例外編20/皇后より重祚した御三方
~天皇(という存在)は神の子孫である~
日本では一応このようにされてはいるものの、そもそも神の存在自体を科学に証明する
のは困難ですから、同様にその子孫の存在についての証明も無理なことです。
そこで、「日本民族はこうした信仰心を持っている」、まあこの程度の受け止めの
方が無難なのかもしれません。
それはそれとして、その天皇には通常皇后がいます。
下世話な表現なら奥様ということですが、もっともこれは男性天皇に限ってのことです。
女性天皇にひょっこり皇后がいたとしても、現代感覚ではそれほど不自然でも
不都合でもないのかもしれませんが、何しろその昔には、その良し悪は別として、
男女の性別にはそれなりに明確な線引きがあったものです。
ひょっとしたら現代のお若い人の中には、そうしたことに不満を覚える向きがあるやも
しれませんが、歴史のお話ということでもあるのでそこはそれ大人の態度で接して
くださることを望みます。
さて筆者は何を言いたいのか?
実はとっても他愛もないことなのですが、その天皇と皇后について、こんな質問を
ぶつけられたのです。
~長い日本史の中には天皇と皇后その両方を体験された方もおられるのでは?~
しかし、こんな質問は「答え」を知っていなくても出てくるものではありません。
ですから、おそらくは「おられた」というのが正解なのでしょう。
そこを頼りに手探りを進めていくことになりますが、さて天皇と皇后の両方を経験
されたということなら、当然ながらその候補者は女性天皇に限られそうです。
なぜなら、男性天皇の場合は逆立ちしても皇后の立場を経験することができないからです。
そうした運びもあって、歴代の女性天皇を以下にピックアップしてみました。
それほど多くはありません。
第33代・推古天皇(554-628年)
第35代・皇極天皇/第37代・斉明天皇(594-661年) ※重祚
第41代・持統天皇(645-703年)
第43代・元明天皇(661-721年)
第44代・元正天皇(680-748年)
第46代・孝謙天皇/第48代・称徳天皇(718-770年) ※重祚
このように重なり合うように頻繁に登場した時代もありましたが、その後は
パタリと途絶えて、なんとずっと後の江戸時代になって、
第109代・明正天皇 (1624-1696年)
第117代・後桜町天皇(1740-1813年)が登場しています。
するとその候補者は、全部で八人(10代)の方々に絞られることになります。
これが20人も30人もの候補者なら作業が煩雑になりすぎてしまい、とても筆者の
手には負えないところですが、あぁ良かった、候補者がヒト桁ならなんとか
頑張ってみる気も起ろうというものです。
ということで、その八人の履歴を手当たり次第に追ってみることにしたのです。
と少なからず見栄を張った言い方をしていますが、その実態は単にWikipediaの
「女性天皇」の項目を参考にしたものにすぎませんのでどうぞ悪しからず。
さてまずは第33代・推古天皇。
その配偶者として「第30代・敏達天皇」の名が挙げられていますから、皇后時代が
確かにあったことになります。
そこでダメ押しにその「第30代・敏達天皇」(538?-585年?)についての記述を
参照してみると、皇后の欄には「額田部皇女(推古天皇)」とありますから、
天皇皇后の両方を経験したことは間違いないありません。
次には第35代・皇極天皇。 重祚して第37代・斉明天皇の諡名もあります。
ちなみに重祚とは、~一度位を退いた天皇が、再び位につくこと~を意味します。
そこで、同様にその配偶者欄を覗いてみると「高向王/第34代・舒明天皇」と
なっています。
要するに、最初の夫が第31代・用明天皇の孫である高向王(生没年不明)であり、
その後に第34代・舒明天皇の皇后として「宝姫王(皇極天皇)」の名が挙げられて
いるわけです。
つまり、この方も天皇皇后の両方の経験者ということになります。
さらに続いて、第41代・持統天皇に迫ってみましょう。
すると、配偶者欄には「第40代・天武天皇」の名があります。
そこで、逆に天武天皇の皇后欄を見てみると「鸕野讃良皇女(持統天皇)」。
と記されていますから、早い話が天皇即位前の持統天皇は天武天皇の皇后だった
ことになります。
つまり、この持統天皇も天皇と皇后の両方を経験されているわけです。
ちなみに、この「鸕野讃良皇女」って名前を正しく読めますか。
自慢じゃありませんが、筆者などはこの名が登場すると必ずといっていいほどに
カンニングに走ることになります。
そのつど正しい読み方を再学習しているのですが、「ノド元過ぎればなんとやら」で、
再会の折にはまず例外なく再調査を必要としています。
それはともかく、こう読むのが正しいとされているようです。
「うののさらら/うののささら」。
何やらエアコンの商品名を連想させる読み方ですが、二通りの発音が併記されています。
ということは、ひょっとしたら学者さんたちの間でも、まだまだ意見が分かれていると
いうことなのかもしれません。
35・皇極(37・斉明)天皇 / 41・持統天皇
もしそういうことなら、居直るつもりはありませんが、筆者がいつも正しく読めない
としても、それはそんなに恥でもないことにもなりそうです。
そして、その後の第43代・元明天皇。
持統天皇が父(第38代・天智天皇)方の異母姉という関係にあって、さらには
天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子(662-689年)の正妃であり、もっと説明を
加えるなら第42代・文武天皇と前出の第44代・元正天皇の母でもあります。
何事もなければ、天武崩御後の天皇の座を夫である草壁皇子がすんなり
受け継ぐはずでしたが、その草壁が28歳の若さで亡くなってしまったことで、
つまり、その「何事」があったわけで、その後の後継天皇の顔触れや順序は大きな
変化を余儀なくされました。
御興味のある方は、その辺の経緯についてさらに首を突っ込んでみるのも一興ですが、
その複雑さについては初めにしっかり覚悟を決めて置く必要がありそうです。
要するに、夫・草壁皇子は天皇即位を果たせなかったわけですから、この元正天皇が
皇后経験を持つことはなかったことになります。
えぇ平たく言うなら、皇后になるより前に未亡人になってしまったということです。
ただし、天皇の座には就かざるを得ませんでした。 何故って?
そんな興味を抱くのでしたら、その辺の経緯についてさらに首を突っ込んでみるのが
よろしかろう。
繰り返しますが、筆者から見れば結構に複雑難解な運びになっているのです。
さて、うまく矛先をかわしたついでに次の第44代・元正天皇に移ると、この方には
皇后時代がなかったことが断言できます。
いえ、そのことは元正天皇だけでなく第46代・孝謙天皇(重祚して第48代・称徳天皇)、
さらには、江戸時代に入ってからの第109代・明正天皇や第117代・後桜町天皇
(1740-1813年)にも共通して言えることなのです。
しかしまた、なんでそうなるの?
それは、上の四人(五代)の女性天皇のどなたもが「生涯独身」だったからです。
それぞれに深い事情があったのでしょうが、生涯独身を貫いたということは、
逆から言えば、天皇という配偶者を持たなかったということですから、必然的に
皇后は未経験ということになります。 それなりに理屈に合った説明で一安心です。
さて、そうした方向から眺めてみると、この「天皇皇后両方経験者」という存在は
長い日本史の中でも、推古・皇極(斉明)・持統のたったの御三方だけということに
なりそうです。
つまり、たった御二方だけの経験に留まった「重祚」に負けず劣らずの超レアな
出来事だったわけです。
逆に言うなら、それをしたあるいはそうせざるを得なかったとしたなら、その当時の
天皇システムはまだまだ後世ほどには安定したものにはなっていなかったということ
になるのかもしれませんねぇ、きっとなら。
そこで、天皇皇后の両方を務めたことをなん表現するのかAIに尋ねてみたのです。
すると、たちまち、~皇后の身位から天皇として即位したことを自然に表す言い方を
「皇后より重祚した」という~
そこで、この説明を今回のタイトルにした次第です。
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