ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

トホホ編36/探しに探した落とし物

唐突な運びですが、ここで二人の天皇に並んでいただきました。
○第81代・ 安徳天皇(1178-1185年)/在位:1180年~1185年
○第82代・後鳥羽天皇(1180-1239年)/在位:1183年~1198年


先代天皇と、その後継天皇ということになりますが、よく見ると、この二人の
在位期間が二年間ほど重なっています。
つまり、同時に二人の天皇が存在していたわけで、えぇ、これは史上初めての状況
でした。


 

     第81代・安徳天皇 / 第82代・後鳥羽天皇


しかし、なんでまたそんなヘンチクリンなことに?
素直に
「万世一系」ということなら、同じ時期に二人の天皇が並立するなんてことは
ないはずです。
そこで原因を探ってみると、少々乱暴な決めつけかもしれませんが、当時権勢を
誇っていた
平清盛(1118-1181年)の専横、我儘のせいだったような気がします。


清盛は、自分の娘・徳子(1155-1214年)を第80代・高倉天皇(1161-1181年)の
皇后に送り、その間に子(つまり清盛からすればお孫サンですが)が生まれると、
現役の高倉天皇を力づくで退位させ、その子を後継(安徳)天皇としたのです。


でも、なぜ「力づく」だったことが分かるの?
だって、退位に追い込まれた高倉天皇は、その時まだ弱冠18歳、そして後継した
清盛孫の安徳天皇は、弱冠どころか僅か3歳という年齢なのです。
この異常とも言うべき史実が「清盛の力ずく」をモロに物語っています。


天皇位を操るかのごとき清盛のこうした専横ぶりに、朝廷が大いなる不快感を示した
のは当然です。
そこで朝廷は、平家が擁立した安徳天皇とは別に、自前?の天皇として高倉天皇の
皇子で安徳天皇の異母弟である後鳥羽を立てました。


とはいうものの、後鳥羽側のこのウラ技には致命的な瑕疵がありました。
正当な天皇であることを裏付ける「三種神器」が揃えられなかったのです。
~「三種神器」を所持していなければ正当な天皇とは認められない~
これがこの国の鉄板ルールなのですから、それなりの「負い目」が芽生えて当然です。


いわゆる「神器なき即位」という、なんとも異常な形ですから、伝統からしても、
後鳥羽の天皇位に、それなりの「?」がつくのは無理もありません。
おそらく後鳥羽の側も、また後鳥羽自身も、下世話に言うところの「モグリ(の天皇)」
ほどの後ろめたさを覚えていたことでしょう。
言うならば、「超高級ブランド品」でありながら、そこに「品質保証書」が添えられて
いないという感じだったかもしれません。


またこうした清盛に対しては、源頼朝(1147-1199年)や木曾義仲(1154-1184年)ら
東国武士勢力も大いなる危機感を抱いていました。
源氏を滅亡させる意思を、清盛が持っていることを承知していたからです。


そうした勢力の台頭によって次第に追い詰められていった清盛は、安徳天皇を
引き連れて都落ち(1183年)すると、「神器なき即位」のままで、イマイチ収まりが
良くない状況にある後鳥羽側が、清盛の手中にある「三種神器」の奪還を目指した
のは当然の成り行きです。


前後三回にわたる源氏VS平家の直接交戦「治承・寿永の乱」は、そうした状況下で
始まりました。
最初の「一ノ谷の戦い」(1184年)の後に、「屋島の戦い」(1185年)が続き、
そして最後の決戦「壇ノ浦の戦い」(1185年)についてはこう説明されています。


~壇之浦(山口遣)で行われた源平最後の海戦。
 この年2月、「屋島の戦い」に敗れた平家は、九州の源範頼軍に背後を牽制されつつ

 も、500余艘の兵船をもって、源義経率いる840余隻の船団を迎撃せんとし、
 平家軍の敗北・滅亡が決定~
念のためですが、平家総帥・平清盛はこの四年ほど前に既にこの世を去っています。


この「壇之浦の戦い」で追い詰められた安徳天皇は入水し、源氏側は、ともにあった
「三種神器」の回収を計ったのですが、そのうち鏡と玉は手中にできたものの、
剣は海底に。
あっちゃー、これでは「三種神器」が勢揃いにならず、「神器なき天皇」の揶揄?
汚名?を払拭することができません。


     

 三種神器(剣・鏡・玉) / 承久の乱(1221年)


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ですから、この戦闘の指揮官・源義経(1159-1189年)が、総司令官である
兄・
源頼朝からメッチャ叱られたのは当然です
~このバカッ!アホウ! 間抜けッ!オタンコナス! クソダワケッ!~
ありとあらゆる罵詈雑言が並んだことでしょうね、きっとなら。


さりとて、いつまでも「神器無し」では、さすがに恰好がつきません。
そこで、後鳥羽側は、武士団などの協力・応援を得て「宝剣探し」を続けました。
しかし、その場所は「海の底」ということですから、そうそう簡単に見つかるものでも
ありません。
実際2年を経ても、その発見・回収には至りませんでした。


しかし、現代に比べたらグンと信仰心の篤い時代のことですから、後鳥羽自身に、
こんな思いが芽生えとしても不思議なことではありません。
~「神器なき即位」だなんて、ひょっとしたら、「神の御意思」はボクにはなくて
 他のところにあるってことかもしれんなぁ~


そういうことなら、その「神の御意思」が自分に向いていることを証明するために、
後鳥羽としては「失くした宝剣」を何が何でも見つけ出し、自らの手中に収める
必要があります。
そういうことから、「宝剣の探索」は次第に「国家プロジェクト」もどきになって
いったようです。


「三種神器」を揃えることで、この国の鉄板ルールを遵守すべく、神社では祈願、
密教では加持祈祷も行われ、卜占にも頼ったばかりか、海人(あま)を動員した
水中探索も続けらました。
しかしながら、そうした必死の思いもむなしく、失った宝剣は結局見つけることが
できなかったのです。


そこで朝廷は、紛失?遺失?から5年後の1190年になって、やむなく別の剣に
分霊を施し、その剣を「神器」とする旨を決定しました。
このことをもって、後鳥羽は一応普通の「神器ある天皇」になれたというわけです。


さらに言えば、1210年の朝儀をもって、伊勢神宮の祭主から贈られていた剣を新しい
宝剣とすることが満場一致で決まった、とされています。


しかし、この長期間にわたる「宝剣探し」における、武士側の協力は本音の行動
だったのでしょうか。
実は、チョットばかり怪しいのではないか、と筆者は捉えています。
おそらく武士側は、このように受け止めていたと思うからです。


~「宝剣」が見つからないってか。 
 しかし、このことは皇位の正統性に固執する朝廷側のキズにはなっても、
 その問題には無関係の立場にある我ら武士の弱みということに全然ならない~


さらには一歩突っ込んで、こうも考えたような気がするのです。
~そんなら、「発見できない、揃えられない」という朝廷の弱みを握っておくことは、
 交渉事を有利に進める「カード」にもできるわけで、その意味で、後鳥羽に向けて
 「熱心に探している」ポーズを見せておくことは、とっても大事なことだゾ~


その一つの表れが、朝廷に対し源頼朝が切望した「征夷大将軍」という称号です。
「壇ノ浦」の七年後、後白河法皇とサシのトップ会談で「征夷大将軍」の地位就任を
切望し粘る頼朝に対し、この時の後白河は最後まで首をタテに振りませんでした。
「フン、穢れた武士風情が偉そうに!」


ところが、この会談から2年後にその後白河が死去(1192年)すると、後任?の
後鳥羽はたちまちそれを認めてしまいます。
でも、その理由は?


後白河がいなくかったことは間違いなく大きかったでしょうが、後鳥羽自身にも
「ボクは三種神器を揃えた当たり前?で一人前の天皇とは言えないのかも」という
自覚と大きな後ろめたさがあったせいかもしれません。


というのは、遺失?から27年後の1212年(後鳥羽34歳)まで、この
「宝剣捜索プロジェクト」が続けられた事実があるからです。
そして、後鳥羽は、武士風情に屈したという屈辱感を、生涯消すことができなかった
ということなのでしょう。


そしてついに1221年のこと、後鳥羽は鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げました。
それが、「頼朝に屈した」あの日から実に29年にわたって積もらせ続けた
「負い目」が臨界点に達して、ついに爆発したようにも見える「承久の乱」でした。


あの日の屈辱感と、その結果生まれた「武士風情が仕切る鎌倉幕府」をきれい
サッパリ「無いこと」にしてしまいたかったのかもしれません。
しかし、結果は自身の「隠岐島配流」・・・
武士の手による朝廷貴人の島流しも史上初の出来事で、これも後鳥羽にとっては、
さらに輪を掛けた大屈辱になってしまいました。


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