ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

微妙編12/幕府時代の前中後期の他に

その日、家族から「ぼっち」のお留守番を申し渡されたのですが、なにぶんにも
手持無沙ですからTVを観ることに。
しかし、これがまた感心するほどにつまらなく作られていて、ほどなくギブアップ。


そこで、たまたまネットを眺めてみたところ、目を引いたのが東京大学による
「前近代日本史時代区分表」でした。
えぇ、「〇〇時代/✕年~✕年」といった形式で表現される例のそれです。


そのなかで、いわゆる武家政権、つまり幕府政治が布かれた時代に目が移ったのです。
それは以下に挙げた〇印付きの期間であり、普通には鎌倉・室町・江戸時代と
呼ばれていますが、ざっとこんな紹介になっていました。


 〇鎌倉時代/1185-1333年 →約150年間
 南北朝時代/1334-1393年 
 〇室町時代/1394-1569年 →約175年間
  (一般にはこの間に重なって、戦国時代/1493-1590年)
安土桃山時代/1570-1602年)
 〇江戸時代/1603-1868年)→約265年間


もっともWikipediaのデータを重ねてみると、こちらはこちらでこうなっています。
 〇室町時代(1336- 1573年)
南北朝時代(1336- 1392年)


ですから、厳密に定められたテッパンの決め事というわけではなく、そこには多々
異見も存在しているようです。
モロにアナログな人間の営みを、無理やりのこと、デジタル式にバッサリと区切ろう
とするのですから、そこにさまざま異見が登場するのは、考えてみればある意味
当然のことなのかもしれません。

     幕府時代(鎌倉・室町・江戸)


そして、今回興味を引いたのは、それぞれに長い三つの幕府の施政期間をさらに
前期・中期・後期の三期に分割した案内があったことです。
人間の営みや社会構造などは、時間と共に変化する性質を備えていることを考慮すれば、
確かに100年200年を超える期間をひとまとめにして捉えることには、幾ばくかの不合理

が生じそうです。


早い話が、アナタの子供時代と現在というわずか十数年、あるいは数十年間での
変貌ぶりでさえ、メッチャ目を見張るものがあるはずです。
一例を挙げるなら、アナタの子供時代に「スマホ決済」という仕組みはなかったのでは
ないでしょうか。


それが、今では当たり前の姿になっていて、筆者のようにいまだに「現金払い」を
手放さない貨幣原理主義者なぞは、今や「絶滅危惧種」に指定されかねないほどの
社会の変化です。


また「結婚」という行為についても同様なことが言えるのかもしれません。
筆者の子供の頃は、それは男と女、つまり異性間で行うものというのが常識とされて
いました。
しかし、現在では同性同士の結婚も、なんら特殊なことでもなく普通のこととして
認知されているのです。


また、その異性、つまり男性と女性についての定義にも大きな変化がありました。
筆者が子供の頃、つまり「良家の(厚顔ではなく)紅顔のお坊ちゃま」だった時代
には、身体にナニが付いているのが男、付いていないのが女とされていました。
現在の定義からすれば至極単純で乱暴な定義で、現在ではこれもキッパリと否定されて
います。
要するに「身体的な性」だけではなく、その他に「心理的な性」もあるということです。


お話が逸れましたが、これらの例のように、わずか十数年、数十年の期間でさえ
人間社会には変化が現れるのに、それを100年200年という長期間を一括りで
捉えようとしたのでは、確かにいささかの難儀が伴いそうです。


では、その東京大学のデータでは、各幕府時代の前期・中期・後期というそれぞれの
期間がどのように分割されていたのか。 実は下記のように紹介されていました。


まずは、通期約150年の鎌倉時代(1185年 - 1333年)の場合は、
鎌倉時代前期/文治~承久   /1185~1221年 約37年
鎌倉時代中期/貞応~弘安   /1222~1298年 約77年
鎌倉時代後期/正応~正慶・元弘/1299~1333年 約35年


続いて、通期約175年の室町時代(1394-1569年)の場合は、
室町時代前期/応永~嘉吉/1394~1443年 約50年
室町時代中期/文安~延徳/1444~1491年 約48年
室町時代後期/明応~永禄/1492~1569年 約78年


武士政権の最後であり、通期約265年の江戸時代(1603-1868年)になると
江戸時代前期/慶長 8 年~延宝/1603~1680年 約 78年
江戸時代中期/  天和~安永/1681~1780年 約100年
江戸時代後期/  天明~慶応/1781~1867年 約 87年


その判定は筆者の知識レベルでは難しいことですが、いずれの時代の区分も、
その期間を数字的にきっちり三分割したのもではなく、社会の変化なども加味
しながら、それなりの根拠があっての括りになっているようです。


その意味で、筆者的には江戸時代については、他の幕府政治と足並みを揃えた
三分割とは違う、それ以外の仕分け方法があって良いように思われました。
なにしろ、しかも鎖国的体制から否応なく世界への飛び出さざるを得なくなったと
いう大変革を味わったのですからねぇ。


 

     「幕末」時代の人物 / 江戸幕府第四代将軍・徳川家綱


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そのキッカケになったのは、もちろん「黒船来航」(1853年)です。
翌年には
「日米和親条約」(1854年)を締結し、アメリカに対し下田と
箱館(函館)の二港を開港することになりました。
実質的に二百年余続いた「鎖国」を終えて、日本は「開国」に踏み切ったわけです。


さらには、ときの政府・江戸幕府も、この「黒船来航」をキッカケとして終焉に走り、
その15年後に消滅してしまったことを考慮すれば、日本の歴史においての文字通りの
「ターニング・ポイント」だったわけです。


そういうことなら、この15年は江戸時代の「後期」という表現よりも、むしろ「末期」
との呼び方がふさわしいような気がするのです。
ええ、「江戸時代」あるいは「江戸幕府の末期=幕末」です。
事実、「黒船来航」以後の時期をそのように扱っている例も少なくありません。
というより、むしろこちらの方が多いのかもしれません。


また「江戸時代前期」の期間についても、いささかの違和感がありました。
というのは、上の表では、第四代将軍・徳川家綱(1641-1680年)が亡くなった年を、
「江戸時代前期」の最終年としていますが、筆者的にはむしろ第三代将軍・徳川家光
(1604-1651年)の没年をそれに充てたい気がするからです。


なぜなら、四代・家綱についてはこんな説明がされているからです。
~特に保科正之(1611-1673年)を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、
 末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が
 出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが
 行われた~


ちなみに、ここに登場する保科正之とは、三代・家光の異母弟で、四代・家綱を補佐し
幕閣に重きをなした人物です。
また、「末期養子」とは、こう説明されています。
~危篤に陥った武士が,所領の継承を望んで主君に願い出る養子のことで、
 江戸時代初期にはほとんど認められず,そのため族制的理由,すなわち嗣子が
 ないという理由で取りつぶされた大名が多数に及んだ~


ですから、四代・家綱は父である三代・家光が進めていた力づくの「御家取潰し」
政策を政治補佐役の保科正之の協力を得て改めたということですから、家光の死去を
もって世情は変化を見せたことになるはずです。


ですから、筆者的には
  江戸時代前期/慶長 8 年~延宝/1603~1680年 約 78年 を
→ 江戸時代前期/慶長 8 年~慶安/1603~1651年 約 49年 としたいところです。


さて、ああじゃこうじゃとここまで来たところで、家族の御帰宅があって、
「ぼっち」のお留守番もめでたく御役御免となりました。
ではでは、今から身体ほぐしのウォーキングにでも出かけましょうぞい。



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