ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

誤算編20/御落胤はいつの世にも現れる

歴史と呼ぶほどには古い時代の出来事ではありませんが、今からちょうど二十年ほど前
(2003年)にこんな事件があったことをご記憶でしょうか。
宮家の「御落胤」が結婚披露宴を開催したのです。
普通なら、それはそれでおめでたいことなのですが、この場合にはそうとは言えません

でした。
なぜなら、その実態は巧妙に仕組まれた「詐欺」だったからです。


その出来事は「有栖川宮詐欺事件」と呼ばれ、こんな紹介になっています。
~宮家・有栖川宮の祭祀継承者であり、高松宮宣仁親王の御落胤だと名乗った男性と、
 その妃殿下とする女性が偽の結婚披露宴を開催し、招待客からドッチャリと

 祝儀等を頂戴した~


モロに蛇足になりますが、筆者は「ウチはミヤ様の親戚だ」と自慢する人物を知って
います。 ただ、この場合の「ミヤ様」とは、宮家の「宮様」ではなく、
単に「畳屋サマ」ということなのですがね。
その御仁はこのジョークがよほど気に入っているのか、懲りる素振りはありません。
その代わりといっては何ですが、その都度聞かされている筆者などはいささか
癖癖君なのですが。


それはともかく、その男性が名乗った「高松宮宣仁親王の御落胤」とか、
「宮家・有栖川宮」とか、あるいは「祭祀継承者」という文言には馴染みが薄くて、
充分な理解には及びません。
そこで、ちょいと調べてみたのです。


すると、「高松宮宣仁親王」(1905-1987年)とは、
~大正天皇の第三皇子で、皇長兄に第124代・昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、
 皇弟に三笠宮崇仁親王~との説明です。


   有栖川宮詐欺事件の当事者たち


さらに、「有栖川宮(ありすがわのみや)」にも触れておくと、
~江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家で、その江戸時代初期には
 第111代・後西天皇(1638-1685年)を出した~

こうありますから、ちょっくらちょいにハンパな家柄ではありません。


そういえば、幕末から明治にかけて活躍された有栖川熾仁(たるひと/1835―1895年)
なる皇族がおられましたっけ。
第121代・孝明天皇(1831-1867年)の妹姫・和宮(1846-1877年)の最初の婚約者
でした。


ただ、これは孝明天皇が進めた「公武合体第一」路線によって、結果的に破談となり、
和宮は第14代将軍・徳川家茂(1846-1866年)との婚儀に及んでいます。
さらには、後の西南戦争(1877年)には征討総督として出征したことや、国葬に
なったことで有名な方です。


ところが、その有栖川宮家についてはこんな説明になっていたのです。
~有栖川宮は江戸時代に創設された宮家であったが(上の熾仁の跡を継いだ異母弟の)
 10代目当主の威仁親王が1913年に嗣子なく薨去したため、旧皇室典範の規定により
 断絶が確定。
 その後、威仁親王妃慰子(やすこ)の薨去(1923年)により正式に断絶した~


そして、のちの有栖川宮家の祭祀は、歴代当主の勲功により大正天皇の特旨を以って、
その第三皇子の宣仁親王(1905-1987年)が新たに高松宮家を興した上で継承した
ことは事実でしたし、また、その宣仁親王が世を去った後も、在世中の妃・喜久子に
よって、引き続き高松宮家で執り行われていたことも事実でした。


ちなみに、「祭祀継承者」とは、
~系譜、祭具及び墳墓といった祭祀財産や遺骨を管理し、祖先の祭祀を主宰すべき
 人のこと~
だそうですが、なにやら筆者のような平民身分の者には何かしら
 分かりにくい世界ですねぇ。


さて、こうした説明を整理してみると、問題の詐欺男性は周囲に対してこのような
お誘いをかけたことになりそうです。
~「高松宮宣仁親王の御落胤」であり、断絶した有栖川宮家の正式な「祭祀継承者」
 であるワタシが開催する格式ある結婚披露宴に、(特別な計らいをもって)
 アナタを 御招待しますゾ~


確かに、宮様関係筋からこんなお誘いがあったとしたら、そのステータス感には
一般人とはちょっとばかり違った重みが感じられたことでしょう。
事実、この披露宴には何人かの芸能人も出席したようです。


「真っ赤な嘘」という言葉があるものの、「詐欺」の場合もそのまんま「真っ赤」で
いいのかどうかはよく知らないのですが、ところがこれが真っ赤な?「詐欺」
だったのです。


なぜなら、高松宮家以外には「有栖川宮の祭祀継承者」なんて存在は、あり得ない
ことだからです。 ところが、
~2003年(平成15年)4月6日、東京青山において偽の結婚披露宴を開催、約400人の
 招待客から祝儀や、記念写真撮影権等で金銭を騙し取った。
 同年10月、警視庁公安部は、「有栖川識仁(さとひと)」と詐称した男(当時41歳)

 と、その「妃殿下」(当時45歳)および関係者を詐欺罪で逮捕した~


順調に進んでいた企みでしたが、ところが最後になって警察に捕まっちゃった、
という顛末でした。
ただ、この事件で、何やら妙に時代劇っぽくて印象に残ったのが「御落胤」という
言葉でした。


 

      天一坊 / 第八代将軍・徳川吉宗


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頭に付いた御は丁寧な表現の場合に用いる接頭語ということになりますが、
本来の
「落胤」(らくいん/おとしだね)については、こんな説明になっています。
~身分の高い男が、正妻以外の身分の低い女性に産ませた子~


ええ「身分の高い男」と限定されていますので、身分がさほどでもないアナタの場合
なら、仮に「婚外子」がいたとしても、その子自身は決して「御落胤」とは呼んでは
もらえません。
それを悔しいと思うのなら、アナタには「身分の高い男」になるための一層の努力が
必要ということです。


さて、ここまで二十年前のいわゆる「有栖川宮詐欺事件」を回顧してきましたが、
その「御落胤」がキーワードになった事件が歴史の上でもあったことを、ひょっこり
思い出したのです。
ええ、いわゆる「天一坊事件」がそれです。


事件の概要は、こんな按配でした。
~江戸時代中期、山伏の天一坊改行(1699-1729年)が、江戸幕府八代将軍・
 
徳川吉宗(1684-1751年)の落胤を称して浪人を集め、結果、捕らえられ獄門に
 なった事件~


また改行は、生前の母親から「お前は、源氏の筋目正しい人の子である」と
常々聞かされていたそうで、そんな自分の出生にまつわる逸話を他人に自慢気に
漏らしたところ、まもなくしてそうした噂話が広まり、自然と自分のまわりに集まる
ようになり、さらには世話までしてくれる者も出てきたとのことです。


さて、こうしたことに気を良くした改行(源氏坊改行)が、さも自分が貴人であるか
のように振る舞っていたこともあって、人々はこう思い込んだとされています。
~この方は、将来必ずや大名になられるお人だ~
そこで、自分の将来のための投資と考えて、喜んで金品を差し出していたわけです。


ところが、捜査当局である関東郡代は、こうした動きを不審に思い、取り調べの
挙句に改行の逮捕に及んだのです。 罪状は「出自詐称」。
ええ、「将軍の御落胤」などという大ウソをこきまくって不当に金品を得たと、
捜査当局はそう判断したということです。


判決は「死罪」が申し渡され、結果の罪で鈴ヶ森刑場で獄門となりました。
さて、この「獄門」という刑は現在の刑法には用いられていませんから、念のために
確認しておきましょう。
~(獄門とは)平安時代中期から明治初期まで続いた刑罰の一つで、大衆へのみせしめ
 として行われたさらし首のこと。 梟首 (きょうしゅ) 、梟示 (きょうじ) ともいう~


ゲッ、結構残酷な刑罰ですが、この梟首刑廃止の布告が出たのは、なんと1879年に
なってからのことだそうですから、その残酷は二十世紀間近まで連綿と続いていた
ことになります。


ついでですから、では、なんで「獄門」と言うの?
~鎌倉時代までは,斬首した罪人の首を矛(ほこ)に突刺して京中の大路を渡したのち、
 その首を左獄ないし右獄の門前にある楝 (おうち。センダンの古名) の樹にかけて

 さらすことが多かったため~
うへぇ、あまり楽しくない話題になってきましたのでこれにて打ち切ります。


つまり、史実の天一坊(源氏坊改行)は、単なるせこい詐欺師だったことになりそう
ですが、ただ、天一坊自身は一度も自分のことを将軍・吉宗の御落胤だなどと
称してはいなかったようです。


ということで、つい最近の平成時代の「宮家を騙った御落胤詐欺事件」と、遥か昔の
江戸時代の「将軍を騙った御落胤詐欺事件」を並べてみた次第です。
ただ、だからと言って、決して「御落胤=詐欺師」ということにはなりませんので、
仮にアナタの周りに「御落胤」を名乗る人物が登場しても、そこらへんは大人の態度で
接してやってくださいね。


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