ヤジ馬の日本史

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例外編11/権現様の血を引く幼女天皇

何の因果か片付け作業に手を出したまでは良かったのですが、こんな場面で棚の
隅っこからひょっこり文庫本が姿を現しました。
ひっくり返してタイトルをあらためてみると、恐ろしいことに、それは十年以上も
前に出版された小石房子著『日本史有名事件の女50人』(新人物文庫)でした。


一息つくつもりで、なにげにページを繰ったら、目に飛び込んできたのが、こんな
文章だったのです。
~信長は天下統一のために朝廷を利用し、秀吉は関白政権を維持するために
 朝廷の権威を大事にしたが、家康は朝廷の権威を幕府の中に取り込もうと計った~


ここに登場している信長・秀吉・家康とは、もちろん「三英傑」の呼び名でも
知られている以下のメンバーです。
併せてそれぞれの朝廷との関わりをメモしてみるなら、ざっとこんな感じになるので
しょうか。


織田信長(1534-1580年)/
 石山合戦(1570-1580年)において、最終的には第106代・正親町天皇の勅命を受け、
 浄土真宗本願寺もついに抵抗を断念して信長との和睦に応じた。


豊臣秀吉(1537-1598年)/
 朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争いに介入し、近衛前久の猶子となり、
 1585年7月11日には関白宣下を受け、翌年には正親町天皇から豊臣の姓を賜った。


徳川家康(1543-1616年)/
 1603年、第107代・後陽成天皇から征夷大将軍に任命されて幕府を開く。


 

   織田信長 / 豊臣秀吉 / 徳川家康


ここまでは特段の問題は感じませんでした。
ところが、次の文章はいまいちピンとこなかったのです。
~家康は朝廷の権威を幕府の中に取り込もうと計った~
そこで、片付け作業の方は開店休業として、その辺りついてちょっと深入りしてみる
ことにしたのです。 えぇ、正直思わしくない運びです。


すると、家康にはこんな思惑・経緯があったとされていました。
~関ケ原の合戦の翌年、京都所司代をおいて、朝廷の見張りを固めた家康は、
 慶長十八年(1613)には
『公家諸法度』五箇条を出し、さらに二年後、大坂の陣で
 豊臣氏を倒すと
『禁中并(並)公家諸法度』十七箇条を出して、朝廷を法度で
 がんじがらめに縛りあげた~


なるほど、朝廷に対して家康はかなり高飛車な姿勢を示したわけだ。
確かにそれは朝廷を威圧することであるには違いありませんが、しかし
「取り込もうとする」行動だとは必ずしも言えません。


さらにはこんな文面が続いていました。
~そのうえ平清盛は(娘の)徳子を入内させ、(源)頼朝が(娘の)大姫の入内を
 企てたように、家康も九歳になる孫娘和子(まさこ)の入内を決めたのである。
 相手は家康が即位を助けた(第108代)
後水尾天皇であった~


おうおう、これならバッチリ「朝廷取り込み工作」といえそうです。
でもその先は? すると、こんな説明が続いていました。
~和子の入内が決まった翌年に家康は没し、後水尾天皇の父後陽成院もつづいて
 世を去り、四年後の元和六年(1620)六月十八日、公武和合の名のもとに和子は
 輿入れをした~


その機会をとらえたものでしょう、こんな展開を見せたのです。
~この輿入れには、御付武家といって徳川の家臣が大勢宮廷に入り込み、こと細かに
 朝廷の干渉をした。
 そんな中で、和子は
興子(おきこ)内親王を生み、女御から中宮となった~


女御と中宮とはどんな違いがあるの?
~天皇の寝所に侍する女性の地位で、高位の順に皇后・中宮・女御・更衣~
つまり和子は「興子内親王」を生んだことで「一階級特進」を得たということの
ようです。


また、和子中宮は家康の孫娘ですから、後水尾天皇の娘「興子内親王」は家康から
したら「曽孫娘」ということになります。
そうした状況にあって、思いもよらぬ大事件が勃発したのです。


~だが公武の和合は長つづきしなかった。
 二条城行幸の翌年、幕府のきびしい締めつけの後水尾天皇は反発し、遂に
 紫衣事件が起こった~


なんですか、その「紫衣」って?
~紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。
 僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった~


そして「紫衣事件」とはこんな経緯でした。
~寛永四年(1627)、天皇が幕府の法度を無視して出していた高僧に対する
 紫衣着用勅許の綸旨を、江戸幕府が無効であるとした事件~


要するに、朝廷が決定したことを幕府がひっくり返したということになりますから、
はっきり~朝廷に対する幕府の優越を示した事件~ということになります。
それだけでなく、「紫衣着用勅許」は朝廷の専権事項であるとの見解を示した
僧にまで幕府は処罰を下したのです。


後水尾天皇は怒り狂いました。 そりゃあそうでしょうね。
朝廷の専権事項である「紫衣着用勅許」に、幕府が口出ししたばかりか、
朝廷の決定をチャラにしたのですからねぇ。
で、怒り狂ってどうしたの?


~後水尾天皇はこの処置を腹に据えかね、七歳になる興子内親王に皇位を譲り、
 さっさと仙洞(せんとう)御所に引き移った。
 和子も仙洞御所ととなり合った女院御所に移り、
東福門院となって、以後
 五十年間の女院時代をすごすことになる~


   

   後水尾天皇(父) / (娘)明正天皇


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さて、その女院とは、
~朝廷から「院」または「門院」の称号を与えられた女性。
 これを受けるのは天皇の生母・准母・三后・女御その他の後宮・内親王などで
 待遇は上皇に準じた~

その点、和子は「天皇の生母」ですから、バッチリ有資格者ということになります。


それにしても、いきなり退位を実行したのですから、これはかなり思い切った決断です。
では皇位を譲られた興子内親王自身はどうなったのか?
その後、第109代「明正(めいしょう)天皇」として1629-1643年の間在位しました。


ですから、明正新天皇はこんな血筋位置にあったことになります。
~(明正天皇は)現職(第三代)将軍徳川家光の姪にあたり、第四代徳川家綱
 (1641-1680年)、第五代徳川綱吉(家綱の弟/1646-1709年)の母方の従姉
 (に当たっただけでなく)、徳川将軍家、ひいては三大幕府の将軍家を外戚とした
 唯一の天皇である~


そればかりではありません。
~女子の即位は男子の不在(夭逝)によるものであり、奈良時代の(第48代)
 
称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇であった~
ですから、その血縁関係といい、メッチャ久々の女性天皇であることなど、
日本史の上でも非常に「例外的」な存在になったわけです。


こうしたことも、元をたどれば、
~家康も九歳になる孫娘和子(まさこ)の入内を決めたのである~
このことに行き着き、全体の動きとしては、
~家康は朝廷の権威を幕府の中に取り込もうと計った~
ことになるのは間違いなさそうです。


その後の事態は以下のように推移しました。
~ただ、明正天皇の在位中は父の後水尾上皇による院政が敷かれ、女帝と
 いえども朝廷における実権を持つことはなかったとされる~
朝廷全体を差配するには、余りにも若すぎたということなのでしょう。


そして、15年後に天皇の位を弟(第109代・後光明天皇)に譲っています。
あれッなんで、折角の皇位を自分の子に譲らなかったの?
~「女帝は即位後、独身を通さなくてはいけない」という不文律があったため、
 生涯結婚することなく(のちに出家して太上法皇となり)74歳でこの世を去った~


さて、その「家康曽孫娘でもあった幼少天皇」の諡号「明正」は、古く
第43代・元明天皇(661-721年)と、その娘である次の第44代・元正天皇
(680-748年)の諡名から一文字づつ採ったものとされています。


実はその元正女帝こそ、
~それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、
 結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇~
だったのです。


さてお話は今回の発端に戻りますが、ここまで来て一つの人生教訓を得たことに
気が付きました。 ~片付け作業中に本を開くなぞは愚の骨頂!~ 
で結局、日を改めて片付作業に再挑戦するはめに・・・トホホのホ。


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