ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

迷宮入り編20/あれこれミステリアスな天皇

歴代を「○○天皇」と呼ぶ○○の部分のことを「諡号」(しごう)といいますが、
それは、こんな説明になっています。
~貴人、僧侶の死後、その人の生前の行ないをほめたたえておくる名(諡名)~


そして、異説もあるものの、まあこんなところが通説だとされています。
~初代・神武天皇から第44代・元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)
 の「諡号」は、淡海三船が一括で付けたもの~
ただ、この説明にツッコミを入れたくなるのは、なにも筆者だけではありますまい。


どんなツッコミか、って? そんなもん決まっているじゃありませんか。
~ではどうして、弘文と文武、この二人の天皇だけは除外したの?~
普通に考えればメッチャ不公平なことですから、それなりに丁寧な説明が必要だと
思いますよ。

          淡海三船


そこで、上の説明に関連する歴代天皇の方々に登場して頂くことにしました。
(□印は男帝/◇印は女帝)
□ 第38代・
天智天皇(在位:668~671年) 
□ 第39代・
弘文天皇(在位:671~672年) 天智の皇子/大友皇子
□ 第40代・
天武天皇(在位:673~686年) 天智の弟であると主張


◇第41代・持統天皇(在位:690~697年) 先代天武の皇后であり、天智の娘
□ 第42代・文武天皇(在位:697~707年) 先代持統の孫(祖母から孫への継承)
◇第43代・元明天皇(在位:707~715年) 持統の異母妹(子から母への継承)
◇第44代・元正天皇(在位:715~724年) 元明の娘で文武の姉(史上初の独身即位)


まずは情報の整理、つまり登場人物を知ることから始めてみましょう。
すると、その名付け親?とされる「淡海三船」(722-785年)については、このように
説明されています。
~奈良時代の学者、文人、大友皇子の曽孫であり、神武、綏靖、安寧などの
 歴代天皇の諡号を撰進した(762~768年頃)~


あれっ?
そういうことなら、この淡海三船御本人は、諡号撰進から除外した二人の天皇の
うちの一人、「弘文天皇」の曽孫ってことになるのかぁ。
妙な偶然といえば、いえないこともなくはない。(あれ、どっちだ。)


しかし、少し追ってみて分かったことですが、淡海三船がその「弘文天皇」を除外
した理由は、おっそろしく分かりやすいものでした。
実は、淡海三船の時代には曽祖父「弘文天皇」は「天皇」に数えられていなかった、
ということなのです。


そりゃまた、どういうこと?
そう言いたくなるのは御無理御尤ですが、720年に完成した正史「日本書紀」には、
その大友皇子が即位したとは記されていないのです。
正史が即位を認めていないのであれば、いくら曽孫とはいえ淡海三船が諡名撰進を
しないのは、至極自然なことです。


だったら、その「第39代・弘文天皇」って、どっから降って湧いたの?
ボウフラが湧くわけではないのですから、それにはちゃんとした経緯があります。
~先帝・天智天皇崩御から「壬申の乱」(672年)による(天智の子)大友皇子敗死
 までその治世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことは出来なかった。
 そのため歴代天皇とみなされてはいなかった(だけのことじゃい)~


そのように歴史を判定したのです。 ん、誰が?
その「壬申の乱」から千二百年ほど後の明治新政府です。
~(即位儀式を行えなかった)そういうことなら、諡号のないままではいかにも御不憫~
そう考えた明治新政府が、明治3年(1870年)になって「弘文天皇」と追号した
のです。


要するに、「弘文天皇」の諡名は淡海三船の与り知らぬ、ずっとずっと後の時代に
誕生したことになるわけです。
そうなると、淡海三船が実際に諡名撰進を除外した天皇は、実質的には
「文武天皇」ただ一人になってしまうのですが、だったら彼の場合にはどんな事情が
あったのでしょうか?


    

    第39代・弘文天皇 /第42代・文武天皇


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ひょっとしたら、淡海三船の諡号作業はまだ「文武」の存命中のことで、諡号が作る
必要がなかったのかしらん?
それは違います。
なぜなら、「文武」が25歳で死去したのは、淡海三船の誕生より15年ほど以前の

ことだからです。


しかも、この「文武」には皇后や妃を持った記録がありません。
ゲッ! 皇后や妃がいないということなら「万世一系」が途絶えてしまうではないか!
しかし、この時代の天皇には、皇后・妃以外の「妻」も沢山にいましたから、
それは杞憂ということになりそうです。


事実、この文武の血を継いだ男子(後の第45代・聖武天皇/701-756年)を
生んだのは、皇后・妃に次ぐ身分の夫人(ぶにん)・藤原宮子(藤原不比等の娘)でした。
しかしやっぱり、皇后や妃を持たなかったことは、なんとなく不自然に感じられるのも
事実です。


そこでネット徘徊をしてみたら、Wikipediaにこんな記事を見つけました。
~時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の
 皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つ
 ことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消した)とされる~


あぁ、さよか。 しかし、「何らかの原因」って?
はたまた「妃や皇后を持たなかった」のか、あるいはそれを「記録に残さなかった」
のか?
あれこれ探ってみたくなるのは人情です。


さて、上に挙げた天皇一覧表からも一目瞭然で分かる通り、この時期の天皇家には
皇位継承させるべき男子が不足していました。
そのために、つなぎの女帝(持統)を立て、緊急避難的措置を取った様子がありあり
ですものねぇ。
そうした苦労の末にようやく誕生させたのが、この「文武天皇」だったのです。


それなら、そうした皇位継承の危機的状況を改善するためにも、えっさえっさと
「子作り」に励むべきだと、当の文武天皇自身も強く自覚していたはずです。
なのに、その「文武」に皇后・妃の記録がない。
さらには他の天皇のような淡海三船による諡号もない。
ないないづくしの、まさに「ミステリアスな天皇」と呼ばざるを得ません。


では、上の説明にある、その「何らかの原因」とはなんだろうか?
それは、当時の常識に則してみた場合の天皇家にとって、ひょっとしたら、かなり
不名誉なことだったのではないのか。


ええぃ、イライラするなぁ。 たとえば、何だぁ? 
そんなこと、筆者に分かるはずがありませんでぇ。
だって、筆者は天皇家の者でもないし、この飛鳥時代や奈良時代の常識を知っても
いないし、それに、そうした真相を知られないために「記録から漏れた(消した)」
ものと考えられるのですからねぇ。


しかし、この時期の天皇家、もっと直截に言うなら、第40代・天武天皇に始まり
第48代・称徳天皇(女帝)に終わる、いわゆる「天武系」天皇の
約100年間は、皇位継承に関わる当事者たちにとっては無理に無理を重ねた時期
だった。 とは言えるのではないでしょうか。


たとえば、こんな荒業を見せたのもこの事期のことなのです。
○第41代・持統 → 第42代・文武/ 祖母から孫への皇位継承
○第42代・文武 → 第43代・元正/  子から 母への皇位継承
これなどは、伝統原則を大きく逸脱した世代順無視の皇位継承になっています。


それだけではありません。
  ○長屋王の変(729年) → 藤原氏による皇親実力者・長屋王の排斥事件
○人臣出身の皇后(729年) → 臣下・藤原不比等の娘・光明子
                史上初の人臣出身皇后となる


これなども藤原氏による天皇家圧迫の一環であったことは間違いなく、そうした
悪影響を最小限にするために天皇家は無理に無理を重ねた、ということだった
のでしょう。


ですから、そこに「不都合な真実」があったとしたら、それをモミ消すために
「記録から漏れた(消した)」ように謀るのは、当時の人間としては当然の衝動
だったのかもしれません。
えぇ、筆者も「隠し事」は決して嫌いではありませんから、その気持ちはホントに
よく分かるのです。



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