ライバル編14/神仏百度なら御所千度
最近はあまり見かけない風景になっていますが、かつては願い事を叶えるための
「御百度参り」をする人も少なくありませんでした。
ところが、現代では逆に、こんなお問い合わせが出ることもありそうです。
その「御百度参り」って、いったいなんのことですか?
そこは気の効く筆者ですから、先回りして調べておきました。
~神社やお寺の境内の一定の場所から、神前あるいは仏前までを百回往復して
参拝し、願いごとがかなうように祈ること~
そして、その「一定の場所」に目印の石が置かれることもあって、それは「御百度石」
と呼ばれるとのことです。
その「御百度石」、つまりスタート地点から、折り返しになる神前仏前までの距離は、
それぞれその寺社の境内環境によって異なっています。
割合に短い距離のところもあれば、それなりの距離のところもあるということです。
ただ、それにしてもその間を「百回の往復」ともなれば、結構シンドサを伴うであろう
ことは容易に想像できるところです。
「御百度参り」は、なぜそうしたシンドサを課すのか?
その理由は、ある意味単純明瞭で、要するにそうした一定のシンドサがあってこそ、
願いが成就した暁には、願掛けをした側の達成感が満たされるからです。
これが仮に「十歩でOK」ということだと、ほんの片手間で出来てしまって、これでは
「神仏にすがっている」という実感も湧いてはきません。
その意味で、この「御百度参り」は願掛けをする側にも程よいハードルといえる
のかもしれません。
しかしこれが「百度」ではなく、その十倍の「千度」だったとしたらどうでしょうか。
あまりにもハードルが高すぎて、チャレンジする気持ちも失せそうです。
少なくともアナタや筆者なぞそれ系の人間は、おそらく早々に意気喪失してしまうに
違いありません。
ところがドッコイなことに、歴史には「百度参り」ならぬ、その「千度参り」の風景が
現れたこともあったのです。
それは、京都御所の周囲を多数の人々が廻ったもので、
「御所千度参り」(ごしょ せんど まいり/1787年)と呼ばれています。
その出来事の中身を覗いてみると、こんな説明になっています。
~この「御所千度参り」は(天明7年に始まり)、初めは数人だったが、その数は
段々と増え続け、三日後には三万人、十日ほどの後には七万人に達したという~
あたかも「細胞分裂」並みの増え方です。
また集まった民の中には、京都やその周辺のみならず河内や近江、大坂など遠方から
来た者もいたといいます。
では、そんなに大勢の民がいったいなんのために集まったのか?
それは「天明の大飢饉」の惨状がまだ収束していない時期だったからです。
~「天明の大飢饉」とは、江戸時代中期の1782年(天明2)から1788年(天明8)に
かけて発生した飢饉で、江戸四大飢饉の1つであり、日本の近世では最大の飢饉と
される~
そして、その「史上最大の大飢饉」の直接の原因として挙げられているのが、
いわゆる「天変地異」でした。
~1783年(天明3)年には岩木山が、数か月後には浅間山が噴火し、
各地に火山灰を降らせた。
火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、成層圏に達した火山噴出物が
陽光を遮ったことによる日射量低下で冷害をさらに悪化させることになり、
農作物には壊滅的な被害が生じ、このため翌年から深刻な飢饉状態となった~
要するに、こういうことだったのでしょう。
大飢饉の真っただ中にあった民衆は、その状況をこのように受け止めます。
~こうまで不幸が重なるのは、今の幕府に徳がないからだ~
「施政者の不徳が災いを招く」という考え方は当時としては至極当たり前の
受け止めだったのです。
さらには、この年(1787年)に徳川家斉が将軍に就任したことから、このことによる
免税や大赦などの恩恵を施す政治「徳政」を求める意味もあったと考えられます。
しかし、そういうことであるなら、こうした行動は政治実務を取り仕切る幕府に向けて
仕掛けるべきであり、それなのに政治に関りを持たない朝廷に出向いたのでは、
本来はまったくの筋違いということになります。
ということは、民の心にはこんな思いが強くあったと想像されます。
~不徳に満ちた幕府では頼りにならない~
しかし、ここまでで立ち止まってしまったのでは、現在の窮状が続くことになります。
そこで、
~幕府が頼りにできないのなら誰に救いを求めればいいのだ。
そうだ、天子様だ。 天子様なら、この行き詰った状況を、きっと何とかして
くれるのではないか~
この時の政治環境を少し整理してみると、こうなっています。
将軍は新任ほやほやの第11代・徳川家斉(1173-1841年)で、幕府老中首座は
松平定信(1759-1829年)。
そして「禁中並公家諸法度」の定めによって政治への関りが一切許されていない
天皇には、第119代・光格天皇(1171-1840年)が就いていました。
その光格天皇は、先帝(第118代・後桃園天皇/1758-1779年)の急逝に伴い、
急遽、皇位継承者として選ばれた方でしたが、真摯な人柄であり、公家や
臣下からも厚く信頼されていました。
そして、その光格天皇は実際に行動し、なんと幕府に民衆救済を申し入れたのです。
それだけに留まるものではありませんでした。
さらには、その光格天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も甥っ子(光格天皇)と同様の
申し入れを行いました。
~この窮状は、朝廷としても黙って見過ごすことはできない~
との強い強い意思表示です。
第119代・光格天皇 / 御所千度参り
また、後桜町上皇(第117代天皇/女帝)からは、この「御所千度参り」で集まった
群衆に対し、リンゴ3万個が配られました。
念のためですが、こうした行動は「禁中並公家諸法度」の定めに明白に抵触するもので、
今の感覚なら「憲法違反」ということです。
しかし、民衆に対するこうした具体的な慈善行為・支援感情を朝廷側から見せられると、
さすがに幕府とて「捨て置く」ことはできません。
そこで幕府は、京都市民に向けて米1,500俵を放出する決定を下さざるを得ませんでした。
ちなみに「米1,500俵」とは、どれほどのものなのか?
少し横道に逸れますが、折角の機会ですからおさらいしておきましょう。
~米1 俵=4 斗=400 合(400 合×150g) =約 60kg~
で換算すれば、「米1,500俵」とは、1,500俵×60 kg =90,000 kg =「90トン」と
なります。
そして、江戸時代後期頃には、
~1人1日3合(450グラム)ものコメを食べていたと推計される~
との目安に基づけば、米1俵で約133人の1日分、米1,500俵なら200,000人の1日分。
その供給がどこまでの範囲に届いたものかは分かりませんが、「大飢饉」対策としての
放出ということなら「焼け石に水」もどきの米の量にも感じられます。
さらには、朝廷側によって繰り返された「禁中並公家諸法度」違反に対しては、
幕府はこんな姿勢を示したのです。
~事態の深刻さを鑑みるなら、朝廷側(天皇や関白など)が行動を起こしたのも、
もっともなことである~
つまり「不問」としたわけです。
現代の言葉なら「超法規的措置」と言えるのかもしれません。
勝ち負けという分かりやすい話にするなら、この時の幕府は朝廷に屈したいうことです。
こうした一連の経緯は、国民の目にはこう映ったに違いありません。
〇「天明の大飢饉」は、つまるところ「幕府の不徳」が引き起こしたものだ。
〇その幕府は、大飢饉の窮状を指を咥えて眺めているだけだった。
〇「御所千度参り」によって、天子様を初めとして朝廷の方々が動いて下さった。
〇そのことがあって、米放出など、幕府もようやく飢饉対策に乗り出した。
〇血が通った政事を行えるのは、不徳の幕府より有徳の朝廷の方なのだ。
さて、江戸幕府の凋落、それに対する朝廷の躍進は、普通には
「黒船来航」(1853年)以後の、いわゆる「幕末期」になって顕著になったと
受け止められています。
しかし、この「御所千度参り」事件の顛末を眺めるにつけ、幕府の権力にはこの頃既に
少なからずの陰りが生じていたと言えるのかもしれません。
事実、この時の老中・松平定信による幕政改革「寛政の改革」は、
この「御所千度参り」が起きた1787年から始まっているのです。
そしてその「寛政の改革」は、光格天皇との関りの中で、 定信の失脚(1793年)を
招き、そのことによって終焉を迎えることになります。
ですから、この「御所千度参り」という出来事は、見方によっては、江戸幕府の凋落を
象徴した経緯だったと言えるのかもしれません。
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