ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

お国自慢編18/歴史感たっぷりの駅名変更

筆者の生息地・名古屋では、本2023年1月4日から市営地下鉄の4つの駅の名称が
変更されました。  
それには理由は二つほどあったようで、一つには「中村区役所」が新しい場所に
移転されたことで、それなのに駅名が従来通りに
「中村区役所」駅のままでは
さすがに不都合であるということ。


えぇ、この「中村」とは地元・名古屋民族以外はあまり意識していませんが、
戦国三英傑の一人である豊臣秀吉(1537-1598年)の誕生地とされるその「中村」の
ことです。
~江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村
(現在の名古屋市中村区)で生まれたとされる~


では、その「中村区役所」が移転したことに伴って、従来の「中村区役所」駅は
どんな名称になったのか? それは、ずばり「太閤通」駅でした。
この「中村区役所」があった地域は元々そう呼ばれていましたから、すんなり
「太閤通」駅で落ち着いたわけです。


ちなみに、その「太閤」とは?
まあ「前関白」ほどの意味になり、秀吉の場合は自分の後継者に指名していた
息子・鶴松(1589-1591年)が夭逝したため、甥・秀次(1568-1595年)を家督相続
の養子として関白職を譲ったことで、自らが太閤(1591年)と呼ばれるように
なりました。
ですから、ここでもやはり歴史をばっちり反映した地名になっているわけです。


 名古屋市・地下鉄案内図


ということなら、その「中村区役所」が移転した先の最寄り駅が、新たな
「中村区役所」駅になったのか? いいえ、そうではありません。
移転先はやはり地下鉄駅に近かったのですが、そこは元々
「本陣」駅との名称を
持っていましたから、近くに「中村区役所」が引っ越してこようが、駅の名称は
これまで慣れ親しんできたこともあって、そのまま継続されることになったわけです。


ただし、~そんならよぅ、「中村区役所」はどこへ行ってまったんだぁ?~
と狼狽えたり、また迷子になる御仁もあるかもしれんという心配もあってか、
副駅名として「中村区役所」が付与されることになりました。 
この気配りは嬉しい。


ちなみに、この地名「本陣」についての説明も紹介しておきます。
~「本陣」(の地名)は、豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)の帰りに本陣を設けた
 場所であるという説と、織田信長(1534-158/2年)の
萱津の戦い(1552年)に
 おける本陣跡であるという説があるという~


どちらとは断定できないものの、どうやらこの地に本陣(大将が位置する本営)が
設けられたことからきた地名であることは間違いなさそうで、いずれにせよ
ここでも戦国三英傑の名が登場しています。


さて、江戸時代になると、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した
宿舎のことも「本陣」と称しましたが、これは平和になって実際の戦というものを
経験したことのない武士たちの背伸びというか、むしろ虚栄心もどきの心根が
そう呼ばせたものかもしれません。


それはともかく、この「太閤通」駅と「本陣」駅だけでも、結構歴史感溢れる名称に
なっていますが、実は他の3駅もその例外ではないのです。
じつは、駅名改称のもう一つの理由が、
~観光地の名前を入れることで、観光客らに最寄りの駅をわかりやすくするのが狙い~
とされていますから、その意味から最初にヤリ玉?に挙げられたのが旧「市役所」
でした。


観光客には無縁とまでは申しませんが、関りの小さそうなスポットであることは
事実です。 そこで、新名称はズバリ「名古屋城」駅。
えぇ、この地下鉄駅の出口は、東は「名古屋市役所」に、西は「愛知県庁」に、
そして、北は「名古屋城」方向に繋がっているのです。
そこで、~観光客らに最寄りの駅をわかりやすくする~ためということなら、
やっぱり「名古屋城」駅がいちばんえぇのではないかということになったようです。


但し、先の「中村区役所」と同様に、従来の駅名が消えてしまうことで、
~そんならよぅ、「市役所」はどこへ行ってまったんだぁ?~
というような混乱が出ることも予想されますので、やはり副駅名として
「市役所」駅と「県庁」駅の二つを持つことになりました。 
これもめでたしめでたしです。


ついでのことに、その名古屋城についても記しておきましょう。
えぇ、戦国時代に一旦は廃城になったものの、今話題(NHK大河ドラマ)の
徳川家康(1543-1616年)が九男・義直(1601-1650年)の居城として、また
まだ健在であった豊臣(大坂)方への備えとして、1610年のこと、豊臣恩顧の
大名20人に手伝い普請を命じて築城されたものです。


そうした中で、天守台石垣は当代一流の築城家でもあった加藤清正 (1562-1611年)の
手によって築かれたものであることは特筆すべきかもしれません。
 

 

名古屋城本丸御殿 / 戦国三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)


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駅名変更の残りの二つは「熱田神宮」を挟んだ位置にある隣り合った駅です。
「熱田神宮」って?
えぇ、三種の神器の一つ
草薙剣(天叢雲剣)を祀っていることで、知らない人以外は
大抵は知っているはずの、その「熱田神宮」のことです。
実は、少し前の2013年には
「創祀千九百年大祭」が開かれたほどに由緒ある神宮
なのです。


なんだとぉ、1900年も前ってか!
そんなら、卑弥呼(生年不明-247年)の時代より、さらに100年ほども前のことに
なってしまうではないかッ!
そんなのさすがに駄ボラだろうとおっしゃる方は、筆者を含め、少なくないのかも
しれません。


そこで念のためですが、こんな向きの説もあることを紹介しておきましょう。
~「草薙神剣の創祀」と「熱田神宮の創建」とは年代が異なる~
なんのこっちゃ?


この説に従えば、「草薙神剣の創祀」は、引き算2013年-1900年の計算となり、
おおよそ西暦113年前後のことになりますが、「熱田神宮の創建」のほうは、
ずっと時代が下った仲哀天皇元年とも、あるいは大化2年(646年)であるとも
言われています。


仲哀天皇といえば第14代に数えられる天皇であり、その奥様はなんとあの女傑
神功皇后で、さらに仲哀の父親が日本武尊という家族関係になっていますから、
少なからず神話の世界の出来事と理解して差し支えないのでしょう。
ということは、結局のところ詳しい経緯まではよくは判っていないということなの
かもしれません。


さて、その「熱田神宮」の北西位置にあった地下鉄従来駅名は「神宮西」駅、
そして、その一駅南に位置していたの「伝馬町」駅ですが、この二駅もそれぞれ、
「熱田神宮西」駅と「熱田神宮伝馬町」駅に改称されました。


「創祀千九百年」超えという、悠久の歴史を誇る「熱田神宮」を表に出すのは、
観光客らに分かりやすくもあるので、むしろ出さないのではいかにもモッタイナイと
いうことなのでしょう。
実際の方向感覚からすれば、「熱田神宮西」はむしろ「熱田神宮北」に、同様に
「熱田神宮伝馬町」はむしろ「熱田神宮南」近い印象になるのかもしれません。


さて、知らない方にはメッチャ意外な事実かもしれませんが、その「熱田神宮西」駅
から徒歩5分のところにあるのが「源頼朝出生地」(誓願寺)。
えぇ、鎌倉幕府創立者である源頼朝(1147-1199年)の母親は、この熱田神宮の
大宮司・藤原季範の娘でしたから、実家に帰って出産したということなのでしょう。
ここらあたりも歴史感がたっぷりです。


さて、最後に「熱田神宮伝馬町」駅。
~今日でも「伝馬町」と称される地名が日本各地に残されている~
このように説明される通りに、「伝馬町」という名称はなにもここ名古屋の
この地に限ったものではありません。


では、その「伝馬」っていったいなんのこっちゃ?
探してみたところ、こんな説明にぶつかりました。
~(逓送用の馬のことで)主要幹線道に設置された駅馬(えきば)とは別に、
 常置して官人に供給した馬をいう~

ですから、この場合の「伝」の意味は、今風なら「リレー」ほどの意味合いになる
のかもしれません。


ということで、今回名称変更、あるいは名称追加された駅を整理すると、こうなります。
○「中村区役所」 → 「太閤通」
  ○「市役所」 → 「名古屋城」駅(副駅名:市役所/県庁)
  ○「神宮西」 → 「熱田神宮西」
  ○「伝馬町」 → 「熱田神宮伝馬町」
    ◇「本陣」 → 「本陣」のまま(副駅名:中村区役所) 


いずれのケースにおいても、そこには暑苦しいほどに「歴史」が、そればかりか
バッチリ「神話」まで絡んでいることが上の案内からも分かるところです。
そこで、生粋の名古屋っ子である筆者の率直な感想。
~なんだかんだと悪口も言われとるけどよぅ、やっぱり名古屋は歴史があって
 ええところなんだでぇ~


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