付録編23/地元再発見のプチプチ船旅
去る11月19日の日曜日のこと、筆者の生息地である名古屋市熱田区において
恒例のイベントが開催されました。
その名称は~あったか!あつた魅力発見市2023~
おそらくは地域名称「熱田」の韻を踏んで「あったか!あつた」としたのでしょうが、
ダジャレの域を脱していないという辛辣な感想もあるにはあったようです。
実際この舌を噛みそうな名称に挑んで自滅した律義なガイドさんもいたとか、
いなかったとか。
それはともかく、このイベント内容はタイトルに負けず劣らずその盛りだくさんで、
「各種マルシェ」(テントでの物品販売)を初めとして、紅葉の名所「白鳥庭園」の
無料開庭、熱田神宮の特別ガイドツアー、さらには熱田区内の徒歩ルートなども
実施され、そればかりでなく参加者の場所移動の便宜を計らって、公共交通機関の
最寄り駅までの無料送迎シャトルバスまで用意されました。
その意味ではそこそこに気合の入った地元紹介イベントと言えるのかもしれません。
そうした催事の一つに「水上交通(座敷船)」がありました。
名古屋市のほぼ中央部分を南北に走る「堀川」の熱田区部分の、そのまたごくごく
一部分(北行き・南行きの二通りのコース)を史跡ガイド付きの船旅で楽しもうと
いうものです。
いずれのコースも距離にして2Kmほど、時間にすれが15分ほどで、念のために
料金もお知らせしておくなら「1区間350円(小学生以上)」となっていました。
筆者はひょんな幸運からこの「座敷船」に乗る機会を得たのです。
東海道五十三次「宮宿」/七里の渡し跡
そこで、今回はその約2Km15分の船旅を振り返ってみることにしました。
まずは船を航行させる「堀川」についてのウンチクから始めましょう。
それについて、早速ボランティア・ガイドさんの説明が。
~今から400年以上前の江戸時代初めの1610年、徳川家康の命による名古屋城築城に
当たり、福島正則を普請奉行として開削されたのが始まりで、名古屋城西地域から
熱田(宮の渡し)まで延長約6キロの堀川が誕生しました~
ちなみに、この福島正則(1561-1624年)とは、豊臣秀吉(1537-1598年)の
子飼いであり、その没後には徳川家康(1543-1616年)の家臣となった武将です。
血縁的には秀吉の従弟(母同士が姉妹)に当たっています。
そうしたこと予備知識を得た上で、さあ「七里の渡し/宮の渡し」から、
その堀川を北へ上って行きます。
この「七里の渡し/宮の渡し」は、東海道のここ「宮宿」(愛知県)から次の
宿場町「桑名宿」(三重県)を船で結ぶ東海道唯一の海路です。
同乗したボランティア・ガイドさんは、「七里=約28 Km」ということにも触れて
いました。
それがないと七里という距離の感覚が若い方たちに伝わないかもしれないという
老婆(爺)心からかもしれません。
ただ「七里の渡し」の現場に立った人の中には、こんな疑問を感じる人もいたようです。
~海から結構離れたこんな場所に、当時の人は何で「渡し場」を設けたの?~
これに対するボランティアの回答はこうでした。
~なにをおっしゃるウサギさん。
当時は、この目の前がまさに海そのもの「伊勢湾」だったのです~
確かなエビデンス(証拠)を示さないことには、俄かには信じられないってか。
~それなら、その点のも触れながら少しお話しましょう。
(出航後間もなく)さて東岸側が公園になっています。
樹木に隠れて船からは見えないのですが、実はこの公園内に当時の
「熱田魚問屋」の一部分が移築されてモニュメントになっているのです~
江戸時代には、この地域の漁業がメッチャ盛んだったことにも触れていきます。
〇当時は目の前が伊勢湾であり、そこでは大量の魚が獲れた/→豊饒の海
〇宮宿の旅籠や料亭また名古屋城下など、足元に大消費地があった/→地産地消
〇尾張藩も漁業を保護した/→官民一体
・・・などがその理由として説明されました。
~もっとも戦災のため、戦後になってここより少し北の
「名古屋市中央卸売市場(しじょう)本場(ほんじょう)」に移転されました~
プチプチ船旅(秀吉丸) / ヤマトタケル(日本武尊)
さて、今度は西岸プロムナードです。
~モニュメント本体の高さが控え目なため、船上からは少し見えにくいのが
残念ですが、ここに設置されているのが「熱田空襲モニュメント」です。
昭和の戦争における、1945(昭和20)年6月9日朝のいわゆる「熱田空襲」で、
当時の堤防コンクリートの表面に残された爆弾跡の一部がそのままモニュメントと
して保存されています~
なんで、この地域が空襲の標的にされたのかしらん。
~当時この周辺には「愛知時計/愛知航空機/住友金属工業」など、数多くの
軍需工場があったために、アメリカ軍爆撃機の集中攻撃を浴びました。
その結果、工場従業員や動員学徒、さらには周辺住民など、合わせて約2,000人が
死亡し、重軽傷者は約3,000人にのぼったとも伝えられています~
ちなみに、城郭として国宝第一号に指定された戦前の「名古屋城」の本丸御殿・
大天守・小天守などが焼失したのは、同じ年1945(昭和20)年5月14日の、いわゆる
「名古屋大空襲」でした。
何しろそれまでは「(城郭部門の)国宝第一号」だったというプライドもあってか、
地元・名古屋では、最近になってその「木造再建計画」が話題に取り上げられることも
多くなっています。
さて、船がもう少し北上し、その東岸側に目を向けると、
~あちらに見える森がある場所が「白鳥古墳」別名「白鳥御陵」です。
「御陵」というのは簡単に言えば天皇家のお墓ということですから、
それもあってか長い間、「ヤマトタケル(日本武尊)」のお墓とされてきました~
でも、ヤマトタケルがなんで熱田の地へ?
~ヤマトタケルは能褒野(ノボノ/三重県鈴鹿~亀山の台地の古称)という土地で
亡くなって、白い鳥となってこの地に帰ってきたったという伝承もあってのこと
でしたが、ただ現在では、当時この地方を支配していた豪族の墓ではないかと
されています~
ちなみに、調べてみると父は第12代・景行天皇、息子は第14代・仲哀天皇と
いう血筋にありながら、なぜかヤマトタケル本人は天皇になれず、その間の
第13代にはタケルの弟が成務天皇として就いています。
その理由については「切れやすい性格が災いした」と推測する人もいます。
実は筆者です。
それはさておき、一般的には「白鳥」の読み方には「しろとり/しらとり」の二通りが
ありますが、最近になって熱田区は正式な呼び方を「しろとり」としたようです。
そのために「しらとり」となったままの従来案内板なども新たに書き改めている
そうで、なんともお堅いことで恐縮です。
さて、今度はまたまた西岸側です。
~堤防が一部分途切れているこちらの場所は、材木を出し入れする際に水の量を調節
するために開け閉めした水門でした。
2001(平成13)年の堤防護岸工事の際に、これまで水面下に隠れていた、
この水門の石垣が見つかり、これが江戸時代のものと推定され保存されることに
なりました~
このあたり一帯は「名古屋国際会議場」から南に続く「白鳥公園」であり、
かつての「白鳥貯木場」の跡地の一部は、現在「太夫堀」と名付けられた小さな池に
なっています。
ちなみに、その「太夫」とは芸能人・遊女などの称号である「太夫」ではなく、
名古屋城築城の際の普請奉行・福島左衛門太夫正則の名乗りから頂戴したということです。
ボランティア・ガイドさんの説明は続きます。
~この場所は、当初は名古屋城建設のための資材置き場とされ、その後は尾張藩の
一時集積場として大規模な貯木場となり、明治以後も継続して使われていました。
ただ1959(昭和34)の「伊勢湾台風」において、ここに集められた材木が大量に
流れ出して大きな被害を招いたことや、またその後には材木需要の減少していった
こともあって、現在は貯木場としての機能は名古屋港西の貯木場、通称「木材港」へ
移転しています~
そして国際会議場脇の船着場へ無事到着することで、約2Km15分の船旅が終了しました。
折角ですから乗り込んだ船にもちょっと触れておくと、「秀吉」という船名の屋形船で、
定員は乗組員ともで30人ということでした。
お天気にも恵まれてまさに絶好の「船旅日和」でしたから結構盛況な様子に
なりました。
親子連れで小さな子供が参加しているパターンも少なからずありましたから、
この「船旅」を機会としてこの地、筆者の生息地でもある熱田に関心をもって
貰えたのであれば、このイベントにもそれなりの意義があったことになりそうです。
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