ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

列伝編22/僧衣者の自分の性の示し方

今回のお話は少し性が絡んだ話題になっていますので、年端もいかぬ皆サンの閲覧に
ついては、保護者各位においての管理監督をお願いしておきます。
では何歳以上なら自由なのか、という御相談もあるかもしれませんが、正直そこまで
粘らなければならないほど濃い内容でもありませんのでご安心ください。


と一応の御断りを入れ、では本題に。
さて、最近の細かな定義までは十分な理解に及んでいませんが、男女の性別判定に
ついては、従来は「ナニ」を目視確認することが一番確実な方法とされていました。


えぇ、いわゆる「ナイちんゲール」が女性なら、男性は「アルちんゲール」という
ことです。
そして案の定ですが、歴史にもそのことにまつわる面白可笑しいエピソードが
少なからず残されています。


たとえば、こんな具合です。
このお話は、鎌倉時代初期の中流貴族・源顕兼(1160-1215年)の手による説話集
「古事談」に紹介されているそうで、そこには随筆「枕草紙」の作者として有名な
平安時代の女性・清少納言(966頃-1025年頃)が登場しています。


もっとも「有名な清少納言」といっても、それは「枕草紙の作者」として有名なので
あって、その経歴についてはあまりよく知られていません。
こんな具合です。
~生没年未詳。平安時代中期の歌人、随筆家。
 966年のころ生まれて1025年のころ没したと推測されている~


 清少納言


折角の機会ですから、知られている範囲でそのプロフィールも紹介しておきましょう。
~父は歌人清原元輔(908―990年)であるが、母は明らかでない。
 清原氏には和歌や漢学に精通した者も多く、恵まれた環境下に成人し、981年のころ
 陸奥守橘則光と結婚し、則長をもうけたが離別した。
 また、父・元輔は990年に肥後守として83歳で任地に没した~


こんなことも案内されています。
~清少納言の清は清原氏を意味するが、なぜ少納言とよばれるかは明らかでない~
それに続いて、
~993年に一条天皇の中宮・定子のもとに出仕し、約10年間の女房生活を送った~


さて、その清少納言の著作「枕草子」にはこんな一節があるそうです。
~すさまじきもの、除目に司得ぬ人の家~
要するに、除目(地方官任命)されなかった家は落胆ムード一色に染まってしまい、
さすがに興ざめしちゃう、と言っているわけです。


自分の父親・清原元輔は83歳という超高齢になるまで、というより「死亡定年」?を
迎えるまで「地方官」を務め続けたのですから、これは清少納言自身の実体験を経た
リアルな感想と言えるかもしれません。


そこまではともかくとして、続く案内はこうなっています。
~(約10年間の女房生活の)その後の動静は明らかでなく、晩年は京に隠棲し、
 宮仕え時代と比べると寂しい生活を送ったが、零落し放浪したという~

早い話が、悠々自適の晩年ではなかったようだ、ということのようです。


その有名な?著書「枕草子」についても、
~1001年頃にはだいたい完成していたとされる~というだけで、このこともまた
詳しくは分かってはいないようです。
しかし時期的には、ライバル?紫式部(生没年不詳)の長編小説「源氏物語」の誕生と
どっこいどっこいだったイメージになりそうです。


また、随筆「枕草子」のタイトルにある「枕」を、筆者自身はこれまで長い間、
ずーっと寝具の枕だとばかり思い込んでいました。
だって、明治の文豪・夏目漱石(1867-1916年)の小説のタイトルにもなっている
「草枕」が、~道の辺の草を枕にして寝る意~と説明されているのですから、
そう勘違いしても、仕方のないような気もするところです。


ところがギッチョン! 事実は小説より奇なり!
「枕草子」の「枕」については、こんな説明になっているのです。
~寝具の枕ではなく、「歌枕」(歌語辞典)、「枕頭書」(座右の備忘録)、
 「枕中書」(宮仕え必携)などの書物を意味するようだが、定説はない~

そうは言ってみるものの、実のところはよくは分からんということのようです。


さて、お話はこうです。
その清少納言の兄である清原致信(生年不肖-1017年)が、二十名ほどの騎兵・歩兵に
館を襲撃された時(1017年)のことです。
実はこの時、すでに出家していた清少納言もこの館にいて、この騒動に巻き込まれて
しまったのです。


なにしろ兄・致信を標的にしての「襲撃」ですから、賊側も殺気立っています。
ヒョッコリ手違いがあろうものなら、家内の者にも危険が及びかねません。
この時、とうに五十歳を超えて老齢?の域に達していた清少納言でしたが、さすがに
焦りました。


この時の清少納言の身なりといえば、出家の身ですから、おそらくはかつての雅な
宮廷衣装とは無縁な、質素極まりない僧衣をまとっていたでしょうし、髪型だって
おそらくは出家女性らしい「尼削ぎ」程度のものだったでしょう。


ちなみに、「尼削ぎ」とはこんな髪型をいうのだそうです。
~平安貴族の女性は出家して尼となる際も大抵は丸刈りにせず、髪を伸ばしかけの
 少年少女のように髪を肩の辺りで切り揃えた~


つまり、長い髪をことさら大事にしたこの時代においては、この時の清少納言は、
一般女性らしからぬ髪型と、おそらくは僧衣という一般女性らしからぬ服装をして
いたわけで、
~あわわわ・・・うっかり「男」に見間違えられようものならワタシの命もありゃあ
 せんぞッ!~ 


そこで、清少納言は
~とっさに裾をまくり上げるや、「ナニ」を晒して男ではないことを相手に納得?させ、
 この難を逃れた~


さすがに面白すぎるお話にも感じられますが、人生の大ピンチ?に直面しては、
「恥ずかしい」とか「はしたない」とかの贅沢は言ってはおられません。
とにもかくにも全知全能を傾けて「女であることを証明」したということなのでしょう。
実際、この襲撃によって「男である」兄・致信は殺されていますから、清少納言の
心配は決して杞憂ではなかったことになります。


しかし「男女の別」を間違えられて迷惑を蒙るのは、何も女性に限ったことではない
でしょう。
男性についてそうしたお話があってもなんら不思議ではないということです。
そこで、探してみると・・・やっぱり、あるものですねえ。


今度のお話の主は、洒脱な絵画「〇△⊡図」、あるいは
~よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう~などの狂歌でも
知られる江戸時代の禅僧・仙厓義梵(せんがい・ぎぼん/1750-1837年)で、
よく似たエピソードをお持ちでした。
ただし当然ですが、こちらは「女と間違えられた」というお話になっています。


 

    (仙厓義梵)「〇△⊡」 / 「ゆばり(尿)合戦図」


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さて、その仙厓が江戸から博多への帰途、箱根の関所にさしかかったと思ってください。 
どう見間違えたものか、番所の役人が仙厓にこう問いただしたのです。
~お主ッ、もしや尼僧ではあるまいなッ、面を上げいッ!~


まあ番所の役人にすれば、「入り鉄砲に出女」という、当時の危機管理意識が働いての
尋問だったのでしょうが、先の清少納言の場合と同様で、僧衣姿では「男女の判別」が
困難だったということでしょう。
~はい、尼僧ではありません、歴とした男僧?です~


素直にこれくらいの返事をしておけばいいものを、仙厓はそうはせず、無言のまま、
いきなり衣の裾をたくし上げるや、股間の「ナニ」を突き出して「男であることの証明」
に及んだのです。
これには、役人もさすがの度肝を抜かれたのか唖然呆然・・・仙厓は当然とばかりに
悠々と関所を通過したとか。


つまり、歴史は次の「真実」を示していることになります。
~女性(清少納言)の場合にせよ、男性(仙厓義梵)の場合にせよ「男女の性別証明」
 は、ああじゃこうじゃの説明より、「ナニ」を目視確認させるのが最も説得力が
 ある方法である~


ただし、これは、社会の性の仕組みがシンプルだった「昔」だからこそ通用した
法則?だったかもしれません。
なぜなら、現代は「同性婚」とか「性別違和(性同一性障害)」など、新しい概念も
登場・定着し始めたこともあって、清少納言や仙厓義梵などの時代に比べて遥かに
複雑な「性構造」になっているからです。


筆者などは「LGBT」という言葉の意味合いを承知するだけでも結構な時間がかかって
しまいましたし、また清少納言や仙厓義梵などがしたように、
「前をまくって性別確認させる」という方法も、現代では必ずしも通用しないことも
知りました。
「体の性」もあれば「心の性」もあり、それは必ずしも一致しない場合もあるとの
説明だからです。


こうしたレベルのお話は正直なところ、筆者などはいささか難解で十分な理解にまでは
達していないようです。
そう言えば、先日コンビニ店のトイレを拝借した折には、一瞬戸惑うという経験も
しました。


なぜなら、目的の場所へ進むと、なんと三つの入口ドアがあり、そのそれぞれには、
「男マーク/女マーク/男女マーク」が示されていたからです。
~ええっ、自分はいったいどのマークのドアに入ればいいの?~
一瞬のことでしたが、頭をフル活動させる必要に迫られたのです。
幸いなことに、普通に「男マーク」のドアを選択したことは正解だったようです。


さて、何らの前兆もなくお話をワープさせますが、少し昔にこんな問題提起をした
女性がいたことを思い出しました。
~「女」とは、「男」があって、それに次ぐ(二番目の)性なのか?~
このテーマを著作「第二の性」(1949年)で取り上げたフランスの哲学者
シモーヌ・ド・ボーヴォワール女史(1908-1986年)です。


しかしながら、これ以降の性意識の変化には、実際目を見張るほどの激動があって、
「第二の性」どころか、いまや「第三の性」?とか「第四の性」?ひょっとしたら
この後はそれらも超えて、さらに複雑でさらに新らしい性概念が多数登場することに
なっていくのでしょう。
筆者などにとって、それはそれこそ「カオス」世界に他ならず、正直なところ
アップアップです。


う~ん、そうしたことを思うと、単に「前をまくれば一目瞭然!」で、性別(男女)を
証明できた、この清少納言サンや仙厓義梵サンの時代がなにやら「古き良き時代」に
思えてくるなあ。


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