ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

タブー編17/おなごの舞台は禍を呼ぶ

~日本固有の演劇である「歌舞伎」は、2009年にユネスコの無形文化遺産の
 代表一覧表に記載された~

このような説明にぶつかると、その格式の高さに圧倒されてしまい、ついつい腰が
引けてしまうものです。 
なにせ「神格化された伝統芸能」との説明ですからねえ。


ところがそのルーツをたどってみると、それほど怖気つく必要もない印象になります。
~歌舞伎の元祖は、「出雲阿国」(1572年 - 没年不明)という女性が創始した
 「かぶき踊」であると言われている~

だったら、その「かぶき踊」って? 


       出雲阿国


一説によれば、
~阿国が踊ったのは傾き者が色茶屋の女と戯れる場面を含んだもので、
 エロティックなシチュエーションを含んだものであった~
 


これだけでは、十分な理解が及ばない謹厳実直(唐変木?)な方もおられるかも
しれませんので、野暮を承知で用語の補足説明に及ぶと、
 傾奇(かぶき)者 → 反体制的な言動の者(今でいうヤンチャもどき?)。
      色茶屋 → (普通の水茶屋とは違い)色を売る女をかかえている茶屋。


ということになるそうですから、なにやらそのルーツは「神格化された伝統芸能」とは
えらくかけ離れたものだった可能性もありそうです。
そしてこの後の経過を駆け足で眺めてみると、その印象は必ずしも的外れでもない
のかもしれません。


~その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、わずか10年あまりで
 全国に広まり、ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる
 歌舞伎(若衆歌舞伎)が行われていた~


しかし、
~こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が
 絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、1629年?頃から幕府により
 次第に禁止されるようになっていった~


あっちゃー! で、どうなった?
~これ以後、元禄時代(1688~1704)に入る前までを「野郎歌舞伎(時代)」とよぶ。
 すなわち、容色を売る若衆の扇情的な舞や踊ではなく、野郎が演ずる物真似芝居だと
 いう意味の命名であり、1661~87年のころを全盛期とする~


そうして、
~この時期は、歌舞伎が本格的な演劇としての道を歩き始める重要なときにあたり、
 男性役者が女性役を演じる「女方」の基礎がつくられたほか、内容は飛躍的な
 進歩を示し、次なる元禄年間には第一次完成期を迎えた~


えぇ、幕府の行政指導?があって、今まで何かとスキャンダルや問題の種となって
きた女性俳優や若衆俳優を舞台から排除し、そのことで「健全性」?を打ち立てたと
いうことです。


~作品面では1680年頃には、立役(男性役)、女方(女性役)など、基本となる
 七つの役柄がすべて出揃い、元禄年間(1688~1704)を中心とする約50年間で
 飛躍的な発展をとげ、この時代の歌舞伎は特に
「元禄歌舞伎」と呼ばれている~


メッチャ簡単に言ってしまうなら、要するに、河原乞食と呼ばれる下賎な見せ物で
あった歌舞伎は、色(エロ?)っぽい踊りから始まり、幕府の制約(女優禁止!)を
受けながら、その数十年の後には、いわゆる「神格化された伝統芸能」に向けて
進み出していたことになりそうです。


ただし、その時代の歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は
差別されたとされています。
ところが、その「口やかましい」江戸幕府が倒れ、それに代わって新たな明治政府が
樹立されたのです。
つまり、幕府のそれまでの行政指導、たとえば「女優は禁止!」などは全部がチャラに
なったということです。


 

       川上貞奴 / 松井須摩子


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案の定、明治の代になると、能・狂言・歌舞伎などの従来の伝統演劇とは別の、
それまでにはなかった新しい演劇ジャンルが展開されました。
それまでの伝統演劇を「旧劇」と見做し、それに対して、それらは「新劇」という

概念で受け止められました。


新店の「新劇」は、老舗の「旧劇」、その内でも特に同様の様式である「歌舞伎」には
ない魅力を備える必要がありました。
そうでなければ、二百年以上の圧倒的伝統を誇る巨大な相手「歌舞伎」に対抗できない
ことは目に見えているからです。
こうして誕生したのが、江戸幕府に禁止され続けた「女優」(女性の舞台役者)でした。


多少横道に逸れますが、ではその「女優第一号」は誰?
このあたりは、有名無名もあれば、確かな記録の有無という問題も重なって
非常に微妙なところですが、筆者の見つけた資料に頼れば、こんな印象になります。


~1891年11月には、伊井蓉蜂(1871-1932年)が「男女合同改良演劇」を謳って旗揚げ
 したが、これに参加した千歳米坡は日本における女優のはしりとされる~
という説明から、「近代的演劇女優第一号」としては、この千歳米坡(ちとせ・
べいは/1855-1918年)を挙げたいところです。


~1899年、川上音二郎一座に所属する川上貞奴(1871-1946年)が女形の代役として、
 サンフランシスコ公演にて急遽出演して成功をおさめ、これによって川上貞奴は
 「日本初の女優」と呼ばれるようになった~
ちなみに、音二郎の妻でもあったこの貞奴は海外では「マダム貞奴」とも呼ばれたとの
ことですから、「日本初の国際派女優」としては、彼女の名前を挙げることができる
印象です。


また、1909年に坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となった松井須摩子
(1886-1919年)は、「日本初の○○女優」という冠をいくつか有しています。


~さしたる美貌の持ち主でもなかった須磨子は、女優になるという夢を諦めきれず、
 当時としては最新の技術であった鼻筋に蝋を注入する隆鼻術(美容整形手術)を

 受けた~ もとは鼻ペチャ顔だったというです。
このことによって、「日本初の整形美人女優」と称されることがあるようですが、
ただ、その美容整形の後遺症には生涯苦しんだとされています。


また、
~1914年、『復活』(トルストイ原作、島村抱月訳)のカチューシャ役が大当たりし、
 須磨子が歌った主題歌「カチューシャの唄(復活唱歌)」(抱月作詞・中山晋平作曲)

 のレコードが当時2万枚以上を売り上げる[大ヒットとなり、「日本初の歌う女優」
 いうことにも~


いえいえ、それだけではありませぬ。
~1917年に発売したレコード「今度生まれたら」(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある
「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、
 日本における
「発禁レコード第一号」となった~ あっちゃー。


ちなみにその須摩子は、一緒に劇団を立ち上げた島村抱月とのスキャンダル、そして、
その抱月の死後には「後追い自殺」をしていますから、詳しくは承知していませんが、
ひょっとしたらこの面でも「日本第一号女優」だったかもしれません。


それはともかく、江戸幕府によって禁止されて以来、途絶えていた「女優」が
この時代の「新劇」においては大いなる登場と少なからぬ話題提供をしましたが、
どっこい、「旧劇」歌舞伎のほうでは、出雲阿国以来の「女優復活」を見ることは
ありませんでした。


そりゃ、またなんで? こう理解する向きもあるようです。
~歌舞伎は女優抜きで完成している芸であり、よってもって「女優」なぞはハナから
 不要の存在なのだッ!~


確かに、そうかもしれません。
しかし、世の中には、たとえば筆者みたいな意地の悪い見方をする者もいないわけ
ではありません。


~江戸幕府が課した制裁を振り返るなら、「歌舞伎」にとっての「女優」とは、
 まさに「禍のもと」以外の何物でもなかったのだから、それ以来歌舞伎業界は、
 「おなごの舞台」をタブー扱いとしたのではないか?~

そうでないかもしれんけど、そうであるかもしれんねぇ。


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