ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

逆転編14/もののふの美学となった

10月のアメリカ大統領選挙に続き、11月に入ってからは国内の衆議院選挙、

さらには、その経緯が話題になった兵庫県知事選挙、ついでのことに筆者の
生息地での名古屋市長選挙と、このところあれこれの選挙が慌ただしく続きました。


そして結果といえば、アメリカ大統領選は事前予想されていた大接戦どころか
圧勝・惨敗の形になり、衆議院選挙は与党の過半数維持どころか大きく割り込み、
さらに兵庫県知事選挙は、伝えられていた経緯を信じるなら、想定外の結果にも
思えました。(ちなみに、名古屋市長選挙は11/24投開票)


要するに、筆者はどの選挙の事前当落予想もことごとく「大外れ」を食らったと
いうわけです。
その理由は、各メディアが伝える内容を何の疑念を抱かず無邪気に信じていたことが
挙げられそうです。 
なにせ筆者は、根が純粋素直で人畜無害という定評を得ているくらいですからねぇ。


そこで、うっちゃりというか肩透かしというかドンデン返しというか、まさに
大きな意外感を味わうはめになったわけです。
さて、そうした「賑やかな日々」がしばらく続いたこともあって、少し落ち着きを
取り戻そうと、ひょいと本を手に取りました。


いやねぇ、「読書」というほどの高尚な気持ちはなかったのですが、ところが
たまたまのこと、その本の中にこんな一節を見つけたのです。
折角ですから、それを今回取り上げてみることにしました。
ということで、まずはその一節を書き写すことから始めましょう。


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 切腹――その始まりは、永延二年(九八八)の藤原保輔とも、文治五年(一一八九)
の源義経とも伝わる。
面目を重んじる武士が、わざわざ苦しみの多い自裁方法をとることで、
己が名誉や潔白、無実を主張した。 
 当初は只々凄惨なだけの死に方であったが、天正十年(一五八二)の備中高松城、
清水宗治の死に様があまりにも堂々としており、美的かつ華麗であったため、
切腹に対する審美的な評価、憧れが武士の間に広まったとされる。
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      三河雑兵心得 拾弐 「小田原仁義」 井原忠正:著 双葉文庫


   源義経


ちなみに、この本は、タイトルに「拾弐」(12)という数字があることからも分かる
ように、全体としてはメッチャの長編シリーズになった時代小説のうちの一冊です。


それはともかく、「切腹」について述べた上の短い文章の中に三人の名前が
挙げられています。
とはいうものの、その中には筆者が知らない名前もあるので、ここは一応押さえて
おく必要がありそうですから、一応以下のように整理してみました。


藤原保輔/(生年不明-988年) 平安時代中期の貴族・盗賊。
 ~「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と
  記されているほど盗賊としても有名~


貴族であり、かつ盗賊である、なんていささか面白すぎる感じですが、
少し前の時代の藤原純友(生年不明-941年)なぞも、
~平安時代中期の貴族・海賊~なんて紹介になっていますから、こうした「二股」は
この時代にはさほど珍しいことでもなかったのかもしれません。


そして、上の説明にある「追討の宣旨」(朝廷の意向)とは、現代なら「指名手配」
もどきのものでしょうか。
もしそうなら、つまりは「重要指名手配被疑者・藤原保輔」という立場を15回も
繰り返したことになるわけで、そうしたことからもかなりの迫力を備えた存在だったと
捉えてよさそうです。


そればかりではありません。 さらにはこんな案内も。
~なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、
 翌日その傷がもとで獄中で没したという。
 以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという~


グェッ、あまりに凄惨過ぎてなるべくなら想像もしたくない光景ですが、案内は保輔の
「切腹」という行為についても事細かく伝えています。
なにしろ「記録に残る日本最古の切腹の事例」ということですから、日本の歴史に
おいてもやはり特筆すべき事柄という意味合いなのかもしれません。


さてお次に控えるは、高い知名度と人気を誇る、ある種のヒーロー的な存在と言って
いいのかもしれない御仁です。


源義経/(1159-1189年) 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
 ~この時期、義経と奥州・藤原泰衡(1155?-1189年)の間にどのような駆け引きが
  あったのかは不明だが、結果として泰衡は鎌倉の圧力に屈して
  「義経の指図を仰げ」という父(藤原秀衡)の遺言を破り、閏4月30日、
  500騎の兵をもって10数騎の義経主従を襲った(衣川の戦い)~


多数に無勢という状況に追い込まれたその「衣川の戦い」(1189年)において、
~武蔵坊弁慶を始めとした義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討死、
 もしくは切腹した。
 館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦わず持仏堂に籠り、正妻の郷御前と
 4歳の娘を殺害後、自害したとされている。 享年31(満30歳没)~


ここでは「義経切腹」ではなく、「義経自害」との表現になっているのは、
ひょっとしたら、確かな目撃者がいなかったせいなのかもしれません。
しかし、当時すでに、こうした状況に陥った際には「切腹で果てる」ことを常識的な
行為としていたことが窺えないわけでもありません。


ただ面白いのは、上の小説「小田原仁義」では、この「義経自決」(1189年)も、
また先の藤原保輔(988年)の自害決行と並んでともに切腹の始まりの候補としている
点です。 そこに200年ほどのタイムラグがあるにも関わらず、です。



 

          清水宗春 / 「三河雑兵心得 拾弐」


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そういうことなら、その間の時代にはあまり「注目も人気もなかった自決方法」だった
ようにも考えられそうです。
なにせ、~保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して~という、なんとも
ド迫力の行為ですから無理もない気もします。


ところが、その源義経の時代から、これまた400年ほど後の時代になって登場した
人物もまたこの「切腹」を決行しているのです。
それが、この御仁。


清水宗治/1537-1582年 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
 ~天正10年(1582年)4月、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が
  中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する(備中高松城の戦い)~


お話は続いています。
~秀吉は降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという条件を出したが、
 宗治は応じず、信長からの誓詞をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示した。
 そのため、黒田孝高(黒田官兵衛)が策した水攻めにあって城は落城寸前に
 追い込まれたが、輝元自らが吉川元春・小早川隆景とともに救援に赴いたため、
 戦線は膠着状態となった~


その「水攻め」とは、具体的にはこんな按配でした。
~高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落とされていたため、攻城戦は持久戦となった。
 黒田孝高の献策により城を堰堤で囲む土木工事が開始された。
 これにより低湿地にあった高松城を水没させるというもので、世に言う
 
「高松城水攻め」である~


そして、
~この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、
 その報を知った秀吉は信長の死を伏せて、宗治の命を条件に城兵を助命する講和を
 呼びかけた~


当初のうちはともかく、「水攻め」によって物資の補給を完全に閉ざされたために、
~(信長の死を知らない)宗治は、これを聞いて、家臣の助命と主家へ義理を
 立てるために、自身および重役3名の命と引き換える旨の嘆願書を秀吉側に託した。
 結局、宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後の6月4日に重役3名とともに
 水上の舟において切腹した。 享年46歳~


前出の小説「小田原仁義」は、この出来事を非常に大きく取り上げていることになります
~当初は只々凄惨なだけの死に方であったが、天正十年(一五八二)の備中高松城、
 
清水宗治の死に様があまりにも堂々としており、美的かつ華麗であったため、
 
切腹に対する審美的な評価、憧れが武士の間に広まったとされる~


もしそういうことなら、清水宗治ら4名の死に様は何百年もの長きにわたって続いてきた
「凄惨な自決手段」という評価を根底から覆して、「華麗な自決作法」との評価に
変身させたことになります。
なにしろ「凄惨から華麗へ」ですから、昭和時代の「モーレツからビューティフルへ」
より、さらにインパクトのある「大逆転」です。


しかし、それが「トレンディな感覚」として歓迎されたにせよ、
根っから気の小さい筆者なぞは、切腹よりは一服、割腹よりは恰幅の方を選びたいと
思っている今日この頃です。


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