ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

タブー編18/触らぬ神へのいろいろ大作戦

原典ではメッチャ難しい言葉が並んでいるようですが、それを口語に直すと、
~豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。
 わが孫よ、行って治めなさい。 さあ、出発しなさい。 
 皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません~

これくらいの意味になるそうです。


これが天孫降臨の際に天照大神が皇孫・ニニギに賜った、いわゆる
「天壌無窮の神勅」です。
そして、ここにある「皇室が永遠に続く」という意識は、神話に域に留まるものでは
なく、その後の人代においても、民族全体の信仰として確実に定着していきました。


何を言いたいのか。 つまり、こういうことです。
その後において、皇室を凌駕するほどの実力を有した者でさえ、
~皇室を滅ぼして、ボクが新権力者として取って代わってやろう~
とは誰も考えなかったし、実行もしなかったということです。


なぜなら、その「皇室が永遠に続く」ことは、すでに民俗の信仰として受け入れられ、
そして、そのことに納得の心情を示していたからでしょう。
では、天皇弑逆事件は一つもなかったのか? 実は、そんなわけでもありません。
たとえば、第32代・崇峻天皇(生年不明-592年)は臣下であるはずの
蘇我馬子(生年不明-626年)の手勢によって暗殺されています。


しかし、少なくとも公式的には、これ以後こうした天皇弑逆事件が起こることは、
ありませんでした。
なぜなら、「皇室が永遠に続く」という民族の信仰に逆らった行動を起こした
蘇我家が、この後に呆気なく滅亡してしまった姿を目撃していたからです。


~天皇殺しというタブーを破った者を待つのは滅亡以外にない~
言葉を換えれば、
~触らぬ神に祟りなし~ ~天皇に手を下すことは極悪非道である~
こうした信仰がさらに強化されていったとしても、なんら不思議ではありません。


   第32代・崇峻天皇


この蘇我氏滅亡という出来事は誰にとっても驚愕の出来事でした。
大きな権力を手にした一族であろうが、
「皇室が永遠に続く」という原理原則に
盾を突けば滅亡する。
この歴史の真実?を民族全体が骨身に沁みて理解したということです。


天皇家を凌駕するような権力者を、その後の歴史も少なからず誕生させています。
しかし、その頃になると、その誰もが「天皇弑逆」に手を染めることはありません
でした。
なぜなら、蘇我一族が辿った末路がメッチャ大きなトラウマになっていたからです。
しかし、そうした状況を放置しておいたのでは、実力者自らは永久に
「天皇の臣下」の立場から脱することないのも事実です。


そこで、これ以降の実力者たちが「天皇弑逆」という事態を避けつつ、どのような
方法を用いて、その権力を確保したのか、それぞれの創意と工夫を眺めて見ることに
してみました。


実際には、天皇を圧迫するほどの実力者はこの他にも少なからず誕生していますが、
今回は甚だ勝手ながら以下の五名に絞りました。
またその方法の名称は筆者の気儘が付けたシャレみたいなものですので、そのへんは
悪しからずご了解をお願いいたします。


さて、その五人と、方法の名称は以下の通り。
藤原氏(不比等以降歴代)「棚上げ作戦」 →社長秘書が社長を務めるイメージ
足利義満(1358-1408年)「乗っ取り作戦」→大株主が社長を兼務するイメージ
織田信長(1534-1582年)「見下し作戦」 →神の子孫より神自身の方が偉いッ
豊臣秀吉(1537-1598年)「左遷作戦」  →天皇を海外支店長に左遷する
徳川家康(1543-1616年)「封じ込め作戦」→現世は幕府が担い、朝廷は霊世を


ではまずは、藤原氏から。
その権勢の絶頂期は藤原道長(966-1028年)の時代といっていいでしょう。
なにせ、自分の娘三人(長女・彰子/次女・妍子/三女・威子)を、
それぞれ第66代・一条、第67代・三条、第68代・後一条の各天皇の皇后に送り込み、
「一家立三后」というウルトラ驚愕技を披露したのですから。


そして、道長本人はこんな歌まで詠んでいます。
~この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば~
(この世の中のすべてはボクのものなのだッ)


だったら、ついでのことに「目の上のコブ」である天皇家を消滅させてしまえば、
なお一層に「わが世」になったように思えるのですが、それは決してしませんでした。
「天皇殺しは我が身の滅亡」という信仰が、すでにしっかり定着していたという
ことなのでしょう。
えぇ、このタブーを破った者を待つ歴史の真実?に対する恐怖心です。


ですから、天皇家の権威はそのまま「棚上げ」としておいた上で、権勢だけは
手放さずに、甘い汁だけを吸い続けるわけです。
天皇あってこその「甘い汁」ですから、娘を送り込むなどして、自然な形で天皇に
密着する姿勢をとることになります。


さて、そうした時代のさらにその後には、武士という新興階級が誕生しました。
その武士にとって、現実的な政治にとんと目を向けることのない朝廷勢力とは、
本音では鬱陶しいだけの存在でした。


早い話、汚れ仕事という理由から警察機構もなくして、世の中の治安に対する
責任を放棄してしいるくせに、新興勢力である武士勢力に対しては「卑しき者」
との色眼鏡で眺め、横柄な態度を見せるのです。
しかし、武士側がそれを改めようにも一朝一夕で成るものではありません。
何しろ「皇室が永遠に続く」ことが民族の信仰として定着してしまっているのです
からねぇ。


室町幕府第三代将軍・足利義満は、朝廷対し何年も前から、自身に「太上天皇」
尊号が贈られるよう働きかけていました。
そればかりか、出家する予定であった子の義嗣(1394-1418年)の元服にあたり、
皇太子あるいは親王、いずれにせよ皇族の一員レベルの扱いとした上に、さらには
参議にまで昇進させました。


そして、当の義満はその二日後に急な病に倒れ、さらに十日足らず後には死去
してしまいました。
義満死去の三日後には、念願だった「太上天皇」の尊号を朝廷から贈られています。
そもそもが「太上天皇」とは元・天皇という尊号であり、義満はそんな立場には
全く無縁のない武士身分の者でしたから、聞けば聞くほど不可解な運びです。


この急転直下の成り行きは、おそらく、義満の「乗っ取り作戦」に気が付いた
朝廷側が先手を打ってそれを阻止したということなのでしょう。
この国では、神の子孫である「天皇」を殺すことは厳としたタブーですが、
一介の「卑しき武士」に過ぎない「元将軍」を殺すことならOKだったという
ことかもしれません。


かくして足利義満の壮大な天皇家「乗っ取り作戦」はあっさり頓挫してしまいました。
しかし、この義満の頓挫・急死は、後世の実力者に向けての、非常に貴重な教訓・
ヒント・アドバイスになったのです。


   織田信長 / 豊臣秀吉 / 徳川家康


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それが分かるのは戦国時代に登場した織田信長による朝廷対策です。
彼はハナから「乗っ取り」なんてまどろっこしい方法は視野に入れていませんでした。
それよりは、天皇家は天皇家としてそのまま手をつけず放任しておいて、自らの

地位をそれ以上のところへ持って行けば、それで一件落着との発想です。


もっと具体的に言うなら、信長自身が「神そのもの」になるなら、「神の子孫」
過ぎない天皇より断然に格上になるとの発想です。
事実、自らは神になることに邁進しました。


その一つに、御利益の証拠もない幽界の神仏に手を合わせるよりは、現世で実権を
握っているワシ(信長)に賽銭を投じ、その力にすがったた方が確実にご利益が
あるとする言動も示していました。


それだけではありません。
モットーとしていた「天下布武」を実現した証ともいえる安土城は、信長自身の
スペースを城の上層階に構え、勅使(天皇の使い)の控え場所をその眼下に
設けたりもしました。 
文字通り、信長の「見下ろす/見下す」思想をビジュアルに示したのです。


これが筆者の言う天皇家「見下し作戦」ですが、その構想は途上で霧散してしまい
ました。
信長本人が「本能寺の変」(1582年)に倒れてしまったからです。


そこで、その後継となった豊臣秀吉はこう考えました。
~狭い日本に統治者が二人いるのは無駄なことだし、天皇の存在はワシにとっても
 鬱陶しいだけでなんのメリットもあれせんがや~
生まれが尾張ですから、ついつい地元の言葉が飛び出します。


~そんならよう、隣の大陸に支社を設け、天皇にはそこの支社長を務めて貰えばええ。
 大陸支社長よりは本社社長のワシの方が格上なのは当然だでよぅ~

しかし、その構想の入り口である支社の立ち上げにすら失敗したために、
結局のところ、この天皇家「左遷作戦」も残ったのは青写真だけという為体に
終わってしましました。


そこで今度は、江戸幕府を開いた徳川家康による天皇家「封じ込め作戦」です。
朝廷を京(霊界)に閉じ込め、ひたすら学問に励むが善とし、現世の政事には一切の
口出しを許さず、家康に一任させるやり方です。


では、京が何故「霊界」なのか。
それは、江戸は東に位置し京は西、つまり朝廷族は西方浄土の住人という感覚です。
家康のそうした腹積りは、江戸から京都までを繋ぐ「東海道五十三次」にも
現れているような気がします。


~穢土(江戸/この世)から浄土(京/あの世)に至る道中は五十三人の師が
 案内する~

こうした思想に沿っての「五十三次」なのではないか。
バッチリした証拠物件を握っているわけではありませんが、筆者自身はこの見方を
割合に気に入っているのです。


それはともかく、「天壌無窮の神勅」で示された「皇室が永遠に続く」という状況が
21世紀の現在でも続いていることは確かと言えそうです。


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