ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

付録編22/年代表記のお作法あれこれ

年代を言い表す方法として現代日本でよく用いられているのは、世界標準に
なっている感もある「西暦」と、それにもうひとつ、日本独自の元号を用いる
「和暦」の二種類ということになるのでしょう。


でも、「西暦」と「和暦」って言葉、ヘンチクリンな対比になっていますねぇ。
西洋に対して東洋ということなら、西洋の暦すなわち「西暦」に対して、
東洋の暦「東暦」という表現になりそうなものですが、そうなっていないからです。


しかしながら、考えてみればそれはある意味当然で、それを用いているのは東洋という
広い広いエリアではなく、ごくごく手狭な日本だけに限定されているからで、
そうしたことから「和暦」という表現になるわけです。
また、もう少し突っ込んでみると、「和暦」に対して「洋暦」という言葉も
使っていないことにも気が付きます。


さて、その「和暦」を表す場合に、頭に付けられるのがいわゆる「元号」です。
「元号」とは、こんな説明になっています。
~起算点(元〈はじめ〉)を定めて年数を数える紀年法の一つで、一定の年数に
 つけられる名称をさす。 年号ともいう~


そして、歴史的には、
~中国、漢の武帝が前140年を建元元年と定めたのが元号の始まりとされ、
 その後近隣諸国でも使用されるようになった~

ふえぇ、メッチャ古い歴史を有しているようです。


そして、さらに注記しておくなら、
~現在元号を使用している国は日本だけである~
なんと、日本だけだってか?
すると、これも「日本の常識は世界の非常識」のひとつなのかもしれんなぁ。


それはともかく日本の場合だと、たとえば今年を指す場合、「西暦2023年」という
表現の他に、和暦で「令和5年」という言い方もできるというわけです。
そういうことなら、やっぱり「東暦」でなく「和暦」という呼称の方が実態に
合っていることになりそうだ。


しかし、二つの方法があるからといって、その両方を使いこなそうとすれば、
ちょっとばかりの厄介も伴いそうです。
実際、このようにこぼす人もいるからです。
~ううむ、分からん! 
 昭和40年生まれの伯父上殿は、今(令和5年)いったい何歳なのだ?~


この答えを導き出そうとすれば、普通には双方の数字を一旦西暦の数字に直してから
計算に臨む必要があります。
このひと手間が、筆者のようなものぐさ者には、やたらと面倒臭い感が付きまとって
しまうわけです。
もっとも、こうした作業に面倒臭い感を覚える人は、なにも筆者だけではないのかも
しれませんが。

 西暦と和暦


そして、使われている元号が一種類だけの場合はまだしも、複数の元号が入り乱れると
もう修羅場です。


たとえば、
~明治40年にこの地に移ったご先祖様は大正10年に事業を興したが、
 その地が戦災を受けたことで、その末裔は昭和20年になって事業を畳んだ。
 ところが、ずっと後の平成20年に、一族の一人が学究生活に歩み出し、
 ついに令和5年には栄えある賞を得た~


こんな話を聞かされて、話の始まりの明治40(1907)年から、話の終わりの
令和5(2023)年までの間の時の流れを、アナタはスムーズにイメージできますか?
多分チンプンカンプンでしょう。
しかし、これを西暦に統一した形で表現すると、幾分は分かりやすくなるのです。


~1907年にこの地に移ったご先祖様は1921年に事業を興したが、
 その地が戦災を受けたことで、その末裔は1945年に事業を畳んだ。
 ところが、ずっと後の2008年に、一族の一人が学究生活に歩み出し、
 ついに2023年には栄えある賞を得た~ 
こんな具合です。


さて、話を元号に戻します。
日本で初めて採用された元号は「大化」だそうです。
えぇ「大化の改新」(645年)の、その「大化」です。
~(大化とは)飛鳥時代の645年から650年まで、(第36代)孝徳天皇の代の元号。
 日本最初の元号とされ、意味は、限りない徳をもって他を導くこと~


その意味合いからすると、メッチャ格式の高い元号ということになりますが、そんなら、
そうした「元号」がなかった孝徳天皇以前の時代は、どのように年代を表していたの?
もちろん「西暦」ではありません。


なぜなら、「西暦」を使うようになった時期については、こんな説明になっている
からです。
~日本が西暦を使うようになったのは、1873年(明治6年)からです。
 この年に、明治政府によって太陽暦を採用し、西洋のグレゴリオ暦を元にした
 「西暦」が公式に導入されました~


なんだ、たったの150年ほど前からなのか。
そんな思いに浸っているところで、こんな案内を見つけました。
~元号が用いられる以前の日本では、主に「干支」という十二支と十干を
 組み合わせた方法で年代を表現していた。 
 これは中国の伝統的な暦法に由来するものである~


「干支」といっても、筆者なぞは年賀状を書くときに意識するだけです。
だからと言って、この場合うっちゃっておくわけにもいきませんから、
少し説明を追ってみると、
~干支には、十干という10種類の干(かん/甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)
 と、十二支という12種類の支(し/子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)
 がある~


さらに、
~この干支を組み合わせて、例えば「甲子」や「戊辰」といった組み合わせが
 年代を表現するために使われていた。
 日本の古い文書や歴史書には干支が用いられた日付が見られる~


ついでということで、こんな説明があったこともご紹介しておきましょう。
~十干の10と十二支の12の最小公倍数である60年で干支が一巡することから
 数え年六十一のことが
”還暦”と言われるようになった~
要するに、こういう意識のことのようです。
~六十年生きて、干支(えと)が生まれた年のものに還(めぐ)り返る~


 

      十干十二支 / 第26代・継体天皇


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なるほどと思う反面、これですべての年代を言い表していたとするなら、
「元号」に負けず劣らず厄介だったことが想像されます。
なぜなら、「甲子」の年の60年前も、またその年の60年後も、同じく「甲子」の年と
なりますから、その区別がつきにくい。


たまたま出くわした町内長老に、そんな筆者の杞憂を遠慮なしでぶつけてみたところ、
こんな明快なお答えが。
~なぁに、案ずるには及ばんのだ。
 なにゆえなればダ、人生百年時代と言われる現代とは違って、この時代の人間がダ、
 60年もの間隔が空いた同じ「干支」の年を、もう一度迎えるなんてことはダ、
 メッチャ考えにくいからダ~


ああ、なるほど。
それだったら「60年で一巡」してしまう「干支」年号でも、確かにさほどの不便は
なかったのかもしれん。


そうこう思いを巡らしているうちに、「万世一系」とされる皇統にあって、
第15代・応神天皇の「五世孫」というメッチャ遠い血統にありながら、結果として
第26代を継承した継体天皇の生没年に関する年代表記法を思い出したのです。


こんな表現になっていました。
~生年:允恭天皇39年/没年:継体天皇25年~
むむむ、こうした表現だと、第19代・允恭天皇が即位されて39年年目にお生まれに
なって、自身の治世の25年目に亡くなられたことは分かります。


しかし、それはいったいいつのことやねん。 こうなるのは必至です。
おそらくはそうしたことへの配慮なのでしょうが、Wikipediaは「?マーク」付き
ながら「西暦」表記にも挑んでいました。
~生年:450年?/没年:531年?~
なんだとぉ、そうすると、亡くなったのはなんと八十歳代ってか?


生没年のデータが、もし「十干十二支」だけが頼りだったとすると、こうした場合、
八十歳代で亡くなったものか、あるいはそれより60年前の同じ「十干十二支」の年に
二十歳代で亡くなったものか、その判定が難しくなることだってありそうだ。
その意味でも、「西暦」表記という方法はシンプルで、かつ分かりやすくなっている
ことを思い知った次第です。


ちなみに本年は「西暦2023年」、元号を使えば「令和5年」、十干十二支だと
~十二支で「卯年」、十干では「癸」、干支は「癸卯(みずのとう)~
となるそうです。


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