ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

付録編20/あの黄金、どうしたでしょうね?

よく知られた史実でも、「その後」については無頓着のままでいることも案外に
少なくないようです。
筆者の場合なら、たとえば「奥州黄金」もそうしたことの一つなのかもしれません。


その「奥州黄金」とは、いわゆる「奥州藤原氏三(四)代」の時代(1087-1189年)に
その地でメッチャ豊富に産出された金のことを言っています。
なにしろ、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロ(1254頃-1324年)の著書『東方見聞録』
にも、~東方に国あり、その名ジパングという。 その国で特に驚くべきことは
      金の多いことである。 その金は掘れども尽きず~ とあり、これが
実はこの奥州の黄金のことではないかとする見方もあるほどです。


「掘れども尽きず」といっているのですから、無尽蔵のイメージだったのでしょう。
もっとも、マルコ・ポーロ自身は、その「ジパング」へ実際に渡航したわけではないので、
いささか無責任でオーバーな表現になっていたのかもしれません。


 中尊寺・金色堂


しかし、実際のところ、
~その産金は奈良東大寺の大仏に使われたほか、奥州藤原氏の黄金文化を支え、
 中尊寺金色堂にその産金量の膨大さが見て取れる~

との説明もあるくらいですが、ところが、こうした「黄金」の、さて「その後」のことと
なると、どこのどなたも一様に無口になっているような気がします。


そこで今回のタイトルは、~皆さん、奥州のあの黄金、どうしたでしょね?~
えぇ、実はこれ、1977年映画『人間の証明』の宣伝キャッチコピー、
~母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?~を思いっ切りパクったものなのですが、
皆様におかれましては、どうか悪しからずご了承くださいね。


では、まずその「奥州藤原氏」(1087-1189年)について知ることから、謎解きを
始めることにしましょう。
手始めは「奥州藤原氏四代」の系譜です。


○初代・藤原清衡(1056-1128年)  本拠・平泉の原型をつくり、奥州藤原氏
                  四代約100年の栄華の基礎を築いた。
○二代・藤原基衡(1105-1157年)  毛越寺に大規模伽藍を建立した。


○三代・藤原秀衡(1122?-1187年) 源頼朝と対立し、こう遺言を。
                 「源義経を立て頼朝の攻撃に備えよ」
○四代・藤原泰衡(1155?-1189年) 頼朝に威嚇に負け義経を討ったが、
                 その後、裏切りにより自らも殺害された。


こういうことになら、この最後(第四代)の当主・泰衡が死に、奥州藤原氏が
滅亡したあとの「奥州黄金」は、滅ぼした人物つまり源頼朝(1147-1199年)の
手中に収まったと理解するのが自然です。
ところが、このあたりのことの情報が少ないことは、筆者自らのネット徘徊体験からも、
言えそうなのです。


えぇ、例えば、
~奥州黄金の利権を我が物にした頼朝は、たちまちのうちに成金の億万長者になった~
とか、あるいは逆に、
~奥州黄金をチェックした頼朝は、既に掘り尽くされていたことを知って、大いに落胆し、
 そのあまり寝込んでしまった~
 とかの説明に遭遇しないのです。


しかし、あの有名な「中尊寺・金色堂」は初代・清衡によって1124年に建立されたと
されているのですから、その頃はまだ間違いなく奥州黄金は健在だったはずです。
だとしたら、源氏VS奥州藤原氏の激突で勝者となった頼朝とすれば、「戦利品」として
自分の物にしてしまうことも容易だったことになります。
ところがギッチョン、実際にはそうしたエピソードが多くは語られていないのです。


仮に頼朝が極端な情報オンチだったとしても「奥州黄金」のことはそれなりに耳にして
いたことでしょう。
なにせ、外国人であるマルコ・ポーロですら、本に著すほどに承知していたのです
からねぇ。


もしそういうことであるなら、頼朝は「奥州藤原氏」との衝突に際し、滅亡させた後の
「奥州黄金」についてもあれやこれやのプランを持っていたはずです。
でも、そこらへんについての、ああだった、こうだったという詳しいお話は伝わって
いません。


だとしたら、この「奥州黄金」の利権?を頼朝以外の誰が継承したのでしょうか?
しかし、その方向でも「奥州金」に関するエピソードは豊富とは言えない状況に
なっています。


それに加えて、さらには、こんな疑問も伴います。
~そもそも「奥州黄金は健在」だったのか、それともすでに「枯渇」していたのか?~
この点についても、あまり詳しくは触れられてはいません。


筆者はよく知っていますが、昔から人間が急に無口になる時は怪しいのであって、
大体は「腹の中」にケシカラヌことを溜め込んでいるものです。
その意味からも、この場面における「説明の少なさ」には、怪しい雰囲気を
プンプンに感じてしまうわけです。


    

奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡) / 日露戦争


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ところが、ずっと後にはこんなことがあったとの説明を見つけました。
~戦国時代には豊臣秀吉(1537-1598年)が直轄として金山奉行を配し、
 その後は伊達氏の所有となり
伊達政宗(1567-1636年)以降三代の栄華の源と
 なったほか、
「慶長遣欧使節」に要する費用はすべて「奥州黄金」によるものと
 いわれた~


ところが、~(その直後の)1673年頃から次第に産金量が減少した~とあり、
さらに後のことになると、
~1904年(明治37年)には明治政府が、この「奥州の金山」を担保として
 欧米から「借金」をし、日露戦争の費用を賄った~

こんな事実もあったとされています。


もし、この記録が正しいとしたら、欧米諸国はこの時代の「奥州金」について、
担保に見合う価値を認めていたことになり、そうなると「奥州黄金」は、産金量が
減少したどころか、なんと20世紀まで健在だったことになります。 


~う~む、こうなると、もうワケが分っかれせん話だがやっ!~(尾張言葉です)
となち、結局のところ、
~皆さん、奥州のあの黄金、どうしたでしょね?~


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