ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

忘れ物編37/民族のお日サマ好き症候群

世界の中でも、これほど「太陽/お日サマ」にこだわりを持つ民族はそうそういない
のではないでしょうか。
えぇ、この列島に棲んでいる、いわゆる「日本民族」のことです。
まず、その国の名前からしてが、「日本」(日の本)にしているという厳然たる事実が
あります。
そして、この「日」ってのは、まさにその「太陽/お日サマ」のことですものねぇ。


歴史的に見るなら、それこそ「倭国」とか「邪馬台国」とか、あるいは「大和」とか、
もっと他の名乗りにすることもできたのでしょうが、結局のところ、この
「太陽の昇るところ/日本」に落ち着きました。
心情的に「なにかしら、シックリする」ものがあったということなのでしょう。


その「日本」について、もう少し追ってみるとこんな説明にぶつかります。
~「東の方」の意の「ひのもと」を漢字で記して「日本」。 わが国の国号~
さらに、先ほどの歴史的な考察も加えると、
~大和(やまと)地方を発祥地とする大和朝廷により国家的統一がなされたところから、
 古くは「やまと」「おおやまと」といい、中国がわが国をさして倭(わ)国と記したため
 倭(やまと)・大倭(おおやまと)の文字が当てられた~


   天照大神


ところが、それではなんとなく落ち着かなかったのかもしれません。 
そこで、
~その後、東方すなわち日の出るところの意から「日本」と記して「やまと」と
 読ませ、大化改新の頃、正式の国号として定められたものと考えられるが、
 以降、しだいに「ニホン」「ニッポン」と音読するようになった~


さらに、その先まで進んでみると。
~1889(明治22)年制定の旧憲法では、大日本帝国(だいにっぽんていこく)が
 国号として用いられたが、1946(昭和21)年公布の日本国憲法により
 日本国が国号として用いられるようになった~


で、「大日本帝国」が (だいにっぽんていこく) ということなら、日本国もそれに倣って
(にっぽんこく) になるのかというと、必ずしもそうはなっていないようです。
~その読み方については国家的統一はなく、対外的に多く「ニッポン」を用いる以外は
 「ニホン/ニッポン」が厳密に使いわけられることなく併用されている~


なに、対外的には「ニッポン」が多いってか。
あぁ、それでオリンピックで応援する場合には「ニッポン、チャチャチャ!」って
ことになるのか、なるほどだ。
確かに「ニホン、チャチャチャ!」ではイマイチ迫力に欠けた印象が漂い、
選手側としても気合を込めにくいかもしれない。


それはともかく、こんな説明も。
~美称として、大八洲(おおやしま)、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)、
 葦原中国(あしはらのなかつくに)、秋津島(あきつしま/あきづしま)、
 秋津国(あきつくに)、大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)などがある~

しかしまあこれは、民族のアイデンティティを表すというよりは、土地というか、
場所というか、その地理的空間を指した言葉になるのでしょう。


そして、国の名前ばかりか、そのシンボルとなる国旗がこれまた「日の丸/日章旗」
とされていて、これもばっちり「太陽/お日サマ」なのです。
折角ですから、その歴史もちょっぴり辿っておくことにしましょう。


~(日の丸は)わが国では古くから軍扇などに使用されていたが、
 江戸幕府はこれを船印として、城米輸送の廻船(かいせん)などに用いた。
 幕末に至り、対外的にもわが国の国旗を明確にする必要から、

 薩摩藩主・島津斉彬(1809-1858年)らの意見をいれ、
 1854(安政1)年「日本総船印は白地日の丸幟(のぼり)」と定めた~


この時はまだ「船の幟」とされていますが、その後には、
~明治政府も国旗を定める必要から「御国旗」のデザインを示した~
これが1870(明治3)年のことで、ここで「日の丸/日章旗」も「船の幟」という
ことだけではなく、正式な「御国旗」として定められたわけです。


さて、この民族の「太陽/お日サマ」好きは、これに留まるものではありません。
民族が信仰する一番エラい神様の名前が、これまた「天照大神」(アマテラス)で
あり、その名を探れば「天照/空に輝く」ということであり、これまたやっぱり
「太陽/お日サマ」なのです。


では、神様ではなく仏様、こちらの方はどうなのだ?
こちらには真理に到達した人、つまり仏陀を言い表した「如来」という言葉があります。
そして、その中でもメジャーな如来様の方々に集まっていただくと、普通はこんな
顔ぶれになります。 /釈迦如来/阿弥陀如来/薬師如来/大日如来/


     

     大日如来 / 日の丸弁当


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では、この中でナンバーワンはどなた?
そんなことは到底筆者の知識が及ぶところではありませが、横目でカンニングをして

みると、こういうことになると説明されています。
~「大いなる太陽」の意を備えた「大日如来」こそ、あらゆる仏のトップに立つ
 もっとも偉大な仏様であり、宇宙を治める絶対王者~


他の如来様方々の言い分もあろうかとは思いますが、こうした見方があることは事実です。
この「大日」も、要するに「太陽/お日サマ」を指していますから、マニアックに
ぜんぶ太陽で固められていることになります。


ところが、実はこれだけでは終わらないのです。
えぇ、天皇家の正統性を担保する「三種神器」もしっかり太陽に拘っているのです。
えぇっ、不意打ち気味に「三種神器」ですか?
どんな三種だったか、思い出さなきゃ。 


~(三種神器とは)日本神話において、天孫降臨の際に天照大神がニニギ(瓊瓊杵尊、
 邇邇芸命)に授けた三種類の宝物で、すなわち/八咫鏡(やたのかがみ)/天叢雲剣
 (あめのむらくものつるぎ)/八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称~

ちなみに、天叢雲剣は別名・草薙剣(つさなぎのつるぎ)とも言います。


さて、誰も目視確認をしていないとされているために、これは通説ということに
なりますが、それら三種神器の各々の実体は、その名称の通りに八咫鏡は「鏡}、
天叢雲剣は「剣」、八尺瓊勾玉は「勾玉」(装飾品?)とされています。


そして「鏡」は太陽の象徴、いわば「ミニ太陽」だとする説もあるのです。
なるほど、そうかもしれません。 
光を反射することで自ら輝くのですから、まさに「携帯できるミニ太陽」です。
やはり、この民族はやたらと「太陽/お日サマ」が好きなようです。


ついでにいうなら、倭国王・卑弥呼も実際には「太陽/お日サマ」の意味合い
なのでしょう。
倭国の人間が「われらは女王をヒミコ様とお呼びしている」と証言したのなら、それを
聞いた中国側も素直に「日巫女」ほどの字を当てればよいものを、敢えて悪字をもって
「卑弥呼」と記しました。


その根源には、この世にあるのは我らだけ、我らこそが「世界」そのものなのだとする、
なんとも傲慢な「中華思想」が(現代もなお)あるのでしょうが、歴史的には世界には
とんと好かれていない、というよりバッチリ嫌われている悪癖です。
それはともかく、要するにその民族自身は「太陽の使い」という意味で日巫女(ヒミコ)
と呼んでいたということでしょう。


こうしたことだけではなく、この民族は後世にも少なからず太陽にこだわっていた
様子が窺えます。
たとえば豊臣秀吉(1537-1598年)は、生前「ワシは日輪の子じゃ」と主張していました。
日輪とはズバリ「太陽/お日サマ」を意味していますから、英語なら「Son of the Sun」
ってことになるのでしょうか。


またそのライバルで、秀吉亡き後にその豊臣家を滅亡に追い込んだ徳川家康(1543-
1616年)も例外ではありません。
これは死後のことですが「東照大権現」という名乗りになっています。


(権現とは)仏菩薩が衆生を救うために仮の姿をとって現われること~
と説明されていますから、要するに家康は、
~わしの人間としての姿は、衆生を救うためにとった仮の姿なのじゃ~
と主張したことになりますが、その名乗りはおそらくは皇祖神「天照」(アマテラス)
を意識したのでしょう、それに対しての幕祖神?「東照」(アヅマテラス)です。


ここで肝心なのは、皇家祖神「天照」も、また幕祖神?「東照」も、どちらも「照」で、
太陽をイメージした名称になっていることです。
ことほどさように、列島で権力を得た者たちは古今東西にわたり、すべからく
「太陽/お日サマ」を意識し続けてきたわけです。


では、そうした意識は権力者だけのものだったのか? 
いえいえ、決してそうではありません。
一般的な庶民でさえ、また太陽を意識し続けていたのです。
なんだとぅ、そんな証拠があるかってか?


ありますッ!
四角い弁当箱に白いご飯を敷き詰め、真ん中に赤い梅干を配するいわゆる
「日の丸弁当」がそれです。


世界広しといえども、これほど「日の丸弁当」を愛する民族はそうそう多くないのでは
ないでしょうか。 なんで、そこまで拘るのか? 
そんなもん「日の丸=太陽=お日サマ」だからに決まっているじゃありませんか。



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