ヤジ馬の日本史

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謎解き編37/生年未詳なれど数え11歳

~古典文学『太平記』の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた
 逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であった~

こんな説明に接したとしても、その「戦前教育を受けた者」になる方々が今や
絶滅危惧種?並みの現在では、その「大変有名な話」の有名度もイマイチよく
分かりません。


そこで、その『太平記』の名場面とはどのようなものなのか、Wikipediaを頼りに
しながら、ちょっと探ってみることにしました。
お話の主は楠木正成・正行の父子です。


楠木正成(大楠公とも/1294?-1336年)
 河内の悪党(幕府反抗者)で、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加し、巧みな
 兵法と知略で幕府の大軍を防ぐ。
 のちに建武政権に反した足利尊氏との湊川の戦いで敗北し、弟正季とともに自刃した。


楠木正行(小楠公とも/生年未詳-1348年)
 正成嫡男で、南北朝時代には南朝の後村上天皇に仕えた代表的名将。
 楠木氏棟梁であり、正時・正儀の兄。


そして、お話は、
~九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に
 対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった~

とあります。


この時楠木正成は後醍醐天皇に対して、こんな対応を取るべく強く進言したようです。
~この状況下で尊氏軍勢の迎撃はメッチャ困難なので、この際思い切って和睦するか、
 または、いったん都を捨てて比叡山に上り、カラになった都に足利軍を誘い込んだ後、
 これを兵糧攻めにする~


しかし、後醍醐天皇はウンといいません。
~正成よ、冗談は休み休みにしなさい。
 天皇たるワタシが、なんで和睦したり都を離れたりしなきゃならんのだッ~

いずれの妙策も聞き入れられることなくボツにされてしまったことで、正成は死を
覚悟して、次に控える湊川の戦場(兵庫県)に赴くことにします。


 桜井の別れ(父・楠木正成/子・正行)


さて、「名場面」の目玉(核心)部分はここからです。
~その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて~
当然ですが、ここの「桜井駅」とは、現在のJR万葉まほろば線にある「桜井駅」
(奈良県桜井市)のことではありません。


古代律令制度下の西国街道(京-西宮)に面した桜井(大阪府)の駅のことであり、
つまり街道の所々に交通・通信のために馬・舟・人夫などを供給するための場所、
あるいは宿場のことを意味する「駅」です。


さて、この段で嫡子・正行の当時の年齢が「数え11歳」とされているのも実はとっても
ヘンなのです。
なぜなら、その戸籍証明書?に従えば、「生年未詳」のはずだからです。
この点は後でも触れることにして「名場面」をもう少し追ってみることにしましょう。


以降が、この時の父・正成と嫡子・正行の会話です。
父・正成 ~正行よ、お前を故郷の河内へ帰す~
子・正行 ~ゲッ、そんなぁ。 いくら父上の命ではあっても、またボクがいくら
      年若いといっても、死出の旅ですからお供をしたいのです~

湊川の戦に臨めば生き残ることはあり得ないことを、両人ともがとっくに悟っている
わけです。


そこで、父・正成は子・正行に翻意を迫ります。
父・正成 ~えぇか、よう聞け。 お前を老いた母の元に帰すのは、ワシが討死にした
      後を考えてのことなのだ。 ワシが死んだら逆賊・足利尊氏の天下となろう。
      だからして、お前の務めは帝(
後醍醐天皇)のために忠義の心を失わず、
      一族郎党一人でも生き残るようにして、それでもって、いつの日か朝敵を
      滅ぼすことにある~


そしてこの時、父・正成はかつて帝より下賜された短刀を形見として子・正行に授け、
今生の別れを告げたとされています。
えぇ、この「名場面」は、唱歌「桜井の決別」(作詞:落合直文/作曲:奥山朝恭)
にもキメ細かに歌い上げられていますから、おヒマな読者は下のリンクからその一節を
お聴きいただくのも一興かもしれません。


 唱歌「桜井の決別」


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まずは、そのタネ本である『太平記』についての説明を見ておきましょう。
こんな按配になっています。
~南北朝時代の(1368~1375年の成立とされる)軍記物語(40巻)で、
 
小島法師(生年未詳-1374年)の作と伝えられるが未詳。
 鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を華麗な和漢混交文で描く~


ここでターニング・ポイントとなる「湊川の戦い」(1336年)に関わった人物や事柄も
少し整理してみました。
政治体制の大変動ともいうべき時期を理解するためには、前出の楠木父子の他にも
これらのメンバーに触れておく必要がありそうだからです。


後醍醐天皇(第96代/1288-1339年)
 王政復古を志して鎌倉幕府打倒を計画したが、正中の変(1324年)、
 元弘の変(1331年)の両度ともに失敗して隠岐に流されたものの、脱出を果たし、
 鎌倉幕府の滅亡に建武新政府を樹立しました。
 ところが、この親政に失敗して足利尊氏と対立し、吉野に移って南朝を開きましたから、
 いわば「南北朝時代」の仕掛け人とも言うべき存在でした。


足利尊氏(室町幕府初代将軍/1305-1358年)
 初めは高氏の名でしたが、後醍醐天皇の諱(本名)・尊治のから一字を賜わって
 尊氏と称しました。
 元弘の変で六波羅(地名)を攻め落として建武の新政に貢献しましたが、のちに
 離反して光明天皇(北朝第2代)を立てて、自らが征夷大将軍(1338年)と
 なって室町幕府を興したものの、その後は国内治まらず、弟・足利直義(ただよし/
 1306-1352年)や、直義の養子・足利直冬(尊氏の御落胤/1327?-1387年)ら
 との争いが続きました。


湊川の戦い(1336年)
 摂津国兵庫(神戸市兵庫区)の湊川の付近で、九州から東上した足利尊氏・直義軍が、
 新田義貞・楠木正成ら朝廷側の軍を破った戦い。
 正成は敗れて弟正秀とともに自刃しました。


お話の輪郭がだいぶ見えてきたようです。
そして、つまりのところ、この楠木父子を語る『太平記』はこういうことを強調した
かったように見受けられます。


〇自分の進言を理解できない、また取り上げもしなかったダメ主君(バカ殿)のために
 命を捧げた父・正成の行動は「忠」の鑑である。
〇また、父・正成に殉じるつもりが諭され、父のその意を汲んで翻意したて子・正行の
 行動は「孝」の鑑である。


つまり「忠と孝」です。 えぇ、儒学(儒教)では最高の徳目とされているものです。 
で、その儒学の過激的改訂版?ほどの位置づけになるのが朱子学です。
~南宋(中国)の儒学者・朱熹(1130-1200)が大成した新しい儒学(新儒教/宋学)
 で、日本では江戸幕府から官学として保護された~


また、至高の存在である天皇と河内の一介の悪党(幕府反抗者)が連携連帯する姿は、
本来ならとても考えにくいことなのですが、この「朱子学」を通じて両者が結び
ついたと理解するなら、それほど飛躍した見方でもない気もします。


で、今回の「謎」です
~「生年未詳」のはずの嫡子・正行の年齢が、なぜ「この時数え11歳」とされているか~
筆者はこう受け止めています。
おそらくは、朱子学の理念をより強調するための、一種の「演出」というところでは
ないか。


えぇ、ぶっちゃけて言うなら、このような理解です。
~「死出の旅のお供を申し出る」などという究極の行為は、それを申し出る人物の
 年齢が若い(幼い)ほど大きな感銘を生む~
もっとも、これが「数え3歳」なんてことではさすがに嘘っぽくなりますが、
利発な子の「数え11歳」ということならあり得ないわけではありません。


これでも分かりにくければ、貴方が『太平記』の読者だとして考えてみましょう。
さて「桜井の決別」の場面で同じセリフを吐くとして、その時の嫡男・正行の年齢が
(仮に)「数え21歳」の場合と、お話にあるように「数え11歳」の場合と比べたら、
アナタが受ける感銘は一体どちらが大きくなるのか?


まあ大抵は、年若い方つまり「数え11歳」の方という答えに落ち着くものでしょう。
つまり、『太平記』の作者・小島法師は、読者に忖度というか、あるいはそこに
脚色または演出が働くというか、いずれにせよ現代でいうところの厳密な意味での
(虚構を用いない)「ノンフィクション」のお話とは捉えていなかったということ
なのでしょう。


無理もありません。
~ノンフィクションの語が使われるようになったのは20世紀の初めとされ、
 ノンフィクション・ライターが登場するようになったのは1960年代から

 1970年代にかけてである~


このように説明されているようにメッチャ新しい概念なのですから、『太平記』
純ノンフィクションでないとしても当然過ぎるほど当然なことに思えてくるのです。



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