ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

謎解き編36/御落胤の噂をあれこれ詮索

唐突な話題で恐縮ですが、いわゆる「天一坊事件」の経緯を簡単に示すなら
以下のような説明になるようです。
~江戸時代中期、山伏の天一坊改行が、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の落胤を
 称して浪人を集め、捕らえられ獄門になった事件~


ここに登場している文言にも少し触れておくなら、こうなります。
〇天一坊改行(1699-1729年)/御落胤を自称して浪人を集めたことで逮捕・処刑。
〇徳川吉宗(1684-1751年)/御三家・紀州藩出身の第八代将軍。
〇落胤/私生児のこと。 歴史上では高貴な人物の出自を指すことも多い。
〇獄門/斬罪に処せられた囚人の首を獄屋の門などに晒すこと。 
    (筆者には、猟奇的であまり気色の良い刑とは思えない)


しかし、一介の山伏が「自分は将軍の御落胤である」と主張したところで、そんな
ウソはすぐさまバレそうなものです。
ところが、この場合はそうでもなかったようなのです。


~きわめて重大事であると判断した事件担当者は、早速のこと上司・勘定奉行に報告し、
 また、その報告はさらに老中を通じて吉宗に伝えられた~
ところが、当の吉宗の回答はこうだったとされているのが、その理由です。 


「そんなことは全然身に覚えがないッ・・・こともない・・・かもしれない」
元々身体壮健で人柄剛毅な吉宗でしたから、紀州時代の女性関係も少なくなく、
とても全部は憶えていなかったということなのでしょう。


そうなると、御落胤の話が事実である可能性もあることになります。
そのため、取調当局はすぐに天一坊を捕らえることはせずに、時間をかけて慎重に
調べることにしたようです。 
今風に言うなら「泳がせていた」というところでしょうか。
そうした経緯があった末に冒頭の顛末を辿ったわけです。


   自称御落胤/天一坊改行


しかし考えてみれば、将軍にもいたとしたなら、天皇にその「御落胤」がいても
てんで不思議なことではありません。
そこで今回、そうした「(天皇経験者の)御落胤容疑者」?を探してみることにした

わけです。 独断専行の段取りでまことに申し訳ありません。


そこで、念のためにWikipediaを参照することから始めてみると、それなり数の名が
挙げられていて、これはちょっとした驚きでした。
今回は、その内でも筆者がその名を知っている人に限る形で、少し追ってみることに
しました。


すると、こんな具合です。
以下、一般的に父親とされている人物を<般>と表記し、
また一説に父親とされる人物を<説>と注記して表したのが下の一覧です。


藤原不比等(659-720年)/<般>中臣(藤原)鎌足 <説>第38代・天智天皇
 ~飛鳥時代・奈良時代の公卿で、草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、
  大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に
  貢献した~


この方が「御落胤」であることは、筆者自身はほぼ間違いないと思っています。
なぜなら「藤原」姓は父とされる鎌足(614-669年)ではなく、不比等に賜姓された
ものと考えるからです。
都である藤原京の成立が694年とされているのですから、それ以前に「藤原」賜姓が
行われたとは考えにくいのです。


仮に「それ以前」に賜姓が行われていたとしたなら、それは臣下が使っていた
「お古」の名を新しい都の名称に採用したことになって、これではいかにも
筋が通りません。
ということで、筆者は「藤原」賜姓が行われたのは、平城京への遷都が行われた
710年以降だと思っているのです。


これなら、栄光の都の名「藤原」を賜姓することになって、与える朝廷側にも
受ける臣下側にもメッチャ大きな箔が付いて、まさにウィンウィンの形になるからです。


空也(903頃-972年)/<般>記載なし <説>第60代・醍醐天皇
 ~平安時代中期の僧で、観想を伴わずひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える
  称名念仏(口称念仏)を、日本において記録上初めて実践したとされ、
  日本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評価される~


その口から六人の仏様(南無阿弥陀仏)が姿を現している「空也上人像」は割合よく
知られているようですが、それに比べたら僧・空也の名を挙げられる人は、幾分
少な目な印象になります。


ちなみに、観想と称名に違いもメモしておくなら、
観想念仏→心の中に仏の姿や功徳を念ずる(イメージする)こと。
称名念仏→仏の名を口に称えること。(例:南無阿弥陀仏)


平清盛(1118-1181年)/<般>平忠盛 <説>白河法皇(第72代天皇)
 ~平安時代末期の武将で、武士としては初めて太政大臣に任じられる。
  日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の

  基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)~


この方も「御落胤」でほぼほぼ間違いないような気がします。
なぜなら、こんなウワサ?もあるからです。
~白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が平忠盛に下賜されて、清盛が生まれた~
女性を「下賜」する、されるなんて、現代なら大きなスキャンダルですが、こういう
話があるのは、当時はさほど特異なこととは意識されていなかったのでしょう。


確かに、莫大な成功(寄付行為)をしていたせいもあっにせよ、あるいは伊勢平氏で
初めて昇殿を許されるなど、平忠盛自身がメッチャ厚遇されている事実もありますし、
さらには上記にある清盛の栄光の履歴も、「御落胤」であることを強力に裏付けている
印象です。


   

      藤原不比等 / 平清盛


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崇徳天皇(1119-1164年)/<般>鳥羽天皇 <説>白河法皇(第72代天皇)
 
~第75代天皇で、保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。
  日本三大怨霊の一人として知られる~


第一に、父親とされている第74代・鳥羽天皇自身が、この子(後の崇徳天皇)を
「叔父子」と呼んでいたそうですから、白河法皇の子供「御落胤」であることは
間違いないように思えます。
その家族関係は非常にややこしく、こんな相関図になります。


孫に当たる鳥羽天皇の嫁さんに、爺様・白河法皇が手を出し、生まれた子が崇徳天皇。
ということは、鳥羽天皇からからすれば、自分の嫁さんが生んだ子ですから、
自分の子には違いないのですが、胤は爺様・白河法皇の胤ですから「叔父」でも
あるわけで、そこで「叔父子」という言葉にもなるわけです。


ちなみに、ここに登場した「日本三大怨霊」にも触れておくと、この崇徳天皇の他に
一般的にはこの二人の名前を挙げるようです。
菅原道真(845-903年)/平安時代の貴族、学者・政治家。
 ~讒言により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。
  死後は怨霊になり、清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られる~


平将門(903?-940年)/関東の豪族で第50代・桓武天皇の五世孫。
 ~下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争を経て、京都の朝廷に対抗して
  「新皇」を自称し、東国の独立を標榜した。
  しかし即位後わずか2カ月たらずで討伐され、死後は怨霊になり、日本三大怨霊の
  一人として知られる~


ちょっと軌道が逸れかかっているので、お話を元の「御落胤」へ戻しますと、
一休宗純(1394-1481年)/<般>記載なし <説>第100代・後小松天皇
 ~室町時代後期の臨済宗の僧で 東山文化を代表する人物でもある。
  また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる~


「一休さん」の愛称で親しまれ、その生涯に様々な説話を残した事から江戸時代に
説話『一休咄』が作られ、その頓知(とんち)で有名となりました。


足利義直(1473-1489年)/<般>8代将軍・足利義政 <説>第103代・後土御門天皇
 ~室町幕府第9代将軍で、応仁の乱当時、・後土御門天皇は将軍御所へ避難する
  ために同居しており、足利義政と不仲だった
日野富子との関係が噂されたことに
  よる~


その噂が本当だったかどうかは別として、その後土御門天皇については、こんな記事も
ありました。
~避難生活中には、(天皇は)義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と
 密通して皇女を出産している。
 屋敷内での密通は本来であれば室町第の主人である義政や兼子の主人である
 富子によって厳罰に処せられる行為であったが、その当事者の身分ゆえに
 天皇・兼子ともに不問にされている~


ですから、この第103代・後土御門天皇も、第72代・白河天皇の後年に負けず劣らずの
元気(スケベ?)っぷりを示していたことになりそうです。
ともあれ「御落胤」の歴史を振り返ってみると、筆者はこんな言葉を思い出すのです。


~スケベは家系図をややこしくする~
人間の世の習いを的確に表現した名言です。
もっとも、これは筆者が今即興で作った言葉なのですが・・・えろぅすんません。


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