ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

陰謀編37/暗殺犯の秘めたる鎮魂像

何物についても「日本三大◯◯」という表現はあるようで、例えば先日はなどは
「日本三大灯籠」なんてものにぶつかって、かなりマニアックな「三大」が
あるものだと、ある意味感心したものです。
お話のついでに、その「三大灯籠」についてもちょっと触れておくと、それは
こんな案内になっていました。


  〇南禅寺(京都府京都市) 高さ6.0M /奉納1628年/佐久間灯籠
熱田神宮(愛知県名古屋市) 高さ8.0M /奉納1630年/佐久間灯籠
上野東照宮(東京都台東区) 高さ6.06M/奉納1631年/ 佐久間灯籠(お化け灯籠)


ところがその寄進者を辿ってみると、実はいずれもが戦国時代の武将佐久間勝之
(1568-1634年)によるものとされていました。
なんと、同一人物によるものを「日本三大」としているのです。
そこら辺の事情を推し量れば、「競争相手」になるような適切な灯籠が他には
見当たらなかったということだったのかもしれません。
もし、そうならいささか強引でまた拍子抜けの印象になる「日本三大」です。


それはともかくとして、今回ひょっこり遭遇したのが「日本三大大仏」でした。
このように案内されています。
~江戸時代には、鎌倉大仏(像高約11.39m)、東大寺大仏(像高約14.7m)、
 方広寺大仏(像高約19m/京の大仏)の三尊が、日本三大仏と称されていた~


「江戸時代には・・・されていた」との過去形の表現になるのは、そのうちの
「方広寺大仏」が現在は存在していないからです。 では、なんで現存していないのか?
実は下のような経緯を辿ったことで、1973年(昭和48年)以降は、現在もなお
「非現存」のままになっているとのことです


〇1595年/ 初代大仏は豊臣秀吉の発願によって造られ、その後破却された。
〇1612年/二代目大仏が完成したが、地震によって損壊。
〇1667年/三代目大仏が再建されるも、今度は落雷(1798年)によって焼失。
〇1843年/四代目大仏が造られたが、失火によって焼失(1973年)。


ということで、現在も「無い」ままのものを取り上げることも、筆者も気分的には
いささか面白くありません。
そこで今回は残る二尊のうちの鎌倉大仏に注目してみることにしたのです。


この選択は決してエコヒイキではなく、歌人・与謝野晶子のこんな歌が筆者の頭に
浮かんだことが理由です。–
~かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな~


そういうことから実際に一歩を踏み出してみると、この「鎌倉大仏」がなにやら多くの
謎を備えていることに改めて気が付くのです。


   鎌倉大仏(高徳院)


たとえば、こんな具合です。
~誰が?/いつ?/何の目的で造ったのか?/その費用の出どころは?/~
当時の政権の中心地に誕生した巨大な建造物でありながら、基本的な事情については、
実はなにも分かっていないとされているようです。


昔のそのまた大昔の伝説がらみの事柄ならともかくも、これが時代を遡ること、
せいぜい八百年ほどの「鎌倉大仏(高徳院)」ついてのお話しということなら、
少しばかり違和感も覚えます。
と言うよりは、大いに怪しい印象さえ芽生えてきても、むしろ自然な印象です。


さて、「鎌倉幕府」という言葉が示す通り、この鎌倉の地は最初の武家政権のいわば
首都とも言える土地で、決して人里離れた秘境というわけではありませんでした。
そんな土地に超巨大な「仏様」が誕生したのであれば、当然多くの注目や関心を
集めたはずです。


にもかかわらず、鎌倉幕府の公式歴史書というべきか、北条得宗家の正史というべきか、
その「吾妻鏡」にも「明瞭な記録」が残されていないのですから、これはまことに
ヘンな按配です。
これってメッチャ不自然なお話しではありませんか。


だって、あんな巨大な建造物なのですよ。
であれば、そこに要する技術だって労働力だって資金だって、ハンパなものでは
なかったはずで、それなのに、それらについては一切「沈黙」されているのです。
そうであれば、この不自然な「沈黙」の裏には何かが隠されていると考えても、一概に
下司のカングリだとは言い切れないような気もしてきます。


確かに「吾妻鏡」にはこんな記事もあるようです。
~建長四(1252)年、僧・浄光の勧進によって大仏の造立が開始された~
しかし、この僧・浄光については、他の事跡がほとんど知られていません。


それどころか、Wikipediaを覗いても、浄光寺や浄光院はあるものの、僧・浄光という
人物についての記事はないのです。
しかし、もしこの僧・浄光の勧進によって資金が使われたことが史実であるのなら、
そうした人物をWikipediaが完全にスルーしているのもヘンです。


   

      二代・源頼家 / 三代・源実朝


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また、仮にその僧・浄光が少なからずの寄付金を集めたとしても、これだけの大事業を
賄えるだけの金額になったとは考えにくいところです。
なにせ当時としてはかなりのビッグ・プロジェクトになったはずだからです。


そして、その建設地が首都?である鎌倉ということなら、幕府自身がそれを知らなかった
とは到底思えません。
はやり、幕府の後援なり許可あるいは黙認など、何らかの関与があったと考えた方が
常識的ということになりそうです。


そこで今回は、こうした諸々の謎に対する筆者の受け止めを綴ってみることにしました。
まず、第一には建立の目的。
これは、ひょっとしたら「奈良の大仏」と同じ性質のモノではなかったのでしょうか。
要するに、言葉を費やせば「怨霊鎮魂」のためということです。


では、誰の「怨霊」を鎮めたかったのでしょうか。
その目線で眺め直してみると、二代将軍・頼家(1182-1204年)もその弟である
三代将軍・実朝(1192-1219年)も実は暗殺されていることに気がつきます。
しかも、二人ともがかなり無残な殺され方をしているのです。


二代・頼家は入浴中に襲撃され、紐で首を絞められた上に急所を押さえられ
刺し殺されているし、また三代・実朝はといえば、雪の積もる鶴岡八幡宮の境内で
襲撃を受け暗殺犯によってその首を持ち去られたとされています。
いずれにせよ「穏やかな死」とは対極にある絶命ぶりでした。


しかし、こんな反論も登場するのかもしれません。
~でも、初代将軍・頼朝(1147-1199年)は暗殺死ではなく、イベントの帰りに
 落馬したことが原因となって亡くなったのではありませぬか~
ところがギッチョン、実はこの説明にもかなり怪しい感じが漂っているような
気がするのです。


仮に、いささか不名誉な「落馬が原因の死亡」が事実であったとしても、故人が
「武家の棟梁」であり、また「幕府の創業者」であったからには、そこはいくぶんの
脚色を心掛けて、「死者を鞭打つ」かのようなことには触れないのが日本人としての
自然な心情でしょう。
しかし、「落馬」ではむしろ「ドジな頼朝」を強調していることになってしまいます。
なんでまた、こんなことに?


さて、この頃の武士団は朝廷に対して自分たちの地位を認めさせるために対立を
深めていた、言わば「反朝廷派」的な存在でした。
そして、源頼朝をトップに担ぐことで幕府を構築し、一応の成果は上げたものの、
その後になって頼朝自身は自分の娘(大姫)を入内させることに熱中し始めました。
天皇家の親戚になろうと躍起になる、こうした頼朝の姿は、武士団からすれば
おそらくは「親朝廷派」に寝返ったように映ったことでしょう。


元々、朝廷に武士団の団結ぶりを誇示するための、いわば「広告塔」に過ぎない
存在だった頼朝が、朝廷の親戚になりたがったのでは、もうその時点で「御役御免」と
いうことです。
ですから、こうした姿勢を露骨に見せていた頼朝も、後の頼家や実朝と同様に
おそらくは「暗殺」されたものと思うところです。


この三人の暗殺に大きく関わっていたのが北条時政・政子・義時らをはじめとする
「北条一族」であったことは間違いないでしょう。
なぜなら、暗殺事件と並行して、ライバルたちを次々と失脚させることで着々と
幕府内の地位固めをすることを成功させているからです。


ということは、頼朝の妻である北条政子は夫とふたりの実子の「暗殺」を前もって
知っていたことになります。
現代人の感覚からすればかなり怖いお話しですが、後に「尼将軍」と呼ばれるほどの
女性が、実家の意思・動向・繁栄に無関心だったとは到底信じられません。


この血塗られた権力奪取の経緯には、さすがの北条一族にも重たく後ろめたい気持ちが
働いたということなのでしょう。
そうなると当然、怨霊封じのための鎮魂作業を必要としますし、その場所は当然
その地「鎌倉」である必要があったし、さらには北条一族の名が前面に出るような
ことも避けなければならなかったということです。
名が出れば自らの悪事を公表したも同然だからです。


そのためには、アイマイに「僧・浄光の勧進によるもの」とせざるを得なかったと
いうことなのでしょう。
その意味からすれば、僧・浄光は、そのためにでっち上げた架空の人物だったのかも
知れません。
なにせ、この僧・浄光については、実はその経歴も含めよく分かっていないばかりか、
Wikipediaですら完全にスルーしちゃっているのですからねぇ。


ちなみに、先の与謝野晶子の歌の正誤表。
晶子は、鎌倉大仏を「釈迦牟尼」(仏教開祖・釈迦)と歌っていますが、それは
彼女の勘違いで、「阿弥陀如来」(極楽浄土の仏)が正しいとのことです。



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