ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

ライバル編13/三里七里十里の渡しの風景

またまた今回も筆者の生息地・尾張熱田の話題になってしまいますが、決して悪意が
あってのことではありませんので、そのへんはどうぞ良しなにご理解をお願いします。


さて、今回は江戸・日本橋から京・三条大橋に至る、いわゆる「東海道五十三次」
ついての話題を取り上げました。
出発地の江戸・日本橋を起点とし、次の品川宿を最初として、目的地である
京・三条大橋の、その一つ手前の大津宿までの間にある全部で53地点の宿場を
「東海道五十三次」と呼びました。


この場合の「次」とは、伝馬の「連絡/継ぎ」作業からきていることは前回記事でも
触れた通りです。
さて、その「東海道五十三次」は、尾張国から伊勢国へ向かうには江戸から、
近い順なら「40鳴海宿」→「41宮宿」→「42桑名宿」→「43四日市宿」となって
いました。


そして、ここ旅程の「唯一の海路」として有名なのが、「41宮宿」(尾張国熱田)と
「42桑名宿」(伊勢国桑名)を船(海路)で結んだ、いわゆる「七里の渡し」です。
えぇ、この場所は地元生息者である筆者のお気に入りのお散歩コースのひとつにも
なっているのですが、それはともかく、別にも桑名の渡し/熱田の渡し/宮の渡し/
間遠の渡し
、などの名でも呼ばれたとされています。


 

「七里の渡し」航路/ 陸地沿い&沖廻り


海路での移動距離が約“七里”(27㎞)というところから「七里の渡し」と呼ばれ
ましたが、ただしこれは満潮時における「陸地沿い航路」の場合の距離であり、
干潮時の「沖廻り航路」ともなると、実際にはその航海距離は約10里(39㎞)にも
なったようです。 ちなみにその所要時間は4時間ほど。
ただしこれは「何事もなければ」との条件付きだとされています。


エンジン(動力)も設備されていない小さな船での、なかばお天気まかせの航海という
ことになりますから、実際にはむしろ「予定通り」に運航できたことの方が少なかった
かもしれません。
ただ、このような説明だと、尾張国→伊勢国への移動は、この「七里の渡し」が
オンリーワンだったように思い込みがちです。


しかしながら、旅人全員がこのコースを歓迎し利用したわけではありません。
なぜなら、旅人はこんなデメリットもきっちり認識していたからです。
〇海路のため、しばしば海難事故を生じていたこと。
〇天候頼りのため、出発・到着時間が読めないこと。
〇船が小さいため、船酔いを嫌う旅人も結構多かったこと。
〇泳げない不安から、海上往来を嫌う旅人もいたこと。
〇乗船中のトイレ事情に心配を覚える旅人もいたこと。


「順調なら数時間」の乗船とはなっているものの、無寄港航海が原則ですから、
旅人がこうした事情・不安を抱えることは避けられません。
そうしたこともあって、実はこの「七里の渡し」以外のコースも存在していたのです。 


その一つがこれ。
「41宮宿」から、陸路(佐屋街道)で西へ向かって「佐屋宿」へ入り、そこから佐屋川・
木曽川を利用して「42桑名宿」に到るコース。
これがいわゆる「三里の渡し」(佐屋の渡し)です。
この、コースは「七里の渡し」に比べて、水上の旅程は短くなるものの、陸路を
迂回する形になる分だけ、実際には遠回りになりました。


しかし、渡し船の距離が短い分だけ上に挙げたようなリスクを小さくできることが
メリットです。
そうしたこともあって、道中の物騒を避けたい女性たちなどにも結構人気が高かったと
されています。
また、物見遊山を兼ねた旅人にとっては、陸路をテクテク歩く途中に観光スポット?
津島神社を参詣できることも嬉しいことでした。


ちなみに、その「津島神社」はこんな説明になっています。
~東海地方を中心に全国に約3000社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を
 津島信仰という。 中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、
 牛頭天王を祭神としていた。 東海道名所図会に、津島牛頭天王と記載される~


「津島信仰」なんて言葉があったようですから、それだけの格式を備えた神社だった
ようです。 話のついでですから、「牛頭天王」にも触れておきましょう。
牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。
 釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。
 蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの
 本地ともされた~


なにやら、あれこれいろいろなご利益がまとめて得られる印象になっていますから、
旅人にもそれなりの人気があったのかもしれません。


   

   尾張・宮宿|七里の渡し|伊勢・桑名宿


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では「尾張国」→「伊勢国」の経路は、これら「七里に渡し」「三里の渡し」
二つだけだったのか。
いいえ実はこの他にも、現代鉄道でいうなら「超特急」?もどきの方法もありました。
まあ、SF言葉ならさしずめ「ワープ航路」といった感じでしょうか。


それは、「41宮宿」までは同じですが、ここから先を各駅停車?することなく、
渡し船で一気に「43四日市宿」を目指すコースでした。
その距離をもって、これを「十里の渡し」と呼びました。


この方法だと「41宮宿」から、否応なくダイレクトに「43四日市宿」へ到着します。
つまり、「42桑名宿」から「43四日市宿」間の約12.5Kmの陸路テクテク歩きを
省略することができるわけで、旅も時間短縮になりますから、いうなれば超特急?に
乗った感じです。


ということは、多忙な人やビジネスマン?たちにも多く利用されたことが推測されます。
ただ、大名の参勤交代などの由緒や格式に拘る移動については、「41宮宿」経由を
採用することが多かったようです。
あまりセカセカした移動ぶりでは、大名としての矜持・威厳が保てないという理由が
あったのかもしれません。


「武士は食わねど高楊枝」ということです。
ですから、中には「ヤセ我慢」で、イヤイヤながらこのコースを採った大名もいたこと
でしょう。
しかし、一般人にすれば、「超特急」?に乗れば、ダイレクトに「43四日市宿」へ
到着できるわけですから、この魅力には捨て難いものがあったことも事実のようです。


実際「関ケ原の戦い」(1600年)の直前に、「上杉(景勝)征伐」に乗り出した
徳川家康(1543-1616年)も、その折りにはこの航路を使用したとされています。
ということなら、「神君がお使いなった由緒あるコース」ということになりますから、
「43四日市宿」は当然ながら、こうしたことを世間に向けて自慢気に吹聴します。
今風ならPRに努めたということです。


しかし、こちらの「十里の渡し」が人気を集めるということは、コース外れの形になる
あちらの「42桑名宿」からすれば、その分お客を奪われることを意味します。
そうなると、指をくわえて黙って見ているわけにもいきません。


かと言って、「42桑名宿」からああじゃこうじゃと言われることは、「43四日市宿」から
すれば、面白くありません。
~そんなもん、「42桑名宿」の企業努力が足りんだけの話だがや~


両者の言い合いは遂には訴訟合戦?にまで発展したとされています。
「42桑名宿」の言い分。
~お大名各位様の参勤交代にもご利用いただいている「七里の渡し」こそが由緒ある
 正式のルートで、すなわち「42桑名宿」こそが真っ当な港であり、真っ当な宿場

 なのであるッ!~


これに対して、「43四日市宿」の言い分。
~何をおっしゃる桑名サン、“本能寺の変”(1580年)の折、伊賀越えを決行された
 神君・家康公が海を渡られたのは、この四日市からでっせ。
 つまり、由緒ということならこちらにあるッ!~

ただし、この際の神君・家康の経路には津、鈴鹿、四日市などの諸説があるようですが。


双方の言い分は次第にエスカレートしていきました。
実際1742年には「42桑名宿」から道中奉行に宛てて、こんな願書が提出されたようです。


~確かに、公用及びお大名各位様には私ども「42桑名宿」(七里の渡し)をご愛顧
 いただいてはおりますが、多忙なビジネスマンを初めとして一般庶民も少なからず
 「43四日市宿」(十里の渡し)を利用する現状では、私どもの商売はあがったりで
 ございます・・・つきましては、なにとぞよろしくご指導のほどを~


今の言葉なら、「陳情」?「ロビー活動」?ということになるのでしょうか。
この顛末がどうなったものか詳しくは存じませんが、江戸幕府が終焉を迎えるとともに、
すなわち明治時代に入ると、いずれの「渡し」も廃止に追い込まれていきました。


1872年、熱田・桑名間に新東海道が定められた後には「七里の渡し」も「三里の渡し」
も寂れ、やがて廃止となり、またその後しばらく続いた「十里の渡し」も、結局は
廃止に追い込まれました。
「渡し」が担ってきた、いわゆる「時代的役割」を終えたということになるのでしょうか。


そういうこともあって、ここで今度は筆者自らが担ってきた「時代的役割」の方も
振り返ってみたのです。
ところがこちらの方は済んだ、済まないという問題ではなく、単に「そんなものは
ハナから無かった」という結論に。 まったく、トホホのホの思いです。


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