ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

信仰編16/天変地異への民族理解

「天変地異」とは、このくらいの説明になっています。
~天変とは天空に起こる変動、地異とは地上に起こる変異。 
 要するに、天地の間に起こる自然の異変のことで、風、雨、雷、日食、月食、

 彗星や地震、洪水などのことをいう~


では、こうした「天変地異」に遭遇したとき、それぞれの民族はそれをどのように
受け止めてきたのだろうか?
なにげのことに、こんな思いが筆者の頭に浮かんでしまったのです。
そこで今回それを取り上げることにしたのですが、早い話が自業自得の成り行きです。


さて、一口に「民族」というものの、その対象範囲たるややたらと広く、また充分すぎる
くらいに面倒臭いテーマですから、その「民族」も限定することにしました。
全民族に目を配るなんて芸当が筆者にできるはずもないからです。


では、そこで筆者が選択した民族って?
ひとつには、古の時代から何かとお付き合いのある「中国」です。
ただ、この地を支配した民族は、歴史的には漢民族、モンゴル民族、満州民族など、
複数の民族がその立場に立ちましたから、話は少々乱暴になりますが、ここでは
分かりやすく「中国民族」という言葉を使うことにします。


学術的な用語としてはいささかヘンチクリンなのかもしれません。
しかし、要は儒教を受け入れた民族ということで、ここは筆者の意を組んで、
どうか見逃してくださいな。


二つ目は、キリスト教などの一神教を信仰する民族です。
これもいささかヘンチクリンなのかもしれませんが、ここでは便宜上、
それを「西欧民族」と表現することにします。


そして最後の三つ目は、やはり「日本民族」ということになります。
なにせ筆者自身がその「日本民族」に一味なのですから、これを無視するわけには
いきません。

    天人相関説(儒学者・董仲舒)


最初に、筆者的呼称による「中国民族」を取り上げるなら、その基本的な思想は
「天人相関」あるいは「天人感応」ということになりそうです。 
こう説明されています。
~人事(人)と自然現象 (天) との間に対応関係があり、人間の行為の善悪が
 自然界の異変(吉祥や災異)を呼び起す、という思想~


そして、この思想は、
~漢代の儒家が盛んに唱えて広く流行したものであるが、人事のうち、特に政治の
 よしあし(善し悪し)が天に感応して「天変地異」の現象となって現れると説く~


さらに踏み込むなら、このような捉え方です。
~王の政治には徳がなく、しかも劣悪だから、このような災い(天変地異・疫病など)
 を招いてしまったのだ~


ということは、そうした「天変地異」によって民が大災害を被ったのなら、
それは無条件に「王の責任」である。
だからして、そんな王を追放したり、あるいは殺してしまったりしても、それは
民の側に道理があるという考え方で、つまり、天は王様(人間)より遥かに偉大な
存在であることになります。


その「中国民族」の「天」に対比される存在が、「西欧民族」においては「神」
いうことになるのでしょうか。
確かに似たイメージもありますが、しかしながら、「天」と「神」はまるで
違う存在なのです。
なぜなら「天」は、「この世の総てをお創り給うた」という存在ではないからです。


その点、「神」こそは世界の総てを創った唯一の存在であるとされているのです。
それが証拠に「造物主」という特別な名前まで持っておられます。


では、そうした唯一絶対「神」を信仰する「西欧民族」が、「天変地異」によって
とてつもない災いを被ったとしたら、どのように受け止めるのか?
まあ大抵の場合は、このくらいのところに落ち着くのでしょう。 
~実に辛くてシンドイ出来事ではあるが、これは神の思し召しなのである~


どうやら、「中国民族」が王様や施政者の責任を咎めると同様に、「神」に対して
責任追及をする考え方を「西欧民族」は持っていないようです。
なにしろ、世界の総てをお創りになった唯一絶対の存在「造物主」なのですから、
落ち度や間違いなどがあろうはずもないのですから、無理もありません。


ということは、たとえそれが甚大な犠牲・被害を招いた「天変地異」であったとしても、
決して「神の落ち度」ということにはなりません。
それは「神が人間に試練を与えた試練」である。
ですから必然的に、人間の側は「神は我々人間を試しておられるのだ」という
受け止めになります。


もちろん個人的な感情としては、とてもとてもそのようには受け止められない人も
いるのでしょうが、唯一絶対神を信仰する民族としては、そうした「神の仕業」に
注文や苦情をつけるなんてことは許されません。
そのこと自体が人間の傲慢不遜な行いであり、神に対する冒涜になるからです。


つまり、天変地異に対して、儒教思想を備えている中国民族は、こう考えます。
~天の代理人である王様の政治が悪いから、あるいは王様自身に徳がないから、
 という理由であるなら、天の代理人=王様を成敗することだってアリだ~


ところが、「西欧民族」が信仰する唯一絶対の「神」(造物主)に対しては、
それができません。
何しろ、人間自体が「神」(造物主)によって造られた存在なのですから、偉そうな
態度は取れないのです。


ちなみに、筆者自身はその部分を読んだことはありませんが、聖書にはこうあるそうです。
~神はご自分にかたどって人を想像された~
具体的には、
~神は土地の塵(ちり)で人を形造り、その鼻に命に息を吹き込まれた。
 そこで、人は生きものとなった~


こんなに手間ヒマかけて造っていただいたのなら、神に苦情を言うなんてことは
許されるはずもありませんわなぁ。


       

アダムとイブ(ティツィアーノ) / 怨霊(葛飾北斎)


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では、そうした天変地異を「日本民族」はどう捉えていたのでしょうか。
ズバリ、「怨霊の仕業」と捉えていました。
ええっ、その
「怨霊」って、つまり「お化け」のことですか?


まったく別の存在であり、その違いはこんな説明になりそうです。
~怨霊とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、祟りなどをする、死霊または生霊の
 ことで、悪霊に分類される~

これに対して、
~御化(おばけ)とは、ばけもの、妖怪、変化(へんげ)、幽霊のこと~
つまり、基本的に「人間」でないことには「怨霊」にはなれないわけです。


そして、天変地異などの災いはこうした「怨霊」の報復であると、昔の昔から
信じてきたのが「日本民族」でした。
メッチ乱暴な言い方なら、このように受け止めていたとも言えそうです。
~「非業の死」をとげた人の場合は、肉体は滅びても霊魂は生き続ける。
 だから、十分な鎮魂が行き届かないと、現世に天変地異や疫病などの災いをもたらす~


折角ですから、現世に災いもたらした(と信じられた)大怨霊の実例を何人か挙げて
おきましょう。
菅原道真(845-903年)/貴族・学者・政治家
 →政治的敗者となり、失意の中、左遷先で死去。


平将門(?-940年)/関東の豪族
 →地元(武蔵国)紛争の調停をキッカケに、その後反乱を起こし、最後は討たれた。
崇徳天皇(1119-1164年)/天皇・上皇
→朝廷内の政争に敗れ、配流先の讃岐国で失意のうちに死去。


それぞれの怨霊が、現世に対してもたらした数々の災いの内容にも、実は興味深い
ものがあるのですが、今回の本題ではありませんので、それらはまた別の機会に譲る
ことにします。


つまり、まとめると、こういうことになりそうです。
~天変地異とか疫病を、「日本民族」は「怨霊」の仕業と捉えていた~
ということなら、当然これらを予防する方法も昔の昔から模索され続けたことでしょう。
その結果、経験的結論として得たのが、~「鎮魂」が最も効果的である~


その「鎮魂」とは、~死者の霊を慰めしずめること~と説明されていますから、
怨霊(おんりょう)信仰/不幸な死に方をした人の霊が祟り災いをもたらすという信仰。
御霊 (ごりょう)信仰/怨霊を鎮魂することで御霊とし、幸いをもたらすという信仰。
となり、この二つの信仰は表裏一体の関係にあると言えそうです。


ええ、ですから、起こった天変地異や疫病に対し、苦情や文句を言える相手は、
日本民族にはどこにもないのです。
そして、できることと言えば、あの世の怨霊に対し、ひたすら鎮魂の祈りを捧げるだけ。
つまり鎮魂とは、一言にいうなら「怨霊に対するご機嫌取り」ということになるのかも
しれません。


しかしまあ考えてみれば、災いをもたらす「怨霊」が、幸いをもたらす「御霊」に
生まれ変わるだなんて、日本民族の信仰は、中国民族の「天」や、西欧民族の「神」に
比べてもユニークで、しかもメッチャ流動的、多次元であるなぁと感じ入っている
今日この頃の筆者です。


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