ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

逆転編29/黒船来航からの半世紀ほど

江戸時代後期の天保年間(1830-1844年)ともなると、江戸幕府の体制には大きな
歪みが生じていました。
たとえば、年来の大飢饉のなかで大坂市中に餓死人が続出したのも、その一例で、
それを見かねた元大坂町奉行与力の
大塩平八郎(1793-1837年)が当局に救済策を
上申したものの、拒否されたためにやむなく挙兵するに至ったのも、この天保年間の

ことでした。 いわゆる「大塩平八郎の乱」(天保7年/1837年)です。


他にも、思うに任せない幕政のテコ入れのために老中・水野忠邦(1794-1851年)が
取り組んだ、いわゆる「天保の改革」(1841-1843年)。
これも、文字通りに天保年間の出来事です。
そうした落ち着かない世情が10年ほど続く中で迎えた驚天動地の出来事が「黒船来航」
(1853年)でした。


~(黒船来航とは)嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ
 合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件~

こう説明されますが、現代人の中には、
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」の狂歌で、その時の幕府の
狼狽ぶりをイメージする向きも少なくないようです。
もっとも、アメリカが「来航」することを、幕府がついぞ知らなかったのかといえば、
決してそんなことは無かったようですが。


しかし、この時期の日本は、こうしてはるばるやってきた外国の声に耳を傾けるどころか、
やみくもに「外国(人)は追い払え!」の攘夷一辺倒の状況を呈していました。
鎖国を祖法と信じ込んでいた幕府はもちろんのこと、朝廷もまた夷(外国)を穢れた
存在と捉える信仰的な理由から、徹底した攘夷を望んでいたからです。
ときの第121代・孝明天皇(1831-1866年)はまさにそうした信仰・思想の持主でした。


 黒船来航


そうした信仰を強く抱いている孝明天皇が、夷と信じる外国との条約に勅許を与える
はずもありませんから、幕府を取り仕切る大老・井伊直弼(1815-1860年)は、止むを
得ず勅許無しで「日米修好通商条約」を結びました。
イギリスによって仕掛けられた「アヘン戦争」(1840-1842年/1856-1860年)に
よってもたらされた清国の惨状を、この日本には決して持ち込んではならないと
考えたからです。


しかし、
~勅許も得ずして、夷(外国)と条約を結ぶなどは言語道断ッ!~という理由を
もって、過激攘夷浪士たちによって暗殺されてしまいました。
「桜田門外の変」(1860年)です。


この時期に、とりわけ超過激攘夷論を振りかざしていたのが薩摩藩や長州藩でした。
ただし、両藩はその後に「対外戦争」を経験しました。
薩摩藩は、いわゆる「薩英戦争」(1863年)でイギリス艦隊に挑んでボロ負けを喫し、
また長州藩は長州藩で、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国を相手に
回して、「下関戦争」(1863/1864年)を引き起こし、これもまたボコボコに
やられました。
そのことによって両藩ともが、彼我の武力の差を思い知ることになったのです。


超過激攘夷思想を振りかざす長州藩は、幕府はもちろん、共に御所警護を務めた
薩摩藩からも背かれ、その結果、二次に渡る「長州征伐」(1864/1866年)まで
招くことになります。
しかし、~この時期に日本人同士が戦っている場合ではない~とする幕臣・勝海舟
(1823-1899年)などの意見もあって、長州藩が滅亡に至ることはありませんでした。


そうしたさなかに、第14代将軍・徳川家茂(1846-1866年)の急死です。
「長州征伐」による過労も重なったのでしょう。
ほどなく徳川慶喜(1837-1913年)が、その後継・第15代将軍の宣下を受けましたが、
今後は朝廷側で孝明天皇(1831-1867年)の、これまた突然の崩御という有様です。
まさに掛け値なしの激動・激変の時代です。


孝明天皇の後継に第122代明治天皇(1852-1912年)が就くと、朝廷側はいわゆる
「王政復古」(1867年)の政変を仕掛け、同時に幕府は幕府で「大政奉還」の声を
上げ、結果として265年間続いた江戸幕府を廃した上で天皇親政が実現したのです。


こうした社会の大変動は波及の範囲も広く、到底一朝一夕で落ち着くものでは
ありません。 事実、その通りの騒動を招いています。
日本の近代史最大の内戦とされる「戊辰戦争」(1868-1869年)がそれで、
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、
それに対して、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が
正面から激突したのです。


そればかりではありません。
南では、その後に西郷隆盛(1828-1877年)を中心とした鹿児島士族の反乱
「西南の役」(1877年)が起きています。
明治新政府の開明策や士族解体策に反対して挙兵したものでしたが、政府側は
ただちに徴兵制による新しい軍隊によって、これを鎮圧したことで、西郷を
はじめとする反乱軍指導者の多くが自刃し、その結果、乱は平定されました。


 

         西南の役 /日露戦争(日本海海戦)


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国内が一通り落ち着くと、明治政府は外交に力を注ぐことになります。
なにせ、鎖国に熱心だった江戸幕府に取って代わったわけですから、外交を軽視する
わけには行きません。


その努力は「鹿鳴館外交」とも呼ばれました。
ちなみに、その「鹿鳴館」とは、外務卿・井上馨(1836-1915年)による欧化政策の
一環として、1883年(明治16年)に建設され、国賓や外国の外交官を接待するため、
外国との社交場として使用されたた西洋館の名称です。


おそらく、当時の日本人の即席の「西洋風」は、外国人からすればお世辞抜きで
滑稽な姿で、まさにウップップものだったに違いありません。
しかし、江戸幕府が堅持した「一国平和主義」を放棄する形で、国際社会への
デビューを果たした以上、避けては通れない道であったことも事実でしょう。


しかし、国際社会では「外交」が万能というわけではありません。
互いの交渉が上手く運ばなかった場合には「戦争」という手段を用いる場合もあるのです。
実際、新生日本もそうした局面に直面しました。
「日清戦争」(1894-1895年)がそれです。


こんな説明になっています。
~朝鮮進出を図る日本は朝鮮の宗主権を主張する清国と対立し、東学党の乱で清国が
 出兵したとき、日本もこれに対抗して出兵し、1894年、豊島沖海戦で戦争が開始
 された。
 日本軍は平壌・大連・旅順などで勝利を続け、翌1895年3月までに遼東半島を完全に
 制圧し、休戦成立。 同年4月に講和条約(下関条約)が締結された~


イギリスに仕掛けられた「アヘン戦争」などによって、その屋台骨に大きなキズを
受けていた清国とはいえ、そこに勝利を収めたのです。
日本にとっても古の宗主国であった中国を、その地位から引きずり下ろした形にも
なりました。
ですから、少なからずイケイケドンドンの気持ちになったのも事実でしょう。


そして、それから10年を経ずして、新たな戦争「日露戦争」(1904-1905年)です。
~朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって、日本とロシアが戦った戦争。
 ロシアは,清国における義和団事件(1900年)を機に満州に兵を送り、事件後も
 撤兵せず、満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手し、これが、日本の利害と
 衝突することになった~


1903年8月以降に数次にわたりロシアと交渉したものの、ついに妥協点に達することは
無かったとされていますから、少し前まで熱心に取り組んでいた「鹿鳴館外交」の
成果はあまり発揮されなかったことになりそうです。


~両国とも30万前後の大軍を奉天に結集,会戦の結果日本軍が勝利。
 以後戦闘は膠着状態となったが、海軍が日本海海戦(1905年)で勝利し、両国は
 「日露講和条約」(ポーツマス条約/1905年)に調印~


大国・ロシアに対して勝利したのですから、日本がさらに前のめりの姿勢になって
いったのは、ある意味当然だったのかもしれません。
何しろ、こんな自惚れを持ってしまったからです。
~人類史上初めて白色人種(ロシア人)を負かした有色人種(日本人)は
 世界に冠たる超優秀な民族であるッ!~


こうして、ピノキオのように鼻を高くしたのがこの頃の日本人でした。
明治政府は、江戸幕府が厳守した「一国平和主義」とは真逆の「帝国主義」へ
大きく舵を切ったことになります


ちなみに、江戸後期の「黒船来航」から、明治時代のこの「日露戦争」まで、
ほぼほぼ半世紀の間の出来事なのですから、「激動・激変の時代」という表現も
あながち大袈裟ではないような気がするところです。


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