ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

言葉編38/倭と大和と日本の誕生

筆者が生息中のこの国のグーンと昔の姿を伝えているとされるのが、いわゆる
「魏志倭人伝」です。
ただし、これだけで独立した歴史書というわけではなく、少しマニアックな説明なら、
こうなっています。


~中国の正史『三国志』のうち、『魏書』巻30の中にある一伝「烏丸鮮為卑東夷伝
 (うがんせんびとういでん)」にある倭人条の略称である~
うへぇ、メッチャややこしい説明で到底頭に残りそうもないのですが、そこはまあ
気を取り直して後を追ってみると、
~当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて
 書かれている~

なるほど、それで「魏志倭人伝」ってことになるのか。


ひとまずは感心したところで、さらに深入りしてみると、
~西晋の官僚・陳寿(233?-297年?/享年64?)により、3世紀末の280年
 (呉の滅亡)から  297年(陳寿の没年)の間)に書かれた『三国志』は、
 3世紀の日本を記した重要な史料であり、帯方郡からの道程、倭国の地理・風俗・

 産物・政治・社会や邪馬台国 (やまたいこく/やまとこく)女王・卑弥呼 (ひみこ) 、
 さらには帯方郡と魏との通交を記したもので、中国では正史として重んじられた~


ただし、下のような注記がされていることにはそれなりの留意が必要かもしれません。 
~記録には誇張や誤記がある~
つまり、「すべてがバッチリ正しい歴史記録」というわけでもないぞ、ということ
なのでしょう。


    「魏志倭人伝」


さて、その「倭」の習俗や地理までも含む広範囲を対象としていたのなら、なにも
「倭人」の条ではなく、筆者個人的には、そのタイトルも「倭民族」の条、あるいは
「倭国」の条でもよかったような気もするところです。
しかしまあ、このへんは書き手である陳寿さんのこだわりがあってのことでしょうから、
外野があれこれ言うのは筋違いかもしれません。


それはともかく、陳寿さんの時代、つまり3世紀頃の魏国は現在の日本にあたる地域の
ことを「倭」と呼んでいたことは間違いありません。
また念のために計算しておくと、倭の女王・卑弥呼(生年不明- 247年)の死は、
陳寿によるこの「三国志」執筆の数年から数十(最大50?)年以前の出来事に
なります。
えぇ、でも筆者の計算間違いってのは日常茶飯事ですから、アナタはアナタで
きちんと検算してウラを取ることをお勧めしておきます。


こうした「魏志倭人伝」の内容からすれば、おそらくはこの頃の列島民族自身も
自らのことを「倭」と認識していたのでしょう。
なにせ、とんでもなく文化文明の発達した中国からそう呼ばれたのですから
拒否権なぞあろうはずもありません。


しかし、そのうちに「倭」という文字がそれほどの佳字ではないことに気が付きます。
チビだとか従順だとか、いささか「上から目線」の感覚が込められているように
感じられるのです。
そこて、次第に同じ響きを持ち、おだやかとか仲良しを意味する「和」の字の方を
好むようになっていきました。
こちらはメッチャ気に入ったようで以後長く愛用し続けるようになります。


お気に入り具合の具体的な証拠としては、「邪馬台国」「大和国」の文字にした
ことも挙げられそうです。
よこしまの意味を持つ「邪」なんて文字では嬉しくないばかりか誇りも持てません。
しかしまあ、「大和」と書いて「やまと」と読ませるなんて、漢字の読み方ルールを
まったく無視・逸脱した傍若無人な振る舞いですが、それほどまでに「和」の字が
気に入っていたということです。


ですから、この事の列島民族少なくともその指導者たちはこんな心情を抱いていた
ことになります。
~我らは中国が言うような「倭人」なんかではありゃあせんのであって、とことんの
 「大和人」なのである~


なぜそこまで「和」の字が好きになったかといえば、その原因はまた女王・卑弥呼に
行き着くのかもしれません。 こんな記述もあるからです。
~元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が
 起こった。 そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによって

 ようやく混乱を鎮めた~


つまり、女王・卑弥呼の登場によって、我が倭国はみんなが「平和」で
「仲良し(和)」の社会を実現できた。 これはメッチャ素晴らしい出来事じゃん。
当時の「大和民族」は、ひょっとしたらこのように捉えたのかもしれません。
~「和」こそが、我らに千僧のない理想郷をもたらした~


そうした意識が大きく育ち、民族の心情として浸透していったことは当の邪馬台国から
約300年後の状況が証明しています。
この時代の人物・聖徳太子(574-622年)は、自らが取り組んだ国家指針
「十七条憲法」(604年)において、こう宣言しているのです。


~和を以て貴しとなし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ~
(和を大切にし、人と諍(いさか)いをせぬようにしなさい)

要するに、皆が仲良く(和)することが一番大切なことだと受け止める心情であり、
そんな思いから、自らの国家名も「大和」としたのでしょう。


   

 中央)聖徳太子? / 地図・日本列島


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蛇足ですが、Wikipediaの「十七条憲法」の項目を覗いてみると、こんな説明に
遭遇することになります。
~思想的には儒教を中心とし、仏教や法家の要素も織り交ぜられている~
しかし、筆者はこの説明は明らかに間違いだと思います。


なぜなら、儒教には「男尊女卑」というテッパン思想があるからです。
こんな思想の下で、この時代に女帝(第33代・推古天皇/554-628年)が誕生する
なんてことはあり得ないことで、つまりは「十七条憲法=儒教を中心」ではない、
という解釈になるわけです。


それはまあそれとして、「仲良きことが一番である」というポリシーを文字に直すなら、
すなわち「大和」ということになりますから、内向きにはこれが最高の名乗りだった
ことは間違いありません。
しかし、「外国」向けの名称として眺めるならいかにも迫力不足でした。


なぜなら、自分たち以外の民族は「仲良しが一番」なんてことは、これっぽっちも
考えていないからです。
それどころか、外国は「隙ある相手を攻め滅ぼす」ことが常識であり正義でした。
そういう環境にあれば、うかうかしていようものなら逆にたちまち「攻め滅ぼされ」て
しまうのですから、これは当然の心構えであり行動原理でした。


そこで、そういう「乱暴者」たちに対して「我々には隙なんぞありゃあせんぞ」という
対外メッセージを込めた、少しばかり威圧感を備えた名称を必要としました。
それが「日の本=日本」でした。


えぇ、世界(太陽)はわが国を中心(根本)として回っているのだ、という気宇壮大な
主張を込めた国名です。
当時の国際情勢(中国の国力)を正しく把握できていたなら、とてもじゃないが
採用が憚られたであろう国名でしたから、この辺はまったくの「怖いもの知らず」だった
ことになりそうです。


ここまできたら、ちょっとしたイタズラ心が湧いてきて、今話題のチャットGPTに
こんな質問を投げかけてみることにしました。 ご参考までに。
Q:倭と大和と日本はどう違うのですか?
すると、ご丁寧にこんな回答が。


A:「倭(やまと)」、「大和(やまと)」、「日本」は、歴史的な文脈において
  しばしば関連付けられる用語ですが、異なる時代や意味で使用されてきました。
そして、さらに詳しい説明も。


1・倭(やまと):
  「倭」とは、古代中国の史書や記録に見られる、日本列島を指す名称です。
  中国史書においては、倭国として言及されることがあり、倭王(やまとのおおきみ)
  などの呼称も存在しました。 この用語は主に日本列島を指しており、日本列島が
  中国との交流を通じて知られるようになった時期を指します。


2・大和(やまと):
  「大和」とは、古代日本において特定の地域を指す名称です。
  大和地方は現在の奈良県周辺を中心としており、古代日本の政治的・文化的な
  中心地でした。
  大和地方にある平城京(奈良市)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本の
  首都でした。
  そのため、「大和」はしばしば日本の古代の政治的・文化的な中心地を指す言葉と
  して使用されます。


3・日本:
  「日本」とは、現代の国名であり、日本列島に位置する国を指します。
  日本は歴史的にさまざまな時代を経て発展してきましたが、近代以降は日本国と

  して知られるようになりました。
  日本国は、日本列島全体を管轄し、現代の国際的な文脈で用いられる名称です。


これらの用語は歴史的な経緯や文脈によって異なる意味を持っていますが、全て日本に
関連する言葉です。


なるほどねぇ、自分でイチイチ調べてまわしているよりは、グ-ンと手早く一定の
回答に行き着けることを再確認した次第です。


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