ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

落胆編18/鬱憤はある日弾けた

住兵衛

尾張の虎とも呼ばれた織田信秀(1511-1552年)と、その嫡男でる信長(1534-1582年)

の二代に仕えた平手政秀(1492-1553年)は、信秀が死ぬと後を追うように

自刃しています。


その理由については、

〇信秀亡き後の織田家の派閥争いが原因

〇後継者となった信長とは以前から反りが合わなかった

〇その若殿・信長のあまりのうつけぶりを諫めるため

などの諸説があるようですが、いずれも確実なものとはされていません。


   佐久間信盛 /


その平手政秀の死後の織田氏家臣団を筆頭家老として率いることになったのが、

これまた先代・信秀の代から仕えている佐久間信盛(1528?-1582年)でした。

この信盛には、信秀死後の信長とその弟・信行(信勝/生年不詳-1557年)との

家督争いの中で信長支持の姿勢を明確に打ち出しばかりか、反対派の一部を

寝返らせるという手柄があったことも後押ししたのかもしれません。


さらには、その「稲生の戦い」(1556年)においても信長方の武将として戦い、

その功によって信長の厚い信任を得た上に、以後家臣団の筆頭格の地位を占める

ことにもなったわけです。

戦においては、殿軍の指揮を得意としたことで「退き佐久間」とも謳われたと

されています。


ちなみに、この殿軍(しんがりぐん)とはこう説明されています。

~敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。

 そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を

 食い止めなければならない最も危険な任務であった。

 このため古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた~


つまり、佐久間信盛もまた~武芸・人格に優れた武将~だったということになります。

ですから、信長最大の敵となった石山本願寺に対する包囲戦(石山合戦/

1570-1580年)においても、当然のことのようにその中心的な立場に就いています。


三河・尾張を初めとする七カ国の軍勢を配下に収めたこの信盛軍団が、当時の

織田家中で最大規模を誇っていたのです。

ところが、その石山本願寺に対し信盛は積極的な攻勢に出ることはなく、

そのために戦線は膠着した状況が続くことになりました。


ただ、その間にも「紀州征伐」(1577年)や松永久秀討伐(信貴山の戦い/

1577年)にも織田軍の部将として出陣もしていますから、なにもヒマで退屈を

していたというわけでもありません。


そして、朝廷を仲介役とすることでようやくのこと信長と石山本願寺との間に和睦が

成立したのが1580年のこと。

同年に石山本願寺トップ・顕如(1543-1592年)が退去するや、信長が石山本願寺を

見分したのは当然のことです。


ところが、ここにおいて信長は、石山本願寺攻めの責任者である佐久間信盛と

その補佐を担った信盛の子・信栄(1556-1632年)に対して、十九ヶ条にも及ぶ

折檻状を上げ、その激しい怒りをぶつけたのです。

しかも自筆ということですから、そのお怒りはハンパなものではありません。


普通に「頭にきた」だけなら言葉で済みます。

また一つや二つ程度の叱責なら、これもまた口頭で伝えれば済むお話です。

ところが、わざわざ書面(文字)にして、しかも十九ヶ条にもわたって弾劾したと

いうのですから尋常な出来事ではありません。


   

      織田信長 / 明智光秀


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では、十九ヶ条もの叱責で信長はいったいなにを言っていたのか?

少し覗いてみましょう。

根底に信長の無念の気持ちがあったことは間違いありません。


なぜなら、十年余も戦ったのにかかわらず勝利を収めるどころか、朝廷の仲介を

得る形でやっとのこと和睦に持ち込んだという按配でしたから、天下人を目指す

信長にとってはメンツまるつぶれの体だったからです。

ということは、信長がメッチャ大きな屈辱感を覚えていたとしてもなんらの

不思議もないということです。


実際その折檻状にはこんな意味のことも書いています。

固い文章よりは話し言葉の方が分かりやすいでしょうから、そこは信長が日頃

使っていたであろう尾張弁にアレンジしてみました。

筆者の心ばかりの親切です。


~おみゃあ達(佐久間父子)は7ヶ国から与力を付けられながらよぅ、眼前の敵・

 本願寺と合戦をするでもあれせんし、さりとて調略を用いるでもあれせんし、

 ただただ守りにばっか走って、自分たちの蓄財に励んどっただけだがや~

頭に血が上っていますから、言い回しは露骨になります。


職務怠慢の判定を下すために、比較する対象として佐久間信盛の同僚たちの

活躍にも触れています。

~えぇきゃあ、おみゃあ(佐久間信盛)の同僚たちの働きをみてみやあ。

 明智光秀(1528-1582年)は丹波平定で、羽柴秀吉(1537-1598年)は

 中国方面で、池田恒興(1536-1584年)は花隈城(兵庫県)攻略、

 柴田勝家(生年不明-1583年)なら加賀平定と、それぞれがどえりゃあ精を

 出しとっただろうにッ!~


つまり、

~それに比べたら、その間のおみやぁ(佐久間信盛)はサボりまくっとったがや!~

という叱責です。 

ところが、実際はこれだけでは済まず、よほど腹に据えかねたものがあったのか

信長の叱責は何年も以前の出来事にも遡っていきます。


~「三方ケ原の合戦」(1572年)の折には、自軍から一人の討ち死にも出さんように

 図って味方を見殺しにしてまったし、そればかりではあれせんでぇ、

 朝倉攻め(1573年)の際には、おみやぁ(佐久間信盛)を説教したワシに口答えを

 しやがったことも、ワシは全然忘れとれせんぜぇ~


ちなみに、この「口答え」とは以下の経緯を言っています。

この朝倉攻めの際、家臣たちに対して朝倉を逃がさないように厳命していた信長は、

朝倉軍が撤退したときの先陣の追撃が遅れたことです。


この時に、自らの落ち度を認めたものか、柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉ら

先陣の諸将らは謹んで陳謝したのですが、ところがひとり信盛だけは涙を流しながら

こう弁明したのです。

~そのように言われましても、我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい~


これは、

~我々のような優秀な家臣団でも成し得なかったのが事案なのだから、

 殿の要求の方が高すぎる~という気持ちを滲ませての言葉でしょう。

その時の信長は信盛のこの発言を不問の形としましたが、実際には相当アタマへ

来ていたようです。


なぜそんなことが分かるかといえば、七年も前のこの問題を蒸し返し、今回の

「十九ケ条の折檻状」に改めて書き記しているからです

手元に届いたこの折檻状を目にした佐久間父子が驚愕するのは当然です。


信盛は畿内方面軍・軍団長と筆頭家老の地位を捨て早々に嫡男・信栄と

少数の郎党達らと共に高野山へと上りました。

実質的な失脚であり織田家追放です。


しかし、信長のこのやり方は、自身が天下の主であることをアピールするには

有効だったでしょうが、長期的に見ればマイナスの方が大きかったのかもしれません。

というのは、長年の家臣たちの気持ちに大きな影響を与えたとも思われるからです。


~一旦不興を買えば、殿(信長)はそれを生涯忘れぇせんのだ~

それだけではありません。 仕える立場から言えばこうなります。

~自分に些細な落ち度でもあろうものなら、それは決してリセットされることもなく

 死ぬまでついて回るものなのだ~


30年もの長きに渡って筆頭家老を務めた佐久間信盛ですらツルの一声で

追放されたのだから、その立場にないヒラの家臣などなら、きれいさっぱり始末されて

しまうかもしれない。

このような受け止めになっても不思議ではありません。


実際、羽柴秀吉などは、あまりテキパキと進めると却って機嫌を損ねてしまうのでは

ないかと心配したものか、中国攻め(1577-1582年)では最終段階になって、

信長に対して援軍を要請しています。

睨まれないための、秀吉なりの気配りだったかもしれません。


この辺りは秀吉の器用さと言えそうですが、明智光秀のその点の受け止めはまた別で、

~些細な落ち度でも殿(信長)の場合は、時効もなければ弁明もとんと通用する

 ものではない~

こうした思いを心の奥底に沈殿させたことも考えられます。


つまり、主君・織田信長に対する家臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」(1582年)の

遠因の一端は、案外、佐久間信盛父子に対するこの「十九ケ条の折檻状」にあったかも

しれないということです。

えぇ、なにしろこの折檻状から光秀の謀反まで、わずか二年のことだったのです

からねぇ。


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