ペテン編05/覆面蔵人の公文書偽造
最初にこのお話を知ったときには、てっきりよくある歴史ヨタ話の類かと思いました。
しかしどうやら然にあらずで、逆に歴とした史実ということです。
そこで幾分の前説を加えながら、そのお話を取り上げてみた次第です。
さて奈良時代以降の天皇の命令には「詔」とか「勅」があって、それらの総称を
まんま「詔勅」と言ったようです。
それについてはこんな説明になっています。
~(第42代)文武天皇の定めた大宝令が詔勅の制の初見であった。
公的注釈では、「臨時の大事を詔となし、尋常な小事を勅となす」として、
事の大小により詔と勅とを区別した~
ただし、後世の詔・勅に関する用例は、必ずしもこの定義に準拠していなかった
ようです。 なぜなら、
~臨時の大事に詔と称し尋常の小事に勅と称するといっても、臨時にも小事があり、
尋常にも大事があって、事の大小を必ずしも厳密に区分できなかったからである~
そりゃあそうでしょうね。
早い話が「大事か小事か」を決めるには、そこに付随する数多の要件までをも吟味
する必要もあり、これってメッチャ大きな難儀が伴うものですものねぇ。
要するにこの場合は、必ずしも筋の通った判定ばかりとはならず、それなりの
「カオス状態」が残ってしまったということなのでしょう。
そして天皇の命令形式もまた数多あったようで、次のようなものが紹介されています。
〇勅旨(ちょくじ)/天皇の言葉や命令、それを記した文書。
〇宣旨(せんじ)/勅旨を宣し下達すること、またその命令を指す。
いささかうるさく感じる定義が並びますが、こうした事柄に対する筆者の率直な感想を
表すなら、要するに「筆者には両者の区別はよくわからん」ということになります。
さらには、そうした中のひとつの形式に「綸旨」があったとされています。
「詔」や「勅」などはそれなりの格式があって、その手続きには時間も手間もかかる
ためにタイムリーでスピーディな対応が困難という大きな欠点を抱えていました。
そうした欠点を解消したものが「綸旨」という刑式で、これは基本的には天皇の意向を
承った蔵人(天皇秘書官?)が作成し、その蔵人本人の署名をもって発行でき、
その上にそのまま正式な天皇の命令書としての効力を持つというものです。
ですから、天皇自らのサインなどを不要とする分だけ、よりタイムリーでスピーディな
対応が可能になるというわけです。
後醍醐天皇
さて、第96代(&南朝初代)後醍醐天皇(1288-1339年)です。
天皇を中心に据えた、いわゆる天皇親政を目指した「建武新政」(1333-1336年)に
おいては、これまでの土地政策を抜本的(大胆苛烈?)に見直しました。
簡単に触れると、こういうことです。
自分が天下を取る以前の従来の土地所有制度、これはハナから「なかったもの」として、
新たに自分が認めた件だけを正式な「土地所有」として認めよう、という政策です。
また「その是非の裁定は裁判官であるオレが下す」とする宣言でもありました。
えぇ、この政策断行は従来の土地所有者にとっては脅威も脅威、大脅威でした。
なぜなら、ウカウカしていようものなら自分の土地が無くなってしまうことだって
あり得るというワケですから、大いに慌てふためくのも無理はありません。
まさに驚天動地の一大事であり、平たく言えば「そんなの聞いていないよう」、
あるいは「お代官さまぁ~」といったところです。
その流れは当然ながら、後醍醐天皇の手元にハンパでない数の「訴状」が殺到する
ことになります。
なにせ、自分の土地が残るか消えるかの瀬戸際ですから皆必死です。
そして訴状の多くは、こんな内容でした。
~私の土地はカクカクシカジカの経緯をもち由緒正しいものですので、どうか
従来どおりに土地の所有をきちんと公認してくださいナ~
こうした種類の「訴状」の決済に用いられたのが先の「綸旨」でした。
所有権の確認ということなら具体的な事務処理作業ですから、煩雑な手続きを
踏む詔や勅までは必要ないということなのでしょう。
そうした背景があって、最初のうちは当然のこと、規則通り律義に蔵人に作成・サイン
をさせていたのですが、ところが寄せられた訴状の数といったら、なにせこれが
ハンパな量ではありません。
少しの間は続けてみたものの、次第に決済に遅れが出てきます。
膨大な数の訴状ですから、「蔵人の人手不足」に陥ってしまったということです。
しかもそれだけに留まりません。
「未決済書類」は雪ダルマのように増え続けて、遂には身動きが取れない状況にまで
陥ったのです。
そうした急場に、颯爽と?登場したのがタイトルにもある「覆面蔵人」でした。
この「覆面蔵人」は、訴状処理の危機的状況を解消するために「蔵人・〇〇」の名を
使って大量の「綸旨」作製に乗り出したのです。
つまりは、こういうことでもないことには、とてもじゃないが全部の訴状を
さばききれないところまできていたということです。
さて、ではその「覆面蔵人」とはいったいどこのどなただったのか?
驚くなかれ、実は後醍醐天皇その人でした。
ええっ、でもこれって、とっても変な運びじゃありませんか?
南北朝
だって、そうでしょ。
天皇自身が蔵人の名を騙って「綸旨」を作るくらいなら、ハナから直接「詔/勅」の
類の命令書を作って、それに自分のサインをすればよさそうに思えるからです。
ところがギッチョン、先にも述べたように、
~「詔」や「勅」などはそれなりの格式があって、手続きには時間も手間もかかる~
のです。
そこで、自分の政策成果をなんとしてでも示したい後醍醐天皇は、やむなく
守備範囲外の「綸旨」にまで手を染めることになっていったのです。
ところが、これはこれで先の前説にもあるように
~正式な綸旨には、必ず(本物の)蔵人のサインが必要~なのです。
要するに天皇自身のサインでは「正式な蔵人」のサインとはならないわけで、つまりは、
そのために「正式な綸旨」とはならないのです。
正式な書式にてらせば、あくまでも「ニセモノの綸旨」だということです。
あっちゃー! そこで「後醍醐天皇、蔵人を騙る」です。
逆に言うなら、とにもかくにもタイムリーでスピーディな決済が必要ですから、
手続きが簡単な「綸旨」を駆使したいのですが、そうするためにはこの場合、
後醍醐天皇自らが、そこに蔵人の名をサインをする方法しか見つけられなかった
ということです。
天皇の命令書を、その天皇本人が発行しようとしているのに、です。
「形式主義」の極みとも言えそうですが、どこかの国ではこうしたことが昔も今も
お好きなようです。
さて、その後醍醐天皇自身がいったいどんな心境をもってこの作業に没頭していた
のかは知る由もありません。
しかし、この光景をハタから見れば、かなり漫画チックな姿に映ることだけは間違い
なさそうです。
だって、至高の存在である天皇が、逆にグッと低い身分の蔵人を騙るのですからねぇ
おそらくは、自分の「理想」を実現させるために無我夢中の後醍醐天皇は、
自分の姿を客観的に眺めるだけの心の余裕はなかった、ということなのでしょう。
しかしこうした姿は、なにもこの「ニセ蔵人」だけに留まらず、いわゆる武士団との
関わり方も例外ではなかったように見えます。
鎌倉幕府を倒幕するための活動においては、当初友好関係にあった足利尊氏
(1305-1358年)も、後には後醍醐天皇自らの「建武新政」を潰すような形で
室町幕府を開いています。 それだけではありません。
楠木正成(1294?-1336年)という天才的な戦略家を手元に抱えながら、
その才能を生かすこともできませんでした。
そうした出来事の根源には、後醍醐天皇のこんな気持ちがあったのでしょう。
~彼ら(尊氏/正成)は戦さが好きなだけの穢れた武士に過ぎないが、
朕はハナからレベチの至高の存在、つまり天皇なのであるぞよ~
だから、卑しい足利尊氏や楠木正成の意見具申なぞはチャンチャラ可笑しくって、
聞く耳なぞ持てん、ということです。
かくしてこの「唯我独尊」の天皇親政政権は、誕生からわずか二年半で
崩壊してしまいました。
まあ何事にせよ、あまりに一生懸命になりすぎると周りが見えなくなってしまい、
結果として滑稽な姿を晒してしまうことにもなりかねません。
えぇ、滑稽はやはり顔だけに留めておいた方が無難だということです。
いえね、筆者のことではなくアナタことを話題にしているのですよ、これが。
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