ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

冗談?編25/征討軍頓挫の真相を探る

「和」を説き、さらには「仏教」を保護したという事跡を承知しているせいか
少なからずの人が、「聖徳太子」(574-622年)の人柄には、平和で穏やかという
イメージを持っています。
しかし反面で、政治家としての太子が厳しい「軍事的決断」を迫られる
場面に遭遇した
ことも、当然のことながら事実です。


そうした場面の一つに、いわゆる「新羅(しらぎ)征討」という出来事を挙げることが
できそうです。
ちなみに、その「征討」とは、
~背く者や逆らう者を、兵を出して討ち鎮めること~
ほどの意味合いだと説明されていますから、「征伐」とほぼほぼ同じ言葉と
受け止めてもいいのでしょう。


そんなことから、今回はその「新羅征討」に目を向けることにしたのですが、それに
ついてはこんな説明を見つけました。
~西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。
 (日本書紀によれば)これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度計画され、
 一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している~


聞き慣れない言葉ですが、その「任那(みまな)日本府」とは、
~古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関ないし外交使節。
 『日本書紀』を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆する記述がある~

とされています。


しかし、その「征討軍」がなんと三度もあったのか。
そこで、こらあたりに目を向けてみると、こんな按配だったようです。
〇第一次新羅征討
 西暦600年、任那を救援するために新羅へ出兵し、(新羅・任那)両国が倭国に
 朝貢を約させた。 しかし倭国の軍が帰国したのちには、新羅はまた任那へ侵攻した。


一旦は「原状回復」?に成功した征討軍でしたが、撤兵した途端に元の状況に戻って
しまったということのようです。 
そこで次には新しい人材を総司令官に当てるなど、ヤル気満々の体制で再度の
チャレンジです。


 聖徳太子


〇第二次計画
 西暦602年、聖徳太子の同母弟・
来目皇子(くめのみこ/生年不詳-603年)が
 征討将軍として軍2万5千を授けられ、軍を率いて筑紫国に至り屯営した。
 ところが、その来目皇子が病を得たことで新羅への進軍を延期とし、皇子は征討を
 果たせないままこの地で薨去。


簡単に言えば、総司令官がポックリ死去してしまうという思いがけないアクシデントに
見舞われて「第二次」は頓挫してしまったということです。
しかし、このようにいかにも為体の有様を演じたのでは「朝貢」を受ける立場にある
国家としての面目が立ちません。


そこで、フンドシを締め直してさらに、
〇第三次計画
 西暦603年、来目皇子の異母兄・
当麻皇子(たいまのみこ/574?-没年不詳)が
 征討将軍に任命され播磨に到着した。

この新布陣は、確かにここまではカッコ良かった。


ところが、そのすぐ後に、
~総司令官・当麻皇子は妻が薨去したために朝廷に帰還し計画は潰えた~
あっちゃー、愛妻を亡くすというアクシデントに見舞われて、いっぺんにヤル気を
失くしてしまったものか、なんと職場放棄?に及ぶというお粗末です。
で、結局この三次にわたる「新羅遠征」そのものが頓挫の憂き目にあったのです。


この「諦めのよさ」?は、現代人目線では「なんともトホホ」な光景に映ります。
しかし、この「関係者連続<急死>事件」を、先人達の信仰心は、このように
受け止めたということなのでしょう。
~こうまで不幸が度重なるのは、天が我々に自重を求めていることのサインに
 違いない~


「新羅征討」はこうしたお話の流れになっていますが、全体として何かしらスッキリ
しない印象が残るのも事実です。
ひょっとしたら歴史の「真相」は別のところにあったのかもしれないということです。 
そそこで今回は、その「真相」を追求してみることに。


さて、最初の司令官・来目皇子の死については、実際、新羅側スパイによる「暗殺」を
疑う見方もあるようです。
なにしろ「絶妙なタイミング」で発生しているのですから、一概に否定はできない
かもしれません。


しかしながら、「絶妙なタイミング」ということに着目するなら、後任司令官・
当麻皇子の「妻の死」も同様です。
何しろ遠征移動(作戦遂行)の最中の出来事ですから、これも「新羅側スパイ」による
工作だったとの見方もできなくはありません。
ところが、なぜかこちらには「スパイによる暗殺」説は主張されていないようです。


また、別の見方もあります。 たとえば、こんな見解です。
~元々、この軍事行動は「新羅遠征」自体が目的ではなく、むしろ天皇の軍事力強化が
 狙いだった~


つまり、自国の軍事力を確認(予行演習/示威行動)することが目的であって、
新羅に対しては単にハッタリをかましただけ、という解釈です。
しかしながら、これとても見方のひとつに過ぎません。


そこで、まことに僭越ではありますが、その「歴史の空白」を筆者が埋めることに
してみたのです。
肩の力を抜いて冷静に構えてみれば、自ずから「歴史の真相」?も見えてこようと
考えたからです。


〇第二次計画の総司令官・来目皇子の述懐 (筆者が想像するところ)
 ~今にして思うなら、酒盛りの折の料理がちょっとヘンだったのは確かだ。
  しかし、まさかあれほどまでに苦しもうとはなぁ・・・ほんと、トホホだった。
  苦しいばかりの症状が続き、その挙句には命まで失くしたのだから、

  「食中毒」なんて、ひとつもいいことはないゾ、いやホント~


しかし、こうした「歴史の真相」を世間に向けて正直に公表することはできません。
こんな批判が予想されるからです。
「なんだとう、遠征先で宴会をやっていたってか! たるんどる!」


そればかりではありません。
「遠征途上で食中毒を発生させるなんて、国軍としての危機管理がいかにも脆弱すぎる
 のではないかッ!」
そういう事情もあって世間向けには「急病による急死」と発表したとも考えらない
わけでもありません。

   

     来目皇子仮埋葬地 / ヘンリー王子著『SPARE』


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では、征討第三次計画の場合は?
〇後任総司令官・当麻皇子の述懐 (筆者の想像するところ)
 
~義理もあるから太子の要請をニベなく「辞退」もできなかったけど、所詮オレは
  「二番手」であり、「ピンチヒッター」で「スペア」に過ぎない立場だ・・・
  このトホホ感があっては正直モチベーションだって上がるものではないゾ!~


これは現代のお話になりますが、こうした気分はイギリス王室を離脱(2020年)し、
その後には自叙伝「SPARE」(スペア/2023年)を出版した、イギリスの王族・
ヘンリー王子(英語圏ではハリー王子)には、よく分かるのかもしれません。
蛇足ですが、その著書はなんでも100万部を超える売れ行きを見せているようです。


お話が逸れたので、日本の当麻皇子に戻ります。
モチベーションの上がらなかったその当麻皇子は、こう考えたのではないでしょうか。


~まあしかし、「家族の不幸」が理由なら、おそらくは「役職辞退」の方も
 波風立てずに認められるだろうから、よし、これでいこう!~
で、世間向けには「妻の死による忌引き」と発表。
もし筆者のこの推測が正しいのであれば、この時期に実施された「新羅遠征」には、
意外なことに、政府内部にもかなりの厭戦気分が蔓延していたことになりそうです。


ということなら、そうしたことに気がついていなかった、つまり
「周囲の空気を読み切れていなかった」聖徳太子も、かなりトホホな政治家だった
ことになるかもしれません。
う~ん、そういうことなら、ひょっとしたら「日本史」を根底から見直す必要だ
出てくるのかもダ。


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