ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

もしも編14/ツキ男の今そこにあるツキ

海軍大臣・山本権兵衛(1852-1933年)が、連合艦隊司令長官に東郷平八郎
(1848-1934年)を任命したのは、日露戦争(1904-1905年)直前のことでした。


この時、明治天皇にその理由を尋ねられた山本はこう答えたそうです。
~東郷は運の良い男でありますので~
今風なら、~ツキ男ですから~ほどの感じになるのかもかもしれません。


その「ツキ」がいかんなく発揮されたのが、いわゆる「日本海海戦」(1905年)でした。
大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア海軍の第二・第三太平洋艦隊との間で、日本海に
おいて展開された大海戦です。


もっとも、「ロシア海軍の第二・第三太平洋艦隊」との名乗りは、遠回りで分かり
にくい感じですので、もっと知られた名前で紹介するなら、「バルチック艦隊」
いうことになります。
そんなら、その「バルチック艦隊」の「バルチック」って何のことですか?
艦隊を率いるトップの名前? それとも、艦隊旗艦の船名? 


いえいえ、そうではありませぬ。
下の地図にあるバルト海が艦隊の拠点であり、名の由来ですから、もっと素直に
「バルト艦隊」と表現すれば、より分かりやすいのかもしれません。


しかし、なぜか、
~日本においてはバルチック艦隊という呼び名が広く定着している~とのことです。
そういうことなら、無駄な抵抗は止めて、ここでも「バルチック艦隊」とするのが、
オトナの態度と言うことになりそうです。


    バルト海


でも、その「バルト海」を本拠とする「バルチック艦隊」が、なんでメッチャ遠く
離れた日本海において、日本の連合艦隊と戦闘することになったのか?
要するに、何用あって日本海へやってきたのか、ということです。


それについては、ざっとこんな説明になっています。
~日露戦争時において、ロシア太平洋艦隊と日本海軍はほぼ同等の戦力であり、
 そのため、ロシア海軍は、ここへバルト海所在の艦艇をも加えることで戦力的に
 上回ることを図った~


つまり、
~第二太平洋艦隊を編成して極東方面に増派を決定し、翌年旅順要塞の陥落により
 旅順艦隊が壊滅すると、バルト海艦隊の残りの艦からさらに第三太平洋艦隊を編成し、
 極東へ送り出した~

そうした理由もあって、この第二・第三太平洋艦隊を指して「バルチック艦隊」と
呼ぶ場合が多いことは先に案内した通りです。


そして、ウラジオストック近くの、いわゆる壊滅した「旅順艦隊」の勢力を補完する
ために、~第二・第三太平洋艦隊は合流し、ウラジオストックを目指した~
この結果、ロシア海軍は黒海の外に出撃できない状況にあった「黒海艦隊」を除いて、
戦力のほとんどを日露戦争に動員することになったのです。


賭けでいうなら一点張り、別の言葉なら「生きるか死ぬか」ってことになるのかも
しれません。
そのバルチック艦隊がウラジオストックを目指していることは、軍事常識として
日本側も十二分に承知していました。


ウラジオストックへは三つのルートが考えられました。
対馬海峡ルート → 最短距離ルート
津軽海峡ルート → 航路が狭い (ロシアから見れば機雷封鎖の心配あり)
宗谷海峡ルート → 遠回り   (ロシアからすれば燃料不足の心配あり)
しかし、いずれのコースを採るものか、それが把握出来ません。


ただ、バルト海から日本海まで地球を半周する「大航海」なのですから、
そのことに対する常識もありました。
~航海中には様々な問題が発生するため、それら一刻も早くクリアするためには
 最短ルートが望ましい~


日本側もそう考え、最短である「対馬海峡ルート」に重点を置きました。
目的地目前の日本海まで来て、その先をわざわざ遠回りするようなこともないだろう
と踏んだわけです。


ところがギッチョン!
待てど暮らせど、そのバルチック艦隊は姿を現しません。
それは、ロシア本国から、~第二艦隊と第三艦隊は合流せよ~との命令が下りており、
その合流に、思わぬ時間を費やしてしまったことが原因でしたが、日本側がそれを
知る由もありません。

     

対馬海峡ルート・津軽海峡ルート・宗谷海峡ルート / 東郷ビール


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そればかりではなく、英国側がこのバルチック艦隊の日本海までの長期航海における
補給・修理・休養の面で出来る限りの妨害に努めていたのです。
それができたのは、当時世界の主要港を支配していたイギリスと「日英同盟」(1902年)

を締結していたことによりますが、つまり、バルチック艦隊は、日本海海戦の前に
すでに結構疲労させられていたことになります。


具体的には、たとえば乗組んだ将兵は上陸して休養を取ることが叶いませんし、
艦本体なら、艦底にへばりついた貝類を取り除くなどの不可欠なメンテナンス作業も
できません。
人間も艦も、戦う前にまったくヨレヨレのボロボロ状態に追い込まれていたという
ことです。


しかし日本側も、いつまでたっても姿を現さないバルチック艦隊にはさすがに
焦りを覚えました。
海軍の常識では考えにくい時間のかかり方だったからです。
そのために、~ひょっとしたら、対馬海峡以外のコースをとったのではないか~
こうした意見も出始めるようになりました。


意見が分かれて、結局は、
~バルチック艦隊は対馬海峡以外のコースでウラジオストックを目指す~
という結論に落ち着き、連合艦隊を北上させることが決定されたのです。
ただ、その方針に対してはまだ強行に反対する参謀たちもいました。


完全な意見一致とはならなかったこともあって、艦隊司令長官・東郷は、その命令を
下すのを一日遅らせたのです。
どころが、その命令を一日遅らせたまさにその日、有力な情報がもたらされました。


~バルチック艦隊に所属していた燃料(石炭)輸送船六隻が上海に入港~
この情報に接して、日本側もバルチック艦隊が対馬海峡ルートを取ることは
ほぼ間違いないとの確信を持ちました。


一日早く「北上」を実行していたら、「行き違い」になってしまうところでしたから、
命令を出すのを一日遅らせた東郷はツイていました。
~東郷は運の良い男でありますので~
実際の状況も、山本権兵衛が明治天皇に答えたようになったのです。


そして、この「日本海海戦」(1905・05・27-28)の戦闘状況は以下のように報告
されています。 戦力は、
 日本/戦艦4隻 装甲巡洋艦8隻   巡洋艦15隻 他全108隻
ロシア/ 艦8隻  海防戦艦3隻 装甲巡洋艦3隻 巡洋艦6隻 他全38隻


それに対し、損害は
 日本/水雷艇3隻沈没 戦死117名 戦傷 583名
ロシア/   21隻沈没 被拿捕6隻 中立国抑留6隻 戦死約5,000名 捕虜6,106名


ですから、日本軍の完勝と言っていいでしょう。
というより、世界海戦史上空前にして絶後の完璧な勝利でした。
しかし、「空前」はともかくとして、この先、つまり将来未来もこともあるのだから、
「絶後」は、ちょっとばかり言い過ぎはないかと思った方、それは違いますでぇ。


なぜなら、こんな説明があるからです。
~20世紀中盤以降、ミサイル技術が発達し砲の射程外で船舶を攻撃できるようになり、
 艦隊同士が海洋上で遭遇し決戦を行う必要がなくなった~

つまり、将来未来があろうとも、艦隊同士が海洋上で戦う「海戦」は、もう実行される
ことはないと言っているのです。


さて、その日本海海戦からそう日の経っていない1905年9月11日のことでした。
連合艦隊旗艦『三笠』が佐世保港内で弾薬事故のため沈没し、将兵339人も
運命を共にするという悲惨な出来事が発生しました。


ところが、本来ならこの旗艦『三笠』にいるはずの東郷は、このとき艦におらず
難を逃れています。
またしても、~東郷は運の良い男でありますので~だったわけです。


さて、ロシア統治下であったフィンランドで、日露戦争後に独立を記念して
販売されたのが「東郷ビール」。 
もちろん、そのロシアを破った艦隊長官・東郷平八郎を称えてのことでした。


ただ、こんな説明になっています。
~フィンランドでの製造販売が終了しているが、日本においては日本ビールが
 日本で製造したビールに東郷平八郎を描いたラベルを貼り、日本国内向けに
 「東郷ビール」として販売している~


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