ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

トホホ編36/ブラック企業の馘首と造反

ネットを徘徊中にヒョイと目に留まったのが「ブラック企業」という言葉の説明でした。
その言葉自体を知らないわけではありませんが、正直あまり関心を持ったことは
ありません。
そこで、「折角の機会」ということもあって、ちょいと立ち寄ることにしてみました。


すると、のっけからこんな説明です。
~労働者を酷使・選別し、使い捨てにする企業~
「うわっ、メッチャ酷な職場だな」と思ったところ、さらに輪を掛けて追い打ちが。


~その明確な定義はないものの、「合法か否か」の境目をはるかに超えた
 「劣悪な労働」「峻烈な選別」「非情な使い捨て」などが特徴で、企業規模や
 知名度とは関係ない~

なるほど、世間サマからは「一流」と見られている企業も例外ではないってことなのか。


そんな説明を眺めているうちに、ふいと頭に浮かんだのが、筆者の生息地である
尾張国出身の戦国の雄・織田信長(1534-1582年)の姿でした。
群雄割拠の戦国時代というのは、ひとつ方策を間違えようものなら、たちまちに
没落・滅亡が待っているという環境ですから、家臣に対しても四六時中、つまり
「24時間戦える」ことを課すことになります。


そうした意味において、戦国の御家運営と現代の企業経営には似た点があるように
思えたのです。 そう捉えると、こんな印象にもなりました。
~ひょっとしたら、当時の織田家の経営って、現代でいう「ブラック企業」もどきの
体質を備えていたのではないかしらん~


逆に言うなら、信長は数多の家臣に対し「劣悪な労働/峻烈な選別/非情な使い捨て」
などを強要・強制していたのではないかということです。
つまり、企業?としての織田家が戦国の過酷な競争社会で勝ち抜いてこられたのは、
こうしたことをやり抜いたからだったのではないかということです。


    織田信長


そこで、そうした企業?織田家の大躍進を支えた当事者たち、つまり、軍師とか
あるいは四天王とかの格に見做された幹部社員、というよりは役員?ほどの地位に
あった何人かに目をやってみました。


まずは、主君・信長の亡き後の天下を掌握した羽柴秀吉(1537-1598年)です。
信長家臣時代の秀吉は、こんなことを公言していたとされています。
~私は殿(信長)に拾われた身。 命を惜しまず働くことでしか御恩は返せません~


歯が浮くようなクッサイ台詞ですが、こうした言葉を臆面もなく口にできたのが、
秀吉の強みであり、「人たらし」の真骨頂ということなのかもしれません。
しかし、そうした秀吉が、信長の課す「劣悪な労働/峻烈な選別/非情な使い捨て」に
耐え抜いたのも事実です。


例えば、常識ではちょっと考えにくいことですが、秀吉が一夜にして砦を建てたと
される墨俣一夜城(1566年)のエピソードなぞは、信長の命令には有無を言わせぬ
圧力があったことを感じさせます。


さてお次は、当初信長の弟・信勝(信行/1536?-1558年)に仕えていた柴田勝家
(1522―1583年)です。
その後に信勝を裏切って信長の家臣となったのですが、この御仁もまた、御多分に
漏れず、「姉川の戦い」(1570年)、「長島一向一揆」(1571年)、
「比叡山延暦寺の焼き討ち」(1571年)、朝倉氏との「一乗谷の戦い」(1573年)、
北近江「小谷城の戦い」(1573年)・・・


キリがないのでもう止めますが、要するに、現代感覚ならモロに「過重労働」の
レベルになるであろうノルマを律儀にこなしているのです。
そうした概念がなかった時代とはいえ、信長の「人使いの荒さ」が半端ではなかった
であろうことが窺えるところです。


同じく織田家の役員?ほどの地位にあった丹羽長秀(1535-1585年)や、同じく
滝川一益(1525-1586年)も、それぞれが、程度の差こそあれ、その時々には
結構ハードなノルマを課せられたに違いありません。


さらには、こうした役員レベルほどではないものの幹部社員?くらいに当たる
家臣の中には、もっとハードな局面を味わったお気の毒な人物もいます。
佐久間信盛(1527-1581年)がその人で、この際に信盛が受けた扱いこそは
「ブラック企業・織田家」のブラック企業たる所以なのかもしれません。


この佐久間信盛は、「長篠の戦い」(1575年)、「長島一向一揆」(1570-1575年)
の鎮圧、さらには「,越前一向一揆」(1574-1575年)の鎮圧など、信長の戦闘の
ほとんどに参陣し、そうした中でも1576年から本格化した「石山本願寺包囲戦」
では、その中心的な位置にありました。


ところが、その石山本願寺が降伏(1580年)してきた直後のこと、信盛は
主君・信長から突然に,「無為に五カ年間を費した」と問責され、子・正勝ともども
高野山に追放されるという憂き目にあったのです。


突き付けられた問責の内容は一つや二つではなく、なんと19もの罪状?に及びました。
いわゆる「19箇条の折檻状」です。
その一部を紹介しようと思いますが、信長もえらく気合が入っていますから、そこは
出身地の尾張言葉を混じえた方が臨場感があるのかもしれません。


要約すれば、こんな具合になるのでしょうか。
~羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家たらぁの幹部社員たちは、どえりゃあ頑張っとる
 けど、おみゃあらぁ(佐久間信盛・正勝親子)は、さぼってばっかりだがや。
 それにダ、ワシ(信長)の意に沿えせんやり方もやたらと目に付くしよぅ。
 そんだでよう、親子共々頭をまるめてまって高野山にでも行って、連々と赦しを

 乞うても当然のことだがや、えぇか、分かったきゃあ~


現代なら「使い捨て」、当時の言葉なら「捨て殺し」というこうしたやり方は、
それまで真面目に務めていた律義な社員が、ある日突然にクビを宣告されたような
ものですから、まさに「ブラック企業」の面目躍如?と言ったところかもしれません。


以上に挙げた織田家の役員?または幹部社員?たちは、自分の会社の社風、要するに
「劣悪な労働/峻烈な選別/非情な使い捨て」にも、曲りなりのも耐えてきました。
しかし、何ぶんにもメッチャ過酷な労働環境ですから、ついにはそれに耐えきれなく
なってしまった役員・社員がいても、それは決して不思議なことではありません。


実際、この織田家にも、そうした人間が登場しました。
筆頭役員クラスの明智光秀(1528-1582年)がその人で、なんともまあ、一足飛びに
「社長(信長)殺し」に及んだのです。
歴史の出来事でいうなら「本能寺の変」(1582年)がそれに当たります。


 

      佐久間信盛 / 明智光秀


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~命を惜しまず働くことが御恩返しでぇす~なんて、秀吉のように調子の良いことを
光秀は考えませんし、また言えません。
インテリであり、将軍という上流階級とも付き合いがあったのですから、秀吉とは
物事の捉え方も人生哲学も大いに異なるからです。


言葉を換えれば、「常識」とか「秩序」というものを大事にし、それに沿った生き様に
価値を見出していたということです。
ところが主君の信長ときたら、そうした常識にはとんと捉われない「非常識人」であり、
また、自分の意に沿わない「秩序」なら、それを壊してしまうことに意義を見出して
いるのですから、お互いに方向性がまるっきり違う思想を抱いていたことになります。


ですから、そうした光秀は折に触れ、主君・信長に対して、
~なにかヘンで、どこかが違う~という気分を味わっていたに違いありません。
そして、光秀が進めていた四国・長宗我部氏との外交交渉が、信長の政策転換に
よって、一転「四国征伐」と決せられ、取次役としての明智光秀の面目はモロに
潰されました。
ここに至って、光秀はついにプッツンしてしまったのです。


この後の経緯は、皆様ご存知の通り。
~1582(天正10)年,明智光秀が主君織田信長を滅ぼした戦い
 5月29日,信長は中国地方の毛利攻めにみずから出陣しようとして安土城を発ち、
 30日京都本能寺に宿泊した。
 かねて怨みを含んでいた部将明智光秀は丹波から中国地方に進撃を命じられていたが、
 急に反転し、信長を本能寺に襲い自殺させた(6月2日未明)。
 妙覚寺にいた(信長嫡男)織田信忠も奮戦ののち自殺。
 信長の天下統一の事業はここに挫折した~


えぇ、ですから、この出来事は、
~「ブラック企業」が業界トップになることは難しいッ!~という、現代の
「ブラック企業」に対する歴史の教訓であり、また警鐘なのかもしれませんねぇ。


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