ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

女性編31/人形がアニメなら女形はCGかも

現在では芸術と見做されている「歌舞伎」にも、ここに至るまでにはそれこそ
波乱万丈・紆余曲折というべき難儀な時期がありました。
それを乗り越えたからこそ現在の「栄光」を手にしているわけですが、では
その難儀とはいったいどんなものだったのか?
ちょいと覗いてみることにしましょう。


お話は1603年から始まります。
日本史においては、徳川(江戸)幕府が創立されたとされるこの年、北野天満宮の
舞台に一人の女性踊り手が立ち、絶大な人気を集めました。 


その踊り手の名は出雲阿国(1572-没年不明)で、この時32歳。
この出来事が歌舞伎そもそもの出発点ということになっていますから、つまり
歌舞伎の創始者は女性だったことになります。


     出雲阿国


その人気はハンパでなかったようです。 そりゃあそうかもしれません。
それまでの舞、たとえば能の面を付け渋く重い動作に比べたら、阿国の舞は

妙齢女性が顔出しで華やか、しかも軽快な雰囲気を備え、いうなれば、それまでの
常識を覆した破天荒なものだったからです。


そうした阿国の舞いに人気が集まると、それをマネする女性達も大勢登場するように
なります。
~この人気を阿国一人に独占させておくのはメッチャもったいないことじゃん~
要するに、こんなところだったのでしょう。


しかしこうした女性たちの少なからずは、活動の場を舞台以外にも広げることをしました。
~なんですか?その舞台以外の活動の場って?~
充分ご承知のハズなのに、そんなオトボケはこれまたお人が悪いッ!


その「活動」の内容については、ご想像に任せるとして詳しくは申しませんが、
幕府は風紀紊乱に当たるとの判断を下し、「舞台女優」そのものを禁止してしまった
のです。(1629年)
あっちゃー!
これでは、女性が登場する舞や芝居を上演することができません。


~なんだとぅ、女性を舞台に立たせたらダメだってか~
これでは興行側もさすがに困り果ててしまいます。
「華」のない舞台になってしまいますから、見ていてもときめきに乏しく、当然のこと
ですが、歌舞伎の人気も凋落の一途を辿り始めます。


そこで、興行側は知恵を絞ります。
そうしないことには自分たちの生活も立たないわけですから、必死の思案です。
~要するに、生身の女を舞台に立たせたらいけないわけで、逆にいうなら
 そうでなきゃセーフってことだ~


そこで出てきたアイデアの一つが、今風にいうなら今回タイトルにある「アニメ」
でした。
アニメ(-ション)=生命のない物体や絵に、あたかも生命が宿っているかの
           ような動きを与える技法。


要するに、ここでの「アニメ」とは、生身の女性の代わりに、生命のない物体
(この場合は人形)に、あたかも生命が宿っているかのような動きをさせる
「人形浄瑠璃」のことを言っています。


~女は女でも「人形」であり、決して生身の「女」ではないのだから、結果、
 「女」を舞台に立たせたことにはならない~

ややこしい言い回しで恐縮ですが、つまりはそういう運びで「人形浄瑠璃」に着目
したのです。


したたかというか、大胆というか、はたまた支離滅裂というか、どんな表現が適当
なのかよく分かりませんが、とにかく舞台に「女っ気/華」を感じさせるためには、
これより方法はないと腹をくくったのかもしれません。


事実、こんな説明がされています。
~人形浄瑠璃は時流に乗って大いにもてはやされ、慶長の終わりから元和
 (1615~1624)頃には京都はもとより江戸をはじめ全国各地で興行されるように
 なった~


 

   人形浄瑠璃 / 女形(二代目山下金作:東洲斎写楽画)


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今回タイトルにあるもう一つの言葉「CG」は、ここではこんな意味で使っています。
CG(コンピュータ・グラフィックス)=コンピュータを使って描いた画像のこと。
          (要するに、本物ではないが、まるで本物のように見えるの意)


それは、こういう発想でした。
~あぁそうか! 幕府の言い分は、舞台に女性を立たせなければいいわけだ~
そこに気が付いて採った方法がこれでした。
~女優の代わりに、若い男の子に「女」を演じさせる~


なるほど、これだったらお上の行政指導にも従った形です。
それに若い男の子の中には、ホンマモンの舞台女優に負けないほどの美貌や声色を
備えた者もいるので、観客に大きな違和感を持たせることもありませんから、
まさに「CG」を駆使したと表現していいグッド・アイデアでした。


~やれやれ、難題はなんとか切り抜けられたわい~
ところが、ギッチョン。
女優の場合と同様に、こちらも舞台以外の活動を咎められて禁止処分を喰らって
しまったのです。(1652年)  なんでぇ?
理由は同じで、つまり、風紀紊乱に該当するということでした。


えぇ、有り体に言えば、普通は女性に対して抱く情熱と同種の感情を、舞台に立つ
「若い男の子」に対して持つ者も少なくなかったということです。
現実にそうした行動が少なくなかったようで、結果として、女性の場合と同様な経緯を
辿りました。
当時と現代とは性風俗も、またそのモラルにも大きな違いはありましたが、
幕府はいずれにしても好ましからざる社会風潮との受け止めだったのでしょう。


そこで、興行側はこう考えます。
~落ち着け、えぇか、よう落ち着けよ。 
 よくよく見渡すなら、美貌若衆の扇情的な舞や踊は確かに禁止されたが、
 一人前の大人の男については、なんら言及されていないゾ~


そこで、「一人前の大人の男」(前髪を落とした野郎頭)が演じる「野郎歌舞伎」
誕生します。
えぇ、生身の「女」でもありませんし、また「若い男の子」ということでもない
のですから、幕府も今度は咎めようがありません。


ひょっとして現代なら、「女優」がダメなら「ニューハーフ」がワンサといるわさ、
ということで、そのダメージはそれほどでもないのでしょうが、江戸時代の
「ニューハーフ」は少なかった?・・・のかもしれません。
よく調べてはおりませんが、そんな気がしないでもありません。


しかし、この「野郎歌舞伎」の場合は、男が女を演じるのですから、当初はそこに
必要な色気や情緒も乏しかったようで、以後の歩みもそうそうは順風満帆では
ありませんでした。
男が女役を演じる、いわゆる「女形(おやま・おんながた)」のプロトタイプの
登場が1700年以降で、本格派「女形」の登場はもう少し後のこととされているよう
ですから、その間少なくとも70~80年ほどの間は舞台で「本物の女性」を見せられ
ない状況が続いたのです。


しかし、その数十年後ともなると、歌舞伎では「女形」の芸が「本物の女より女っぽい」
と評されるまでの向上をみせるようになり、そうすると今度は次第に人形浄瑠璃人気の
低迷、歌舞伎人気の上昇という傾向が現れ始めます。


ちなみに、~実体は本物ではないが、本当に本物らしく見える~ということから
すれば「女形」は現代でいう「CG」版?に当たるのかもしれません。


さて、こうした二転三転の経緯は、単に「観客の飽きっぽさ」というものでもなく、
観客が本当に望んでいたものは、「アニメ版」よりは、よりリアルに近い「CG版」、
そして、本音を言えば、やっぱり生身の女性が女性を演じる「実写版」の方だった、
ということなのかもしれません。


で、お話を「女優禁止」のその後に移すと、日本で生身の「女性」が再び舞台を
踏めるようになったのは、もう間もなく20世紀を迎えようとする1891(明治24)年
のことでした。
つまり、その間二百数十年ほどは「舞台女優」不在の時代を経験したことになります。


ですから、不運にもその間に生きることになった先人たちに、男性役まで女性が演じる
「タカラジェンヌ」を一目だけでも見せてやりたかったと思うのは、なにも筆者
ひとりだけではありますまい。
もっとも、その「タカラジェンヌ」を一度も見たことのない筆者が言っているのです
から、イマイチ説得力に欠けるきらいはありますが・・・



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