ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

陰謀編36/鎮魂は知らぬ存ぜぬで

西の「奈良の大仏」サマと比較されることも多い、東の「鎌倉の大仏」サマに
ついて、Wikipediaではこのように説明しています。
~神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院である高徳院の御本尊は
 銅造阿弥陀如来坐像の鎌倉大仏(国宝)~


この説明の範囲だけでも、たとえば浄土宗とか、あるいは阿弥陀如来など、
実は筆者自身の知識が十分に及んでいないところもあります。
しかし、そこは堅いことを言わず、ちゃっかりシカトして一歩先へ進んでみると、
~高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、
 開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い~


なんだとぉ。
国宝でありながら、開山・開基も、それどころか大仏の造像の経緯さえも不明ってか。
いい加減にしてよ、それじゃあまったく何も分かっていないということではないか。


 

     鎌倉大仏(高徳院)


さすがの筆者もこの事実にはすっかりビックリこいたのですが、せっかくの機会だ。
ちょいと追跡してみようと思い立ったのです。
そういうことならまずは用語の意味を確認しておく必要がありそうで、そこで、

それらを探ってみると、こんな説明になっています。


開山 (「山」を開いて寺を建てたところから) はじめてある寺を建てること。
    また、その寺をはじめて開いた僧。 開基。 あるいは各宗派の開祖のこと。

開基→ 仏寺を創立すること。 また、その人。 開山。 開祖。


どうやら、双方の言葉はその意味合いは全く別物ということでもなさそうで、
この場合に限れば、単純に「寺の始まり」と理解してもよさそうです。
しかし、そうした「寺の履歴書」がとんと「不明」だとする説明は、さすがに腑に
落ちません。 なにせ、当時の首都(鎌倉)での出来事なのですからねぇ。


そこで、「鎌倉大仏殿高徳院」のホームページを覗いてみました。
いわゆる「自己紹介」の類であれば、きっとならその内容も丁寧な説明になっている
ハズだと踏んだわけです。 このあたりの鋭い判断力は自画自賛です。
それはさておき、ホームページはこんな説明になっていました。


まず、「高徳院の宗旨」について、
~高徳院(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人(1133 ~ 1212 年)を
 開祖とする浄土宗の仏教寺院です。
 法然上人は、善悪、男女、年齢、身分などの別なく、万人の救済を本願とされる
 西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来に帰依されました。
 人は誰しも「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と称えれば、その御加護に
 与ることができ、臨終に際しては極楽浄土に迎え入れていただける。
 これが法然上人の説かれた浄土宗の教えです~


この説明には「開祖」という言葉が使われています。
ただし、先の案内でも「開山・開基は不明」とされていたことからしても、これは
「高徳院の開祖」ということではなく、「浄土宗の開祖」という意味になりそうです。
いささか紛らわしい微妙な表現になっています。


そして、国宝である「鎌倉大仏」については、
~「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。
 像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏
 (盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上
 ひときわ重要な価値を有しています。
 北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252(建長四) 年。
 制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています~


ここに「規模こそ奈良東大寺の大仏に及ばぬものの」と案内されていたので、
念のために現存サイズで比べてみると、
奈良大仏/像高約14.7メートル、重量約400トン
鎌倉大仏/像高約11.3メートル、重量約121トン 
ということになりそうで、「奈良大仏」サマはかなりのメタボ体型をしているようです。


蛇足ですがこんな案内もありましたので、これも付記しておきましょう。
~面白いことに、奈良の大仏が開眼したのが752年、鎌倉の大仏の鋳造が1252年なので、
 ちょうど五百年の差がある~


さて、開山・開基については、さすがに寡黙な印象になっていますが、御本尊の
大仏サマのことになると、それなりに饒舌感が伴ったものになっています。
~もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定
 されるに至っていません。
 当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、
 1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって
 損壊に至ったとの記録を見いだすことができます~


当初は「露座」ではなく、ちゃんと大仏殿に収まっていたということです。
しかしよく読むと、大仏サマに関する説明も、かなり大雑把な感じもあって、
一口に言えば「実はよくは分かっていないのじゃ」くらいの内容になっています。


そこで、さらにもう少し先に進んでみると、
~(損壊した)以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人
 野島新左衛門(泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。
 尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、
 当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、
 祐天の事績にほかなりません。
 ※ 小石川伝通院の住職を務めた後、増上寺第36 世法主を拝命した高僧~

ここまでが、高徳院のホームページから引っ張ってきた内容です。


   

      吾妻鏡 / 釈迦如来の掌と孫悟空


 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村


しかし、幕府の本拠地である鎌倉の地に開基されたことや、大仏建立というビッグ・
プロジェクトのことまで考え併せるなら、当時の「高徳院」建設は、現代感覚なら、
さしずめ「東京スカイツリー」建設に匹敵するくらいの超巨大事業だったはずです。


そうしたことを考慮するなら、メッチャ多くの疑問が浮かんできます。 
たとえば、鎌倉(幕府本拠地)の出来事なのに、
〇なぜ、開基・開山の事情(誰がいつ)が不明なのか?
〇なぜ、こんな巨大事業を幕府は公式記録として残さなかったのか?
〇大仏建立のために必要とした膨大な資金を誰が調達したのか?


こうした点については、ウワサ話程度ならいくつかの見方もされているようです。
たとえば、その一つが、
~大仏建立には僧・浄光が勧進した浄財が当てられた~
ちなみに、「勧進」とは、現代なら「寄付金集め」ほどの言葉になるのでしょうか。


もし、これが史実だとしたら、僧「浄光」の名は、当然のごとくWikipediaにも
取り上げられていていいはずです。
なにせ、当時の超巨大事業では、資金面で大きな貢献をはたしたわけですからねぇ。


ところがギッチョン。
Wikipediaには、霊,技の「浄光」や寺名の「浄光寺」に関する案内はあっても、
僧「浄光」の項目は見当たりません。
こうしたことからしても、「僧・浄光が勧進した浄財」というのも、あくまでも
週刊誌レベルの「ウワサ話」に過ぎないことになりそうです。


そこで、筆者は考えた。
~そうした数多のモヤモヤを解決できる、スッキリした見方はないものか?~
それがあったのです!
ただし、各位の同感を得られるものかどうかについては、イマイチ不安も残りますが、
こんな受け止め方はどうでしょうか。


まず、コトの経緯をこのように考えました。
〇源氏嫡流である鎌倉幕府の歴代将軍(初代・頼朝/二代・頼家/三代・実朝)は、
 いずれも後に得宗となる北条家の手によって暗殺された。
〇そして、そのようにした源氏歴代将軍たちを、知らぬ存ぜぬこととして放置するなら、
 その祟りは必ずや我が身に降りかかるであろうから、それを忌避するために、
 得宗・北条家は秘密裏に、歴代将軍鎮魂のための「大仏」を建立した。


〇だから、大仏建立の資金の大部分は、得宗・北条家が担った。
 (同時に、その事実を隠蔽するために「僧・浄光の勧進」というウワサを流した)
〇そうした委細は厳重な「国家(幕府)機密」とし、「吾妻鏡」などの公式文書に
 さえも一切触れないように徹底管理した。


このように捉えれば、開山・開基/大仏建立の経緯/建立資金/公文書不掲載/
などなどの疑問についてのすべてが説明できそうです。
要するに、鎌倉初期の政治状況を『西遊記』風にたとえるなら、こんな感じになる
のでしょうか。
~世界(天下)を制したと思い込んだ孫悟空(源氏将軍家)だったが、その実態は
 釈迦如来(得宗・北条家)の手のひらで舞っているにすぎなかった~


ええ、そして、その釈迦如来は
~(それを)まやかしの術だと抗弁する孫悟空を手で打ち据え、押さえつけて、
 五行山に閉じ込めて封印してしまった~

つまり、鎌倉将軍家のお歴々をあの世へと閉じ込めたのは、やっぱり得宗・北条家の
面々だったことになりそうです。


 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村