ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

例外編12/御三家なれど将軍家より天皇家

戦国群雄の世を最終的に把握した徳川家康(1543-1616年)には高齢になってから
儲けた三人の男子がありました。 長幼の順にこうなります。
 〇九男・
義直(1601-1650年)/尾張名古屋藩の初代藩主。
 〇十男・
頼宣(1602-1671年)/紀伊和歌山藩の初代藩主。
〇十一男・
頼房(1603-1661年)/ 常陸水戸藩の初代藩主。


各々の誕生の折に家康がどれほどの高齢だったかと言えば、九男・義直が59歳で、
以後、十男・頼宣が60歳、十一男・頼房が61歳の折という按配です。
まるまる還暦分に当たる60歳も離れた実子という存在は現在でも稀な印象ですが、
当時はさらに珍しいことだったと思われます。
なにせ「人間五十年」と歌われた時代でしたからねぇ。


ですから、家康のその時の年齢60歳を現代の60歳と同じに受け止めるのは間違いで、
ざっとの感覚なら、いわゆる「後期高齢者」(満75歳以上)に当てはまる年齢ほどと
いうことになりそうです。


つまり現代感覚に直すなら、こんな感じになるということです。
~孫やあるいは曽孫がいてもおかしくない、いわゆる「後期高齢者」(満75歳以上)の
 男性が実子を儲けた・・・それも三年連続でッ!~

こう書けば、いかに凄いことなのかが分かろうというものです。


それはともかく、この九男・義直/十男・頼宣/十一男・頼房/の家を「御三家」
(ごさんけ)と呼ぶことになります。
~(御三家とは)徳川将軍家の一族である尾州、紀州、水戸の三家をいい、
 代々徳川氏を称し、親藩のなかで別格の家柄として最高の待遇を受けた~


   徳川光圀(水戸黄門)


つまり、/尾張徳川家(62万石)/紀伊徳川家(56万石)/水戸徳川家(36万石)/の
~(御三家は)親藩のなかでも幕府から最高の待遇を受け、将軍に嗣子のないときは
 将軍職を継ぐ特典が与えられていた~


天皇家でいうなら、ちょうど「宮家」に当たる存在ということなのかもしれません。
こちらの「宮家」も天皇に後嗣が絶えた場合にそうした特権が与えられているからです。
このことは現天皇に男子不在で女子のみという現代日本の状況そのものであることも
あって、この「天皇家/宮家」の相互関係については割合素直に理解が及びやすい
ところです。


ただ将軍職の場合においては、それを継ぐ特典が与えられていたのはそうした
「御三家」のうちでも尾張徳川家と紀伊徳川家に二家だけであり、ここに水戸徳川家は
入っていなかったと思われます。


そう思う理由のひとつには、それぞれの家にいわゆる「家格」が挙げられます。
尾張と紀伊は「大納言」を賜っていますが、水戸はひとつ格下の「中納言」なのです。
征夷大将軍に就くということなら、その家格はやっぱり最高の「大納言」でなければ
恰好がつきません。
なぜなら、ひょっこり家臣と同格、あるいは家臣の方が上位の家格ということでは、
さすがにヘンだからです。


それにそのことの傍証となる史実もあります。
それは第七代・徳川家継(1709-1716年)のケースですが、この少年(幼年?)将軍が
風邪をこじらせて急逝(満6歳)した折りの後継将軍選びの経緯です。


この際には尾張徳川家と紀伊徳川家の間で後継将軍職が争われて、水戸徳川家の動静が
そこに絡むことはありませんでした。 
つまり、同じ「御三家」にありながら、後継将軍職について水戸徳川家だけは、
「将軍職を継ぐ特典」を得ていなかったことになりそうです。


ですから、俗に「天下の副将軍」と見られることもありました。
しかし、正式には「副将軍」という職はありませんから、これは
~水戸徳川家からは将軍を出さない~ことの裏返しの表現だったとも思われます。


そして、その「天下の副将軍」としてドラマなどによく登場するのが「水戸黄門」こと、
水戸藩第二代藩主・徳川光圀(1628-1701年)です。
ちなみに、この「黄門」とはお名前とか愛称というものではなく、唐の言葉で中納言を
意味しています。
つまりは光圀自身も中納言だったということです。


その光圀は、祖父・家康が幕府の公式学問として取り入れた「朱子学」(儒学)を
熱心に学びました。
そればかりか、来日した中国・明の朱子学者・朱舜水(1600-1682年)を積極的に
受け入れたのも光圀でした。


光圀の業績にもう少し触れておくなら、『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、
古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業に力を注いだことも挙げられます。
この『大日本史』の事業がいかに壮大なものだったか、こんな説明があります。
~(完成まで)1657年(明暦3年)光圀が史局を開発してから数えて249年(満248年)
 の歳月を要した~ ウヘッ、凄い!


では、全体が完成するまで一切刊行されなかったかといえば、そうでもないようで、
~ただし、本紀・列伝は光圀存命中にはほぼ完成しており、幕末以後何度か刊行されて
 いる~

そして、光圀のこうした学芸振興策は「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を
与えたとされています。


エッ、その「水戸学」っていったい何のことですか? 
当然の質問ですが、的確な回答ができるほどの知識を持ち合わせていない筆者ですので、
例によってカンニングに及ぶと、
~ 光圀の「大日本史」の編纂によって芽生え、儒教思想を中心に国学・史学・神道を
 根幹とする国家意識を結合させたもので、王政復古に大きな影響を与えた~


この場合の「王政復古」とは、君主制から武家政治に変わった政治体制を、再び元の
君主制に戻すことであり、早い話が「明治維新」のことを言っています。
しかしまた、幕府側の人間が説いた思想「水戸学」が、なんでまた
「王政(天皇政治)復古」に大きな影響を与えることになるの?


その答えは、光圀のこんな言葉にありそうです。
~(水戸徳川家にとって)将軍家は親戚頭に過ぎず、真の主君は天皇家である~
しかし、幕府が推奨する朱子学の熱心な信奉者である光圀が、よくもまあ幕府の存在を
否定するかのようなこんな言葉を吐けたものです。


実は、その朱子学が一番大事にしている行いは「孝」(親孝行/御先祖孝行)なのです。
だったら、幕府を軽く見るが如きこの思想は、最大の「親不孝/御先祖不孝」という
ことになり、つまりは神君・家康公に対してもメチャな御先祖不行を働いていることに
なります。
しかし、光圀はひるむことなくそれを言葉にしているのです。


要するに光圀にとっては、神君・家康公に聞かれても構わない言葉だったというわけで、
その点を突き詰めれば、神君・家康自身もそのように考えていたことになりそうです。
~御三家のうち尾張徳川家と紀伊徳川家は将軍家を支える存在だが、水戸徳川家に
 限っては天皇家を支える存在である~


百戦錬磨の家康ですから、危機管理だって半端ではありません。
将来万々が一にも、幕府VS朝廷のガチンコ対決があったしても、こうしておけば
どこかの「徳川家」が生き残ることができそうだからです。


そして、実際幕末にはこんな事件が起こりました。
黒船来航(1853年)の数年後のことですが、アメリカは日本に対して
「日米修好通商条約」の締結を求めていました。


幕府大老・井伊直弼(1815-1860年)自身は(孝明天皇の)勅許を得ない条約調印には
反対していましたが、責任幕閣との間に言葉の齟齬があったようで、結果として調印が
なされました。


ところが、この成り行きに悲憤慷慨したのが「水戸学」の思想にドップリ染まった
水戸藩士たちでした。
彼らにとっては「真の主君は天皇家」ですから当然のことこうなります。
~勅許を得ずして勝手に条約調印に及ぶとは何事かッ!~


 映画『桜田門外ノ変』


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で、「桜田門外の変」(井伊大老暗殺事件/1860年)です。
~直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。
 供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を
 通り過ぎようとしていた時、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名の計18名による
 襲撃を受けた~


水戸勢は藩に迷惑が及ばないように、全員が事前に脱藩していました。 
で、ここからは双方の死闘です。
~最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの一部は
 狼狽して遁走し、駕籠を守ろうとした彦根藩士たちの多くは、折から降り始めた雪を
 避けるために鞘に取り付けていた柄袋に邪魔をされ、抜刀する間も無く刺客たちに
 切り伏せられた~


そして、
~刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、
 首を刎ねた~

こうして「御三家」のひとつである「水戸徳川家」の脱藩浪士たちは、
~「真の主君」である「天皇家」の許可を受けないまま条約調印に及んだ
 「親戚頭」に過ぎない「将軍家」の重役をテロで始末した~


ひとつの思想に凝り固まると平気で「テロ」さえできてしまうのは、昔も今も、
また西も東も変わらない事実、ということなのかもしれません。



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