ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

デジャヴ編30/外圧がその扉を開いた

鎖国政策下の江戸時代の日本が外国との接触を一切絶っていたかといえば、
実はそうでもありませんでした。
俗に四つの口と言われるように、長崎ではオランダ・中国を相手として、
琉球相手なら薩摩で、朝鮮だと対馬で、さらに蝦夷地では蝦夷を相手にそれなりの
お付き合いはしていました。


ではきっちりそれだけに限られていたかというと、そういうことでもありません。
海のただ中に浮かぶ島国ですから、お付き合いのない国の漂流船や遭難船が
漂着することも珍しいことではなく、そうした際には人道的な見地から助力に努めて
います。


しかしそうした中にも、とんでもない事件がありました。
イギリス船「フェートン号」の長崎入港です。
どうやら航行継続に必要な水や食料などが不足し、その補充を目的とした入港だった
ようです。


鎖国中の日本ではあるものの、オランダと良好な関係があることを承知していた
彼らは、自分たちの船がイギリス船であることに気付かれぬよう、なんとオランダの
国旗を掲げて入港したのです。
その国旗を見て自国船だと信じたオランダ商館員が出迎えに出るやたちまちに
拉致され人質にされてしまいました。


その挙句に、必要な水や食料などを入手するや、このイギリス船は悠々とトンズラを
決め込んだのです。 
これがいわゆる「フェートン号事件」(1808年)の顛末ですが、この際の幕府の対応は
終始後手を踏み大失態劇を演じました。
これ以降の幕府が「外国船」に対し一種のトラウマ感覚を抱くようになったのも無理も
ありません。


 フェートン号


ところが、その幕府のトラウマとなった「外国船」の来航はその後も続きます。
 〇イギリス商船(ブラザース号/1818年)交易目的で来航。
〇イギリス捕鯨船(サラセン号/1822年) 食料・水の補給のため。
このように外国船来航は後を絶つことがなかったのですから、
「鎖国堅持」
目論む幕府とってはますます大きなストレス・イライラとなっていったのです。


そこで、次に採った方策が「無二念打払令」(1825年)でした。
~清国・オランダ以外の「外国船」を見つけたら、何も考えずためらうことなく
 打ち払え、追い払え!~
 この方針を貫くことにしたのです。


しかし「相手」は外交・交易の開始を希望してやってくるわけですから、そうそう簡単に
引き下がるものでもありません。 そこで、
~手ブラではなんですから、今回は日本に喜ばれること間違いないお土産?も
 ドッサリご用意してきましたよ~

これがアメリカ商船「モリソン号」(1837年)で、実はこの時の「お土産」とは、
日本人漂流者七人の日本送還だったのです。


ところが日本側には、長崎での「フェートン号」の苦々しい記憶が残っている上に、
さらにこの「無二念打払令」が施行されていたこともあって、なんとマニュアル通りに
大砲をぶっ放して追い返してしまったのです。


こうした「モリソン号」の顛末を知った一部インテリからは、さすがに幕府批判の声が
上がります。
~異国船打払令は、いくらなんでも行き過ぎの所業ではないのか~
しかし、幕府はそうした心情を示した蘭学者たち(渡辺崋山・高野長英・小関三英ら)
を逮捕し、蟄居・永牢などに処すことで徹底的に弾圧。
いわゆる「蛮社の獄」(1836年)にまで突っ込んでいったのです。
つまり、国内にいかような世論が涌き起ころうとも開国や外交に臨むことは絶対に
ないという幕府の固い意思を示したわけです。


ところが、ギッチョン。
~泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たつた四杯で夜も眠れず~
の狂歌でも知られる、いわゆる「黒船来航」(1853年)によって、アメリカ艦隊・
ペリー代将が強圧的な姿勢で交渉に臨むと幕府はたちまち腰砕け。
なんと、翌年には早々と「日米和親条約」の運びとなり、長い間堅持してきた
「鎖国政策」がたちまちのうちに放棄されたことはご承知の通り。


要するにこういうことです。
~自分より弱そうな相手(国内世論)には強圧的な態度をとことん崩さず、
 相手(アメリカ外交団)の方が強そうな際には、メッチャ低姿勢に出て素直に従う~

ええ、こうした幕府の姿勢には筆者のライフスタイルとピッタリ重なるものがあって、
妙に親近感を覚えるところです。


 

 黒船来航/ BBC放送「PREDATOR  The Secret Scandal of J-Pop」


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それはさておき、もう少し説明を加えるなら、この時期の幕府は、
~国内世論は平気でスルーできるが、外圧に対しては至って小心な姿勢~
を見せたことになります。
ところが、こうした民族のライフスタイル?は、19世紀の「黒船来航」だけでなく、
実は21世紀の現在でも繰り返されていることにお気づきか。


なにを言いたいのか?
昨今話題になっている、いわゆる「(芸能事務所創業者某氏)の性的虐待疑惑」
経緯がまさにそのスタイルを踏襲しているということです。


この騒ぎは、イギリス公営放送局BBCの長編ドキュメンタリー『PREDATOR 
The Secret Scandal of J-Pop』(J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)

放送が発端となったようです。
もっとも芸能情報には根っから疎い筆者ですから、念のためにWikipediaを頼りに
しながら、時系列に追ってみることにします。 


すると、このくらいになりそうなのです。
〇1962年創業者某氏(1931-2019年)が最初のグループを結成。
〇1960年代/事務所に所属する男性タレントに対して、創業者某氏が猥褻な行為を
      行っているという噂や裁判での証言があった。


創業間もないこの頃すでに、年若いタレントたちに対する「性加害」の噂が立っていた
ということです。 そして、
〇1988年-2005年/元グループメンバーによるいくつかの告発本が出る。
〇1999年-2004年/告白本の発行などとほぼ時を同じくして、週刊文春が
         当該芸能事務所に関する特集記事『ホモセクハラ追及キャンペーン』
         を掲載。
週刊文春のこうした報道記事に対し、事務所と創業者は名誉毀損であるとして
1億円あまりの損害賠償を要求する民事訴訟を起こしています。


ただしこうしたことは、近いところにいる人たちはともかくとして、一般の人の
受け止めは「週刊誌のマユツバ記事」ほどのものだったようです。
芸能情報オンチの筆者なぞは、そんな記事があったことすら承知していませんでした。


ところが、
〇2019年/創業者の死亡。
すると、海外からも関連した情報が届くようになったのです。


〇2023年3月/イギリスにおいて、先に挙げたBBCの長編ドキュメンタリー番組が
       放送され、ここでは創業者の性加害の被害者となった
       元グループメンバー.へのインタビューや、当該事務所への直接取材が
       断られる様子なども伝えられたそうです。


〇2023年3月/BBCの報道とは別に「週刊文春」が新たに、当時13歳だった
       元グループメンバー.の少年が創業者からの性被害に遭ったと報じる。
〇2023年5月/NHKが創業者の児童性的虐待疑惑を「クローズアップ現代」のテーマと
       して取り上げた特集を放送。
       『“誰も助けてくれなかった” 告白・(事務所名)と性加害問題』
       
さらには、その直後に、
〇2023年6月/「(事務所名)性加害問題当事者の会」が発足。
〇2023年7月/国連人権理事会による調査が開始され、被害を訴える当事者への
       聞き取り調査に乗り出す。


そして、
〇2023年8月/外部専門家の特別チームが(少なくとも数百人以上に対する)性加害を
       事実認定し、当該事務所の社長に辞任求める。
〇2023年9月/当該事務所が性加害の事実を認めて謝罪、社長交代。


ええ、国内では60数年もの間びくとも動かなかった事態が、BBCや国連などの
いわゆる「外圧」が働いたら、なんと数ケ月のうちに目に見える動きが生まれたと
いうことです。


国内における江戸時代の「幕政批判」や、現代の「週刊誌報道」などの、
いわゆる国内世論はまったくの無力で、「黒船」とか「BBC報道/国連調査」といった
「外圧」があって初めて事態が動き出したことになります。


ええ、ですから~外圧がその扉を開いた~
これはまさに日本における「世紀を跨いだデジャヴ感覚」と言えるような気もする
ところです。


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