ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

列伝編24/時代をにらんで発想の転換

戦国の世では、いざ戦さともなれば普段は農作業に従事している農民たちが
「徴収兵士」として駆り出されました。
「専業兵士」という存在がまだない時代ということもあって、これは領国を維持・
保全するためには止むを得ない方法でした。
しかしその場合には、いささかの不都合もありました。


それは一年365日いつでも戦に臨めるわけではないということです。
領国の基幹産業である農業に従事することと、また領国の安全を維持するための兵士の
務め、この双方を「同時兼任」することは無理な相談だからです。
早い話が、田んぼ仕事に精を出さなくてはならない時期すなわち「農繁期」においては、
どの国とて戦を行う余力なぞはなかったということになります。


たとえば、現代では一般的に名将と評されている越後国・上杉謙信(1530-1578年)や、
甲斐国・武田信玄(1521-1573年)なども、実はそうした制約の中にありました。
だからこそ、両者が対決したあの有名な「川中島の戦い」も、驚くなかれ、なんと
第五次まで延長戦を繰り返さなければならなかったのです。


~両者共に名将だったから、勝敗の決着がつかなかったのだ~
確かにこうした評価もあるようですが、反面では双方が「稲作繁忙期」の時期と
人手確保を意識した戦い方をせざるを得なかったために、その都度決着がつかないまま
「時間切れ」に追い込まれ、結果として「第五次」まで繰り返されたとの見方も
できそうです。


   織田信長


しかし、そうした現状に「発想の転換」を持ち込んだ人物がいました。
筆者の生息地である尾張国を本拠としていた、皆様ご存知の
織田信長(1534-1582年)
です。 ~戦に挑んだなら、そんなもんチャッチャと決着をつけなぁいかんがや~
尾張言葉ですが、こうした強い意志を持っていたということです。


さらには、これも尾張言葉になりますが、
~大方の不便は、同じ人間が農作業と軍事行動の両方を兼任でやっとることに
 あるんだで、どっちも専任の体制にしてやりゃあ、そんなもんはチャッチャと
 一件落着してまうがや~

当時としては根底からの「発想の転換」とも言えるこのアイデアは、後に
「兵農分離」と呼ばれるようになりました。


ただ「専業兵士」には給料を払う必要があります。
タダ働きで自分の「命」を懸けようなんて奇特な人間はそうそういませんからね。
そこで信長は、領国の商業活動を保護し優遇を計ることで活性化させ、そこで生んだ
利益を専業兵士の給料の原資としたのです。


しかし、信長はその道半ばで家臣・明智光秀(1528-1582年)に倒れてしまいました。
その後継者となったのは、信長家臣・羽柴秀吉(豊臣/1537-1598年)でしたが、
その世は長続きすることなく、さらにその後には、信長の同盟者であった徳川家康
(1543-1616年)が天下を掌握しました。


その家康が、これまたとんでもない「発想の転換」をもって大改革を実行したのです。
兵農分離を更に推し進めた形で、~士と農とはまったく別の存在~とする、
いわば「士農工商」システムを構築したのです。


永年のライバルであった豊臣家を滅亡に追い込んだことで、国内に戦が無くなった
こともその一因でした。
いわば「天下泰平」の時代であり「常設軍団」は必要ないということで、「士」が
担う役割を従来の「軍人」から「官僚」に変更したのです。


この「天下泰平」の世は長く長く続きました。
なぜなら、国内には徳川家に対抗できる力を備えた大名がいなくなった上に、また海外に
目をやれば、いわゆる「鎖国」体制を取ることで一部を除き大部分の「外国」との
交際を絶ったことで、戦争の起こりようがなくなったからです。


しかし、その「天下泰平」も、二百年近くが経過すると、そのシステムそのものにも、
さすがに「制度疲労」が見られるようになりました。
その一つの例を、前出の上杉謙信の流れを汲む御家に見ることができます。


遡って眺めるなら、上杉謙信や、その跡取り養子である上杉景勝(1556-1623年)が
率いた頃の上杉家は「越後120万石」を誇る戦国の雄でもありました。
ところが、「関ヶ原の戦い」(1600年)の直前のこと、この景勝が後の天下人・
徳川家康から征伐の対象とされ、結果として「米沢(現:山形県)30万石」への
移封減封とされてしまいました。


筆者もその通りですが、悪いことはまま続くもので、早い話が、この米沢藩も例外では
ありませんでした。
さらにこの後の時代の出来事になりますが、権力を確立した江戸幕府が大名の
改易(取り潰し)に躍起になっている頃、時の米沢藩・藩主が嫡子も養子もないままに、
急死(1645年)してしまったのです。


   

        徳川家康 / 上杉鷹山


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幕府は、~跡取りがいない家はキッチリ潰す~をテッパン方針としていましたから、
米沢藩にとってはモロに「無嗣絶家」の大ピンチです。
しかしこの時は、まっこと幸運なことに、上杉家親戚筋に当たる人物で幕府重役であった
会津藩主・
保科正之(1611-1673年)の奔走もあって、なんとか「絶家」(お取り潰し)
だけは免れることができました。


しかし、「無嗣」(跡取り不在)の不手際についてはさんざん咎められただけに留まらず、
さらには半分の「15万石」まで減封されてしまいました。
元々の「越後120万石」からすれば、なんとその1/8の「米沢藩15万石」にまで
転落してしまったということです。


ところが、藩祖・景勝以来の藩風として藩士のリストラは考慮外のことでしたから、
現代風にいうならこんな按配に陥ったのです。
~売上120億円から15億円にまで激減したのにリストラはせずに社員の数はそのまま~


こんな有様では藩の借金はイヤでも増えるばかりで財政の困窮は続きます。
~もう、辛抱たまらん!・・・この際いっそのこと領主も辞めちゃって、
 領地も領民も幕府に返納しちゃおう~

1760年頃のこと、時の藩主・上杉重定(1720-1798年)は実際こんなことを思案する
までに追い込まれたようです。


さすがにこの過激な「返納」案は諫められて撤回することになりましたが、そういう
状況にありながら、最後まで藩主が自分自身の生活費を切り詰めるなどの発想を持つ
ことはなかったようですから、生まれながらの殿様だったということかもしれません。


それはさておき、進退窮まったこの上杉家が抜本的立て直しの実行役として「養嗣子」に
迎えたのが、日向国(現:宮崎県)の小藩藩主の次男坊、後の上杉鷹山(1751-1822年)、
その人でした。
こうして「米沢藩再建」のすべてが、この鷹山に託されたわけです。


しかし、その改革・再建の道は容易なものではありませんでした。
「今15万石」という厳しい現実を見据えるトップ・鷹山に対し、藩士達は
身分(士農工商)の最上位にあるというプライドもあって、「昔120万石」の栄光を
捨てきれずにいたからです。


新藩主・鷹山の改革策はこうでした。
~藩士の立場にある者も額に汗(労働従事)すれば生産性も向上し、その分
 民たちの負担も軽くなるのだから、藩の立て直しはここから始める~


しかし新藩主・鷹山のこうした方針も、生まれた時から「兵農分離」かつ「士農工商」
の身分序列を当たり前のものとしてきた藩士たちにとっては、まったくの「問題外」の
ものでした。


なぜなら、こんな言い分になるからです。
~ずっと武勇の格式を保ってきたわが藩の武士が、なにが悲しくて百姓の真似をせねば
 ならんのかッ!  

 ド田舎の小ちゃな藩から養子に来た殿様のお考えは支離滅裂で、いかにも貧乏臭い!   
 ホント、やってられんわい!~


その上に、藩祖・景勝の「リストラなし」というかつての実績が邪魔をします。
~藩祖が遺した方針を無視する新藩主(鷹山)こそ義に欠けており、まことにもって
 品性下劣であるッ!~


遠い祖先に当たる謙信にせよ景勝にせよ、義を重んじるその生き方には確かに立派な
ものがありました。
しかし、時代が「乱世」から「泰平」へと移り変わったのですから、旧態依然とした
「男気」だけで御家の経営が成り立つものではありません。


そこに容赦なくメスを入れようとしたのが鷹山でしたから、双方の「ぶつかり合い」が
激しいものになるのは当然です。
「改革断行」のために鷹山は、反対派の急先鋒に対して最後には切腹を申し渡さざるを
得ませんでした。 この重い事実がその困難さを物語っています。


さて、こうしてメッチャの急ぎ足で歴史を眺めてみましたが、これだけでもその都度に、
こんな按配の「発想の転換」が繰り返されていたことに気づきます。
気づかなかった方も、ここではバッチリ気づいていたことにしてくださいね。
えぇ、武士の情けです。


〇群雄割拠の時代/織田信長 兵農兼任から兵農分離へ
〇合戦のない時代/徳川家康 兵農分離から士農工商へ
〇財政破綻の時代/上杉鷹山 士農工商から士農協力へ 


そして鷹山が示したこの発想は、ひょっとしたら後の時代に脚光を浴びることになる、
士農工商の垣根を外した「四民平等」という思想の魁だったのかもしれません。


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