ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

逆転編28/異教の蹉跌と捲土重来

キリスト教が初めて日本に伝わった経緯はこんな説明になっています。
~わが国におけるキリスト教の歴史は、1549年(天文18)イエズス会所属
 スペイン人のフランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来に始まる~


キリスト教の直接的な起源は、紀元1世紀中頃にイエス(伝:後1~33年)の
死後に起こった弟子の運動にあるとされていますから、日本に伝わるまでには
結構な時間を要したことになります。


もっとも、その意味では「仏教」もその通りです。
開祖・釈迦の時代自体が、前7世紀?前6世紀?前5世紀?など諸説あって、はっきり
していませんが、日本に伝わったのが6世紀半ばほどとされていますから、いずれにせよ
千年単位の歳月を経てのことでした。


同様に、キリスト教も似たような歳月を必要としたわけですから、宗教の伝来と
いうものは元々そうした性格を備えているのかもしれません。


 宣教師/フランシスコ・ザビエル


それはともかく、キリスト教が伝わったあとの様子については、このように説明されて
います。
~宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者・織田信長
 (1534-1582年)の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増大させた。 
 戦国時代を通じ教勢は九州から京都にまで及んだ~


元々が「新しいもの好き」な信長ですから、「未知との遭遇」となったキリスト教には
メッチャな好奇心を示したことが考えられます。
しかし、このような説明だとキリスト教の布教活動、それ自体は割合に順風満帆だった
ように受け止められます。


ところが、実際はそうでもありませんでした。
その信長が倒れた後に天下人となった豊臣秀吉(1537-1598年)が、当初はともかく
として、後には方向転換を図っているのです。
なにゆえに?
面白くない情報に接したことが原因だったとされています。


ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品として海外に人身売買されていると
いう話が耳に入ったばかりか、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害
するという事態も引き起こしていたのです。


そこで、秀吉は「バテレン(padre/神父)追放令」(1587年)を発布し、
キリスト教の布教を禁止しました。
ただし、これは宣教師(バテレン)の国外退去を求めるもので、布教に関係しない
外国人(商人)の出入りは自由、また個人でキリスト教を信仰するぶんについては
問わないとする、割合に緩やかなものでした。


ところが、この後になって秀吉は禁教令を再び発令したのです。
その理由としては、こんなことが挙げられています。
1596年のこと、スペイン船の「サン=フェリペ号」が土佐国に漂着するという出来事が
あり、日本側は当然その船や乗組員の取り調べに及びました。
ところが、その際に、乗組員の一人がこんな意味深な言葉をポロリと漏らしたと
されているのです。


~キリスト教の宣教師はスペインが領土征服するための尖兵なのです~
つまり、最初に宣教師を送って布教に努め、その国にキリスト教が広まったら、
その時点で国内のキリスト教徒を蜂起させて、一気にその国の権力を掌握してしまう。
そうするための取っ掛かりが宣教師の派遣である、と白状?したことになります。


~なんちゅう乱暴で、厚顔無恥な無礼者どもじゃ!~
秀吉の頭に湯気が湧くのも無理もありません。
これまで通りの宣教活動を許してはおけん。
こう判断した秀吉は、京都のキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じました。


はるばる長崎まで連行された彼らが磔の刑に処された出来事が、1597年
「二十六聖人の殉教」(日本二十六聖人)ということになります。
ここに至れば、紛れもない「宗教弾圧」と言っていいでしょう。


その秀吉もこの世を去り、その後に天下を掌握した徳川家康(1543-1616年)の
時代には一時的に布教が認められました。
もっとも、家康の関心はキリスト教そのものではなく、それに付随して得られる
海外情報や貿易振興に向いていたようですが。


ところが、そうこうするうちに、日本の朱印船がマカオでポルトガル船とトラブルとなり、
乗組員60名が殺されるという大事件が引き起こされたのです。
すかさず日本側は、その報復として長崎に入港していた問題のポルトガル船を撃沈させ、
家康もまたキリスト教禁教(1612年)に及びました。


日本は、南蛮(ポルトガル)船の入港を禁止(1639年)としたこの時から、
1854年の日米和親条約締結までの期間、いわゆる「鎖国」状態を堅持することに
なったのです。
もちろん、この間においてキリスト教が認められることはなく、伴って布教活動も
途絶えることになりました。

 

二十六聖人の殉教(1597年)/ 黒船来航(1853年)


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もっとも、密かに信仰を続けたキリスト教徒を指す「隠れキリシタン」という言葉も
ありましたから、キリスト教そのものが完全に潰されたわけではありません。
いわば、地下活動として、なんとか生きながらえた形でした。
ただ、「キリスト教の日本上陸」という観点からすれば、何しろ禁教を余儀なく
されたのですから、「失敗」だったとの評価になるのは止むを得ません。


しかし、その「鎖国時代」も二百余年を経ると、キリスト教文明は再び日本の地へ
やってきました。
ペリー艦隊による、いわゆる「黒船来航」(1853年)がそれで、その翌年には
「日米和親条約締結」に至っています。
日本の門戸は、キリスト教文明による力づくで開けられたわけです。


こうなると、キリスト教もまた戦国時代以来の正式「再入国」となり、外交使節や
貿易商と共に多くの宣教師たちも来日し、もちろん遠慮することなく大手を
振っての布教活動もできるようになりました。


こうした環境において変化を見せたのは外来「キリスト教」だけではありませんでした。
江戸時代末期以後のことになりますがが、神道、儒教の学者が神国思想を
鼓吹するようになったことから、国内では次第に廃仏思想が表面化してきており、
その影響もあって、もともとあった国内宗教の「神道」「仏教」も変身をみせたのです。


そうした動きに拍車をかけたのが、江戸幕日に取って代わった明治新政府の
「神仏分離」政策でした。
~教義も戒律もユルユルな従来のままの神道・仏教では、ガチガチに強固な教義や
 戒律を備えたキリスト教に駆逐されかねない~

こんな気分に襲われていたのでしょう。


そこで、日本宗教もガチガチに一本化することで、強敵「キリスト教」に対抗しようと
する発想でした。
しかし、そうした動きは「神仏分離」という比較的穏やかなイメージをはるかに超え、
「廃仏毀釈」まで突き進んだのです。


えぇ、神様と仏様を区分けするだけでなく、この際に仏様は引退(廃)していただこう
とする考えです。 これには、こんな説明もあります。
~多年仏教によって圧迫を受けてきたと考えていた神職者たちは、仏教を排撃し、
 各地で仏像、経具、経巻、仏具の焼却や除去を行った~


こうした一面がなかったとは言い切れませんが、もっと大きな理由を探せば、やはり、
~教義も戒律もユルユルな従来のままの神道・仏教では、ガチガチに強固な教義や
 戒律を備えたキリスト教に駆逐されかねない~

というところにあったような気がします。


しかし、逆風に遭遇した「仏教」にとっては悪いことばかりではなかったようです。
なぜなら、こんな説明も登場しているからです。
~しかし、これらの廃仏運動は、むしろ仏教覚醒の好機であり、日本近代仏教は
 廃仏毀釈をテコとして形成されていった~


さて、明治新政府の岩倉使節団が欧米諸国を視察した際に、キリスト教の解禁が
条約改正の条件であるとされ、結局1873年(明治6年)にキリスト教
(カトリック、プロテスタント)禁止令は解かれました。
ただ、国内では、すでに1865年ごろよりプロテスタントの宣教師が来日し、
英語教育などを行いながら、徐々に信徒を獲得していったという状況もありました。


キリスト教が近代日本の社会や文化に与えた影響には大きいものがありました。
人間尊重、自由、平等、博愛の精神などもそうですし、とくに女子教育への
影響力は大きく、キリスト教解禁と同じ年(1873年/明治6)には、フェリス女学校
が創設されています。


そうした意味からすると、こんな風にも言えるのかもしれません。
~戦国時代には十分な「日本上陸」(1549年)を果たせなかった「キリスト教」は、
 それから324年後の明治時代になって、立派に捲土重来(1873年)を果たした~


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