それが、ずばり巧みに操る
「鬼道」です。 
~(鬼道とは)あやしい術。幻術。妖術~このように解説されていますが、要するに、
~神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようと
 する行為、および信念~

ということですから、「呪術」の一種と受け止めても差し支えないのでしょう


ところが、卑弥呼のそのカリスマ性を根底から揺るがす大事件が起こったのです。
「未曽有の天変地異」と言っていいのかもしれません。
こうしたことが起こらないために女王・卑弥呼を立てたのに、ああ、それなのに、
それが起こってしまったのですから、女王・卑弥呼に対する民衆の信頼は急転直下、
一気に奈落の底です。


早い話が、~なんじゃあ、こりゃあ!~といったところで、卑弥呼の「カリスマ性」は
地に堕ち、逆に「役立たず」との大非難を浴びるハメになりました。


では、その「未曽有の天変地異」とは一体なんだったの?
それは「皆既日蝕」でした。 ちなみにこんな説明を見つけました。
~日食とは、月が太陽の手前を横切るために、月によって太陽が隠される現象~


さらには、
~月が太陽の一部を隠す現象を「部分食」
 すべてを隠す現象を
「皆既食」
 月のみかけの直径が太陽に比べて小さいためにまわりから太陽がはみ出して見える
 現象を
「金環食」という~


昼日中(ひるひなか)に、こともあろうに太陽の姿に異変を生じたばかりか
明るさまで失ったのですから、民衆の受けたその衝撃度・ビックリ加減はハンパでは
ありません。


しかも、日本列島で起きた前回の皆既日食は、百年近くも以前の158年のこととされて
いますから、当時に生きていたすべての人間にとって、それこそ生まれて初めて
経験する驚愕の天変地異だったのです。
「チビる思い」とは、まさにこういう時に使う言葉かもしれませんねぇ。


それはさておき、民衆の総意は、
~我らを守るべきパワーを失った卑弥呼は、もはや役立たずのただの婆ァに過ぎない~
たちまち手のひら返しです。 厳しいものですねえ。


パワーやカリスマ性が衰えた王を取り換え、新しいエネルギーを得ようとする行動は、
なにも倭国に限らず、歴史的にはそれこそ古今東西人類共通のものです。
そこで倭国でも、御用済になったパワーを捨て、新しいパワーを得るために卑弥呼を
死へと追いやりました。
こんな、見たことも聞いたこともない天変地異を引き起こした責任を取らせたという
ことです。


えぇ、このあたりは「辞表」一枚で決着できる現代の状況とは大きく異なっていて、
この当時は王権を辞するだけでは、責任を取ったことにはならないのです。
しかし、その後継に立てた男王では世情が落ち着くところまで行きませんでした。


カリスマ王が死んだことで、「疑心暗鬼」というか、「隙あらば」というか、
そうした不穏な空気が相互間に復活したことで、かつてのように「王の下にまとまる」
という姿を取り戻すことができなかったのです。
そこで、「柳の下の二匹目のドジョウを狙う」、そんな魂胆をもって新しい女王を
立てました。


それが、先代・卑弥呼の娘とも宗女(一族の世継ぎの女性)とも言われる
「台与」(235-没年不明)でした。
~13歳で女王になり、倭をまとめた~こんな見方をされている女性です。


旧女王・卑弥呼が死んだ(殺された)後を、新女王・台与が継承したのですから
この事実を、別の言葉に換えるなら、
~ときの倭国王は「女系女子」で継承された~とも言えそうです。
同族の女性間で王位継承がされたのですから、そういう理解になります。


   

       卑弥呼 / 台与


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そして歴史は、いわゆる「謎(空白」の四世紀」を経て、大和(政権)朝廷の出現を
見ます。
~古墳時代に倭国の首長を中心として、いくつかの有力豪族が連合して成立した
 政治権力、政治組織~

大和(政権)朝廷とはこのように説明されています。


もっとも、その成立時期については、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、
4世紀前葉など、いささかの異同はあるようです。
また、その大和(政権)朝廷は、その首長を「王(きみ)」とか「大王(おおきみ)」
などと呼称したとされています。


「謎の四世紀」を挟んだ邪馬台国と大和朝廷。
そのそれぞれの首長には大きな相違点を見出すことができます。 どこがぁ?
卑弥呼から台与へのように、~ときの邪馬台国王は「女系女子」で継承された~
これに対し、大和朝廷の大王は「男系男子」で継承されていることです。


それが必ずしも確実な史実とは言い切れないようですが、歴代大王(天皇)は、
初代・神武を初めとして、02・綏靖/03・安寧/04・懿徳/05・孝昭/
06・孝安/07・孝霊/08・孝元/09・開化/10・崇神/

このように継承されたとされています。
えぇ、一人の例外もなく男王なのです。


ちなみに、そうした継承スタイルを採った大和朝廷における最初の女帝誕生は、
第33代・推古(564-628年)まで待たなくてはなりません。
この推古女帝の摂政が甥っ子の、あの超有名な聖徳太子(754-622年?)ですから、
男系男子による継承はメッチャ長い間にわたって続いていたことになります。


ですから、今度はこんな解釈も成り立ちそうです。
~王権継承スタイルが異なる邪馬台国と大和朝廷とは、何らの関係もない、
 まったくの別国家~

これだと王権を女系女子継承としていた邪馬台国が、いわゆる「謎の四世紀」の間に
滅び、その代わりに、王権を男系男子継承とする大和朝廷が登場したことになります。


王権の継承方法が全く異なるという点に注目するなら、割合素直な見方と言えそうです。
ただ、素直さを競うなら、邪馬台国が発展して大和朝廷となった、とする見方も
負けず劣らずに素直な見方なのかもしれません。


なぜなら、「邪馬台」を「やまたい」と読むから別国感覚が漂ってしまいますが、
これを「やまと」と読むなら、まるまる一致していることになるからです。
そしておそらくは、こちらの読み方の方が正しいのではないでしょうか。


「邪馬台」を「やまたい」と読むのは、江戸時代の政治家であり朱子学者であった
新井白石(1653-1725年)あたりが言い出したものかもしれませんが、筆者的には
これは完全な誤読であり、「邪馬台=大和」でいいような気がしています。


直接的な証拠にはなりませんが、大和朝廷初の女帝の諡名「推古」に、そうした
雰囲気が、隠されているようにも見えるからです。
推古=古を推し測れ。 つまり、過ぎ去った昔を推量してご覧なさい。


その「昔」とは、邪馬台国の女王・卑弥呼を指しているのでしょう。
つまり、この大和朝廷初の女帝の諡名は、敢えて邪馬台国の女王・卑弥呼を
思い起こさせるものにしたというのが、筆者の解釈です。


つまり、この「諡名」はこう言っていると思うのです。
~ええかね、「謎の四世紀」なんて元からありゃあせんのであって、邪馬台国が
 ただただ素直に発展・変身したものが大和朝廷なんだでぇ~


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